リチャード・セイラー『実践行動経済学』

(キャス・サンスティーンとの共著。)
ある人Aが、別のある人Bに、なにかをしてあげる(行為C)、とする。この場合に、ある人Aが、その行為Cを、

  • なんの見返りも期待せず、純粋に、「ある人Bのため」を思って、行った

と判断できる場合に、「パターナリズム(温情主義)」と呼ぶことにしよう。
この場合、どのような問題が、残るであろうか?

  • 疑問1:(懐疑主義においては)本当に、ある人Aは、「なんの見返りも期待せず」と言えるのか?
  • 疑問2:たとえ、ある人Aのその行為が、「なんの見返りも期待せず」と言えたとしても、ある人Bにとって、「ありがた迷惑」ということはないのか?
  • 疑問3:ある人Bにとって、「ありがた迷惑」ではないとしても、別の「だれか」にとっては、ありがた迷惑ということはないのか?

この現象を、俯瞰的に観察した場合、どのように記述すべきだろうか。

  • ある人Aは、自らの周りの環境に、行為Cを行った(本人は、ある人Bに向かって、それをやった、つもり)。

つまり、

  • 行為C:ある人A --> ある人Aの回りの環境(ある人Bを含む)

この「行為C」は、「ある人A」が行った行為であるからして、「ある人A」には、その「行為C」を行ったことから発生する「責任」を、引き受けなければならない。
つまり、「ある人Aの回りの環境」は、もし、その「行為C」が、うざかったら、「ある人A」に対して、文句を言う権利があるのかもしれない。
だとすると、ある「矛盾」が発生する可能性がある。

  • ある人Aは、ある人Bのことを思って、やってあげたつもりなのに、なぜか、その行為によって、「ある人Aの回りの環境」から、怒られなければならないかもしれない。つまり、ある人Aは、「ある人Aの回りの環境」から、怒られるかもしれないことを、わざわざ、やっている、ということである。

なにもやらなければ、少なくとも怒られることにはならないはずなのに、なぜ、怒られるかもしれないことを、わざわざ、やるのだろうか。
このように考えてきたとき、上記の、疑問1、疑問2、疑問3、という問題構成は、少し事態を複雑にしているように思われる。
というのは、「だれかのため」というアジェンダが、本当に、なんらかの「見返り」を期待していないのかを、まったくもって、
証明
してくれないからである。
つまり、他人からは、その行為が、本当に、なにも期待していなかったのか、それとも、期待していたのかを、外見からは、押し測れないからだ。
そのように考えたとき、私には、パターナリズムというのは、不満足な印象を拭えない。
私はパターナリズムよりも、「利益相反」を重要視する。
例えば、以下の場合を考えてみよう。

ある日の夕方、キャロリンは友人のアダムとおいしいワインを飲んでいた。アダムは統計重視派の経営コンサルタントで、スーパーマーケット・チェーンを担当している。そのとき、二人は面白いアイデアを思いついた。カフェテリアのメニューはいっさい変えず、陳列の仕方や並べ方が子どもの選択に影響を与えるかどうか、学校で実験して確認してみるのである。キャロリンは何十校ものカフェテリアの責任者に食品の陳列方法を具体的に指示した。デザートを最初に置い学校もあれば、最後に置いた学校もあり、別のところに離して置いた学校まであった。食べ物を置く場所は学校ごとに変え、ある学校では目線の高さにフライドポテトを置き、別の学校ではニンジンスティックを置いた。
アダムにはスーパーマーケットのフロア計画を立案した経験があり、実験は劇的な結果を示すだろうと予測した。アダムの見立ては正しかった。カフェテリアの配列を変えるだけで、数多くの食品の消費量で最大で二五パーセントも増減できたのだ。

