文化の隔世遺伝

柄谷さんは、一時期、よく「他者」という言葉を使った。その多くは、文芸批評の文脈であったように思うが、普通に考えると、この言葉は、ちょっとロマンティックに聞こえる。つまり、ちょっと、神秘的な印象を受ける。
なにか、よく分からない存在、自分が出会ったことのない存在をイメージするとき、この「他者」という言葉は、便利だ。つまり、ウムハイムリッヒ(=不気味)な存在について言及するとき、「他者」と言っておけば、それでいいように思えるから。
しかし、そのように考えるのなら、それは「共同体」の「内部」で流通するキーワードでしかなくなる。つまり、そういう意味で使うなら、どんなに「他者」という言葉で説明していても、それは、(柄谷さんの言葉で言うなら)「異者」のことなのだ。
では、「他者」とはなにか。
他者とは、むしろ、普通の意味においては、非常に「ありふれた」存在である。つまり、それは普通に「日常」的に存在する。しかし、それは、ある「差異」を指唆している。
例えば、こんな例が分かりやすいかもしれない。
私たちの多くは、実の父親と母親の両親から産まれた子供である。つまり、それが、

  • 幸せ

だと「実感」している。まあ、今の日本中のほとんどの人がそうであろう(私だってそうだ)。そうすると、その「リアル」を生きる人は、今、自分の目の前にいる人が、そうでない可能性を考えなくなる。
もし、実の父親と母親の両親から産まれた子供であることが、幸せの定義であるなら(それを前提とした、振る舞いや、他人とのコミュニケーションを、日常の「所与の前提」としているなら)、それ以外の人たちは、

  • 不幸

な存在と言っているのと同じことになるであろう。つまり、優しい両親に育てられていることを「自慢」するコミュニケーションは、「ほとんどの場合」、なんの軋轢を生むことはない。なぜなら、ほとんどの日本人が、そうであるから。
すると、今度はある逆転が生まれる。つまり、そういった、「実の父親と母親の両親から産まれた子供であることが幸せである」ことを前提とした、コミュニケーションをしていることが、むしろ、他人との

  • 共感

が生まれやすく、コミュニケーション的には、「成功」しやすい、となるのだ。つまり、他人受けがいいわけで、ほとんどの日本人と、そういうやりとりをしていた方が、「親しく」なり「仲間」になりやすい。
ルーマンは自らの社会システム論の根底に、「信頼」という言葉を置いた。つまり、自分がどう振る舞えば、相手がどう反応するのかの「信頼」が、私たちの日常の行動を規制している。この場合、「成功体験」が、その反応の基盤を作っていると言えるだろう。つまり、自分が「実の父親と母親の両親から産まれた子供であることが幸せである」ことを前提とした行動をすることで、相手から「いい反応」を受け続けている人は、基本的に、こういった行動を疑わなくなる、ということである。
しかし、言うまでもなく、そういった環境で育てられなかった人々は、この日本にだって、それなりにはいる。というか、もっと複雑に考えることもできる。自分の親は、そういった実子として、自分を優しく育ててくれた、場合でも、その親自身が、そうでなかった場合を考えてみよう。
この場合、どういうことになるか。
自分の親は、養子として育てられたことを、それなりにストレスのあった(つらかった)経験として学んでいるため、やはり、実子として育てられた方が、幸せだろう、と考え、なるべく、自分の子供には、自分が味わったような、つらさを経験させないようにさせてあげたい、と考え、自分を目の中に入れても痛くないかのように、優しく育てる。
しかし、この場合にも、ある種の「逆転」が起きる。子供は、自分の親が、「実の父親と母親の両親から産まれた子供であることが幸せである」ことを証明しようと、日々の実践において、過剰に愛情を注げば注ぐほど、子供にとっては、

  • でもそれじゃあ、(親の育ての親である)じじばば、はどうなるの?

