中二病ルネッサンス

京アニの最新作のアニメ「中二病でも恋がしたい!」の第一回を見て、私は考えさせられてしまった。
いつも思うが、京アニが描く学校の風景は、どこか、田舎だ。田舎というのは、なんというか、一言で言うと、
なにもない。
いや。正確に言えば、なにもないわけじゃないわけで、だから、田舎にも、それぞれ違いはあるわけだけど、まあ、総じて、田舎なのだ。
今、私は東京に住んでいるが、そこと比べて、じゃあ、自分が今住んでいる辺りが、言うほど「都会」として、なんか、特別か、と言われると、別に、そんなふうには思わないが、いずれにしろ、間違いなく言えることは、
差異
なのだ。私は、おそらく、東京出身の人には、その感覚って、なかなか理解されないんじゃないか、とは思う。
東京は言わば、日本の情報の発信源のようなところがあって、若者文化が、ここから、日本中に発信されている、というイメージがある。絶えず、ここから、なにもかもが生まれ「続けている」、そして、それが飽きることがない、というような。
それに対して、田舎は、いたって、なにも起きない。ただ、静かに、季節が巡っている、というような感じだ。しかも、東京のように「内部」から、新しい情報が生まれてくる、という感覚がない。つまり、徹底して、

  • 流行から遅れている

のが、田舎の特徴だ。田舎は、とにかく、「ダサい」。田舎者「が」ださい。しかし、そのダサさは、言わば、

  • 遅れ

なのだ。それを最先端の情報に乗り遅れている、と言ってもいい。そういった、田舎者のダサさが、都会人をいらだたせる。彼らのイモっぽさは、都会人にとって、たんに、キモいし、笑いのネタだ。
しかし、他方において、田舎者の側から見たとき、そういった田舎の「なにもない」感は、つまりは、「ないことが無を意味しない」ということなのである。情報がない。図書館にも、たいした本が置いていない。こういったことが、逆説的だが、ある種の、

  • 豊穣さ

を意味している面もある。田舎には、情報がなかった。じゃあ、そういった子供たちは、その暇になっている時間を、ぼーっと「だけ」して、生きていたわけではない。彼らは、その「隙間」で、多くのことを考える。
ここで、中二病とはなんなのか、というような話をしたいとは思わない。近年の、テレビゲーム文化の浸透は、必然的に、SFファンタジー的な
教養
を形成していく。中二病というのも、基本的には、これらと並行して、存在している。
主人公の富樫勇太(とがしゆうた)は、中学時代の、自らの中二病による、クラスでの孤立から立ち直るために、高校は、自分を知らない遠くの高校に進学する。
中二病を克服することを決意する彼の前に、今も、中二病まっさかりの、小鳥遊六花(たかなしりっか)は、彼も、自らと同類の中二病である臭いをかぎつけ、彼になつくようになる。
しかし勇太は、なんとか、高校生活においては、中二病を克服しようと、過去の黒歴史を封印しようとするが、彼女は、それを「やめてほしい」とお願いする。

勇太「ゴミなんだから、勝手に出してきちゃだめって言ってるのに」
六花「ゴミ...」
勇太「ああ」
六花「それは、ダークフレイムマスターの命なのに」
勇太「だから言ってるだろ、おれはそういうのはもう終わりにしたの」
六花「どうして」
勇太「はずかしいから」
六花「かっこいい」
勇太「かっこよくない、これっぽっちもな」
六花「...」
勇太「だいたいな、あんなことやったって、なんの意味もないんだぞ、闇の炎も、暗黒龍の力ちからも存在しないのに、それを、馬鹿みたいに」
六花「ある。力はある」
勇太「ないよ」
六花「ある」
勇太「あのなー」
六花「ある、だから、捨てないでほしい」
勇太「...はー。闇の炎に抱かれて消えろ」
六花「...」
勇太「誤解すんなよ。さすがに捨てるのはもったいないと思っただけだ。オークションにでも出して金にする」
六花「うん」
勇太「中に入ろうぜ。いつまでもこんな所にいたら、風邪をひくぞ」
六花「うん」
(アニメ「中二病でも恋がしたい!」第一話)

ここには、二人のフェーズの「ずれ」が存在する。六花にとって、勇太は、同じ認識を共有する「同士」のように見えているが、勇太にとって六花は、過去の自分の「恥」を見るようで、つらい感情が湧いてくる。
他方、六花には、勇太が捨てようとしている剣は、彼にとって、非常に大事なもの「だった」ことが分かる。だからこそ、今の今まで、大事に持っていたのだから。それは、逆に言えば、六花が今大事にしているものに「相等」するものであることを意味する。つまり、彼がそれを捨てることは、彼女が今、大事にしているものの「価値」を否定されているように思うのだ。
他方において、勇太は、その、六花による勇太への「捨てないでほしい」を、「理解」し「共感」する。それは、過去の自分が、もし、
あの時
こうしたら、同じように思っただろうことを知っているからだ。

アニミズム的に考えてみれば、この世の、あらゆる森羅万象は、悠久の人類の歴史と比べれば、すべて中二病と言っても不思議ではないだろう。
あらゆる学問とは、すべて「仮説の体系」である。有限の人間が、すべての人類の知を確認することはできない。なんらかの、「仮説」を受け入れることなしには、なにも推論することもできない。そういう意味では、中二病の「闇の組織」と似たようなものだ。
古代ギリシアホメロスも、日本の古事記の伝承も、みんな、中二病だ。そんなものに入れこんだ、ニーチェも、本居宣長平田篤胤も、中二病だ。
山崎闇斎神道朱子学も、こういったものを根本にすえて、国家を作ろうとした、明治憲法も、中二病だ。
私は最近、哲学は終焉すると言ったが、それは、ニーチェが「神は死んだ」と同じ意味で言っているのであって、ということは、

ということを意味している。
私たちが、夏の日に海で泳いだことも、秋祭の夜店を歩いて花火を見たことも、すべて「あった」のだ。「思い出」なのだ。
私は、結局のところ、人間は、最後は「アニミズム」的存在であることを知ることからしか始められないと思っている。自らが、この人類の悠久の歴史の中の、一瞬を、過ぎ去る、はかない、存在でありながら、

  • あの日
  • あの時

出会った一瞬は、間違いなく、確かに存在し、ここに刻まれている。お前は生きていた。そして、そこで語ったんだ...。