上記の引用において、「学校」の「食堂」を例にしているところが肝だと言えるだろう。確かに、棚の配列によって、学生の「統計」的な、消費傾向は、大きく振幅する。そこから、
公教育的な視点から
子どもの健康を考えて、目線の高さには、子どもが食べるべき、健康食品を並べるようにしよう、という「パターナリズム」が成立するように思われる。
しかし、それは、そもそも、このアジェンダ・セッティングにおいて、「学校」の「食堂」としたから、にすぎないのではないのか? つまり、これが、普通の、商売をなりわいとしている、食堂ならどうなるか?
こんな説教をされるまでもなく、その食堂にとって、「もっとも売れてほしい」商品を、そういった、目線の高さに並べているのではないのか?
それは、「子どものため」といった、「パターナリズム」とは関係なく、自分たちが、この商売を続けていくのに有利な、「よる多く売りたい」ものを、そこに置いているわけであろう。
つまり、この程度のことなら、説教されるまでもなく、人々は、上記のようなことをやっている、ということになるであろう(というか、こういったことも、まともにできないような、お店は、そっこう潰れる、ということだ)。
一般にどのような場合に、パターナリズムは問題とされているか。
医者が患者に、一切のインフォームド・コンセントを行うことなく、患者に手術をして、高い医療費を要求してきたら、どのように思うだろうか。
また、義務教育において、教師が、生徒たちの「ため」だと、鉄拳制裁を繰り返したら、どのように思うだろうか。じゃあ、これが、自衛隊の訓練においてなら、どのように思うだろうか。
一般に、パターナリズムが問題とされる場合とは、公的なサービスにおける、「国の余計なお節介」に関係している、と考えられる。つまり、掲題の本でも指摘されているように、パターナリズムは、一般には、リバタリアニズムと対立している、と考えられる。
例えば、バイクをノーヘルで運転できたら、風に髪をなびかせて走れて、「かっこいい」と思っている人がいたとして、それを、法律で禁止する「根拠」には、なにがあるのか、と考えてみよう。言うまでもない。「あなたのためだから」。ヘルメットを被っていないことで、バイクで転倒することで、頭を守れないことによって、悲惨な傷害が残ることになる。つまり、ここで、ヘルメットを被れと、国が命令しているのは、それによる、社会的な影響が大きいからだと考えられるだろう。ノーヘルでいいよ、として、大量の脳に傷害の残る人が生まれて、そういった人たちが、やっぱり、ヘルメットを被ればよかった、そう教え諭してくれる人がいたら、と後悔する人が増えれば増えるほど、こういった、パターナリズムには「正当性」が生まれる。
リバタリアンが、それでもなお、ノーヘルOKと言いたいのは、とにもかくにも、「強制」が嫌なのだ。事故を起こしたとき、たとえ、どんなに賠償金を請求されようとも、原発を動かしたい。原発を動かしちゃダメ、と言われたくない。原発を動かすことを「強制」で、禁止されたくないわけだ。リバタリアンは、とにかく、「やりたい」と思ったことを、制限されることに耐えられない。「やりたい」ことの責任を引き受ける限り、「禁止」されたくない、というわけである。
ここまで読んでこられて、ある程度、気付かれていると思うが、おそらく、この二つを分けるキーワードに、「情報」がある。なぜ、パターナリズムは、不可避と考えられているのかには、「情報」つまり、「エリート」の問題がある。
医者は、患者の知らない知識によって、患者の病気を治し、教師は、生徒の知らない知識によって、教育を行い、自衛隊は、隊員の知らない知識によって、訓練を行う。
つまり、その知識の多寡には、人によって差異があることが前提とされている。だから、「エリート」には、民衆を「操作」する、パターナリズムが正当化されうる、と考えられる。
よって、何が問題とされているのか? パーミッションである。エリートが民衆を操作しようとするとき、民衆はそれを「許可」したのかどうか、が問題とされるわけである。つまり、エリートには、民衆にパターナリズムを、「許可」させなければならない。
ところが、民衆がそれを「許可」するには、まず、民衆は自分が「何」を許可するか許可しないかを、判断「しなければならない」のかを「理解」しなければならない。
つまり、どういうことなのか?
このことは、民衆が、「どういう選択肢があるのか」を、その選択に対する、それぞれの「関係」を把握することと、同値であることが分かるであろう。
しかし、ここにパラドックスがある。
そういった選択肢を、もしも、民衆が理解したとするなら、それって、「エリート」なんじゃね?
この問題を、掲題の本は、見事に整理する。

経済学の教科書を見ると、ホモ・エコノミクスアルベルト・アインシュタインのように考えることができ、IBMのスーパーコンピューター「ブルージーン」と肩を並べる記憶容量を備え、マハトマ・ガンディー並みに強い意志をもっていることがわかる。本当にそうなのだ。しかし市井の人々は、そうではない。現実の人間は電卓がなければ長い割り算に悪戦苦闘するし、配偶者の誕生日を忘れることもあるし、二日酔いで新年を迎えたりもする。こんな人はホモ・エコノミクスではない。ホモ・サピエンスである。ラテン語の使用を最小限にするため、これから先はこの想像上の種を「エコノ」、実在する種を「ヒューマン」と呼ぶことにする。