と疑問がわいてくる。つまり、子供の視点からは、自分の親が、(親の育ての親である)じじばばの「生き方」を「否定」しているように見える。
これが、いわゆる、(ヘーゲル的な意味での)弁証法だと言えるだろう。
子供は思春期になると、それまでの、親の言うことを疑うことなく、なんでも、「その通り」と生きてきた、その態度を疑うようになる。それは、子供が「親の意志(=親の自由)」の、
従属変数
ではないことを意味する。子供はたんに、自らの快楽に生きる存在であり、その快楽は、親の「それ」と、なんの相関関係もない。
子供は、大人になっていくにつれて、単に、この厳しい社会で生きていくために、自らの内から湧いてくる、「どのように生きたいか」の「選択」を、日々、迫られていることを理解していくわけで、そこにおいて、ルーマン的な意味での、親の子供への「信頼(=予期)」は、少しずつ、乖離していく。
その徴候は、思春期における、子供の「親の否定」から始まる。しかし、じゃあ、その「子供の子供」においては、なにが起きるであろう。言うまでもない、

なのだ。上記の例で言うなら、まず、自分の親は、(親の育ての親である)じじばばが、自分を養子として育てたことに、感謝はしながらも、そうやって育てられる子供には、非常に大きなストレスが、「日常」に、ふりかかってくることを実感することで、

  • 自分の子供にだけは自分のような、つらい思いをさせたくない

つまり、「否定」が起きる。ところが、そうやって親に、溺愛されて育った子供には、ある違和感が、いつまでも、ぬぐえずに、心のどこかに、存在する。
親が、

  • 実子=幸せ

を、まさに、日々の「実践」として、証明するために、自分に愛情を注げば注ぐほど、子供の「視線」からは、なにか、

  • じゃあ、(親の育ての親である)じじばば、は間違っていたの?

という、親が、(親の育ての親である)じじばば、の生き方が間違っていたと言っているように、(ダブルバインド的な)メタメッセージとして受けとってしまう。しかし、もし、それが間違っていたとするなら、どういうことになるだろうか。
もし、それが間違っていたなら、(親の育ての親である)じじばば、は、親を育ててはいけなかった、ということになって、親が育てられることはなかったということになって、つまり、子供が生まれることはなかった、ということになる。つまり、今度はこれは、

  • 自分が今、ここにいてはいけないんじゃないのか?

という、アイデンティティの問題に、繋がってくる。つまり、これはなんなのか。私は以前、このブログで、こういった現象を、

  • 文化の隔世遺伝

と呼んだことがある。一般に子供は、両親以上に、じじばば、と相性がいいのは、そういうことで、多くの場合、たんに仲がいい以上に、なにか「精神的な繋がり」とでも呼びたくなるような、関係が形成されることがある(それが「文化的遺伝」という表現の意味である)。
それは、ある種の「世代交代」的な現象でもあって、子供が育って大人になっていく過程において、じじばば、は、自らの寿命を迎え、死んでいくことからも、なにか、

  • 子供は、じじばば、の生まれ変わり

のように、外からは見えたりもする。
(この現象をフェアに分析するなら、親は、それほど単純ではない、と考えることができて、親の心の中では、それなりに、複雑な思いが入り乱れていて、それなりに、育ての親への感謝を、行動を上では日々行っているんだけど、子供にとっては、そういった、親から、じじばば、への「関係」は見えにくいので、どうしても、単純化して、子供は受け取ってしまう。まあ、親と、じじばば、の間の
文脈
は、親が生まれてから今に至るまでの複雑なものなわけで、生まれたばかりの子供が、それを解析しろ、というのが、どだい、無理な要求なわけですが...。)
私は、こういった現象というのは、あまり気付かれていないだけで、非常に多く存在するのではないか、と考えている。
ルーマンのコミュニケーション論から言えば、「信頼=予期」から考えれば、間違いなく、マジョリティである、「実の父親と母親の両親から産まれた子供であることが幸せである」をまったく疑うことなく、振舞える方が、コミュニケーションも成功し、ストレスの少ない

  • コストのかからない

人生を歩むことができるであろう。しかし、そのことが「それに違和感を持っている」人が存在しないことを少しも意味しない。つまり、これが、

  • 他者

なのである。なぜ、永山則夫は、上京して、仕事を一、二ヶ月で、転々とすることになるのかは、我々の側の上記のような、無意識の「幸せ」という、

  • 共感感情

が、結果として、永山則夫の半生を否定しているものになっていることに、彼自身が皮膚感覚として、感じたからであろう。日本における、多くの自殺者も、こういった、人々の、
無邪気な(=無意識の)差別感情
への拒否反応として、行われているのではないのか、と仮説してみたくもなる...。