われわれの定義に従えば、「ナッジ」とは、エコノには無視されるものの、ヒューマンの行動は大きく変えるあらゆる要素を意味する。エコノは主にインセンティブに反応する。政府がキャンディーに課税すると、エコノはキャンディーを買う量を経らすが、選択肢を並べる順番のような「関係のない」要因には影響されない。ヒューマンもインセンティブに反応するが、ナッジにも影響される。

先ほどの例でいえば、エコノは、たとえ、目線の棚に置かれていようが、そんなことにおかまいなく、あらゆる順列組み合わせから、「最善の選択」を選びやがる、
誘惑なし夫くん
というわけだ。
しかし、どうであろう。
よく、高学歴の人たちが、庶民を「馬鹿」「アホ」「マヌケ」と、罵詈雑言を尽して、ののしる姿は、もう、あきあきするくらいに見あきた姿であるが、私には、どうにも、違和感を覚えるときがある。
というのは、つまりは、「どうでもいい」ということについて、である。
二つの、選択肢があったとする。
エスと答えるか、ノーと答えるか。
しかし、もしも、以下のような場合だったら、どうだろう。

  • エスと答えた場合に起きることが、自分の人生にとって、「どうでもいい」ことが分かっている。
  • ノーと答えた場合に起きることが、自分の人生にとって、「どうでもいい」ことが分かっている。

この二つが成立しているとき、むしろ、

  • エスかノーかの「最善の選択」をするために、膨大な計算に、多くの時間を費すこと「こそ」が、愚か

だと思わないか。
つまり、庶民は「バカ」なのじゃなくて、

  • 庶民が「どうでもいい」と考えていることについて、「どっちでもいい」選択をしているから、他人からは「愚か」に見える

ということしか、意味していない。
(アイロニカルに言わせてもらうなら、つまり、中学受験とか高校受験とか大学受験とかいって、
どうでもいい
ことを必死になって覚えたり、計算できるようになろうと、努力が「できる」奴ということは、相等
頭が悪い
とは、思わないですかね orz。)
むしろ、いっぱしの、物理学者が、庶民の行動を指して、「馬鹿」「アホ」「マヌケ」と、嬉々として罵詈雑言を並べながら、アホみたいに、何時間もお金にならない、計算をしていることの方が、よっぽど、

  • 奇異(=奇特)な人

だと、世間から見られていることに気付いていない、お人好しさん、というわけだ。
しかし、ということは、どういうことだろう?
つまり、ここで、掲題の本は、まったく、「逆転」の発想を行う。
庶民は、「いつ」エコノになるのか?

これまで見てきたように、人は目を見張るような離れ業をやってのけるが、思慮に欠けるヘマもする。どうすることが最善の対応なのだろう。選択アーキテクチャーを構築すること、その影響を受けることは避けられないため、簡潔な答えはごくまっとうなものになる。「役に立つ可能性が最も高く、害を加える可能性が最も低いナッジを与える」。これをリバタリアンパターナリズムの黄金則と呼ぼう。もう少し長い答えだとこうなる。「判断が難しくてまれにしか起こらず、フィードバックがすぐに得られず、状況の文脈を簡単に理解できる言葉に置き換えるのが難しい意思決定をするときに、ナッジが必要になる」

例えば、貯蓄戦略、投資戦略、借金戦略、医療戦略、教育戦略、環境戦略、結婚戦略。こういったものにおいて、庶民は、「考えすぎなほど考えている」。むしろ、こういったことにおいては、庶民は、「あらゆる情報を集めて最善を選択する」ための努力を、おしまない。
つまり、庶民にとっては、こういったことに比べるなら、目の高さに貼られている「今日のお勧め」を、ろくに考えないで、毎日頼んでいるような
愚かさ
であることこそが、そんな「どうでもいい」ことに余計な苦労を費していないという意味で、「賢い」というわけである。
エリートというのは、とかく、自分たちを、人間の「頂点」に置いて、その「下」との階層を考えたがる。つまり、「愚か」の下の下が、庶民であり、さらに下が、まだ教育も受けていない、子どもであり、動物である、というわけだ。
しかし、そもそも、こういった「階層」が、すでに「愚か」なわけである。庶民は、たんに、「エリート」たちのような、「どうでもいい」ことに、アホみたいに脳を使っていないというだけで、彼らにとっての「死活問題」に対しては、アホみたいに、脳を使っている。それは、動物だってそうだし、もっと言えば、子どもだってそうだ。子どもは今を生き残るために、本能的な免疫機能などに、エネルギーのほとんどを費している、ということで、それは、大人になるまでの、実に「賢い」選択なわけだ。
つまり、庶民も子どもも動物も、立派な「大人」なのだ...。

実践 行動経済学

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