照井一成「相互作用としての計算」

アリスという人が、ボブという人と、「対話」をしたいと考えたとする。しかし、直接、フェイスツーフェイスで会うことは、忙しい現代人には、難しい(体を二つに分けて、別の場所に同時に存在することはできない)。しかし、
通信
を使うことによって、このことは「可能」になるのではないか?
一般的には、この命題は正しいと、慣習的に、私たちは、直観している。しかし、じゃあ、これは
二人「の」通信
なのかを「証明」しようとしたとき、どうなるか? それが、なかなか難しい、ということが、次第に分かってくる。
例えば、アリスは、今、通信をしている相手が「ボブ」であるということを確認するために、「ボブしか知らない」がアリスは知っている話題を、ボブに質問し、その答で、ボブかどうかを確信しようと考えたとしよう。

確かにアリスとボブは通信を続けられる。しかし問題なのはプライベートなはずの通信に、第三者・イブが介在している可能性があることである。嫉妬深いイブは、アリスとボブの過去に何があったのかを知りたかった。そこで彼女はあたかもボブであるかのように見えるアカウントと、あたかもアリスであるかのように見えるアカウントを作成し、二人のどちらかからメールが来るのを待っていたのである。アリスからメールを受け取ったイブは、そっくり同じ内容のメールをボブに送信する。そしてボブから返事が来たら、それをそのままアリスに送信する。こうしてイブは、こっそりと二人の仲介をすることで、少なくとも当面はアリスとボブに気づかれることなく、二人の通信を傍受することに成功する。

私たちは、この通信が、

  • アリス <--> ボブ

の通信だと「当人」たちでさえ、信じているが、実際はこれは、

  • アリス <--> イブ <--> ボブ

の通信であった、ということである。
驚くべきことに、アリスの「対話の相手」は「イブ」であったし、ボブの「対話の相手」は「イブ」だった、ということなのである。
上記の例が興味深いのは、アリスは「対話の内容」によって、相手が誰かを「証明」できると考えていた、というところにある。つまり、対話の「内容」が、それを証明しうると考えたわけである。
しかし、結果として、その手段は成功していない、と言わざるをえない。というか、原理的には、イブの位置を「あらゆる人」が、占めることができる(恐らく、そういった「サービス」が、はるか未来においては、普通になるのかもしれない)。
これはどこか、ゲーデル不完全性定理に似ている。不完全性定理は、その理論の中に、基本算術を内包する限り、その理論の「内部」で、その理論の無矛盾を証明できないことを主張する。なぜなら、基本算術とは、
手続き
を定義したものであるので、どうしても、「いつまでも繰り返す」という「行為」が、その理論に内包されるからだ。
アリスが間違えたのは、その「会話の内容」が、相手が「ボブ」であることのアイデンティティを保証しうる、と考えたことにある。しかし、上記のように、「相手」の応答が、ずっと「ボブ」の応答の内容であれば、そもそも、
区別
がつかない。不完全性定理も同じで、基本算術を内包したことによって、内部に、「いつまでも繰り返す(=いつまでも同じ応答を返す)」が、再現される。
こういうと、「じゃあ、なんのために、イブはいるのか」と思うかもしれない。
しかし、それは「逆」なのだ。イブがなぜ、こんな面倒なことをやっているのかと言えば、それは、カール・シュミット的に言えば、

  • 非常事態

のため、ということになる。イブは、いつの日か、このアリスとボブの関係に、なんらかのアプローチをしたいと考えている。もちろん、それを行ったとき、上記の「完全性」は破られる。
しかし、アリスとボブは、「それ」を避ける「ため」に、上記のような、「ボブしか知らない」二人の秘密による、

  • 相手の特定

を行ったのではないのか? 不完全性定理も同じで、「いつまでも完全」であることが、手続きとして実行できて「いる(=存在)」が、少しも、「非常事態が起きない」こと(=観念)を証明できていることにならない、ということなのだ。
しかし、恐らく、多くの人が上記の話を聞き、「こんなことでは困る」と思うであろう。企業は多くの内部秘密を抱えているのであって、そう簡単に、そういった情報が、外部にもれるわけにはいかない。
では、そういった視点からは、上記は、なにが問題だったと考えればいいのか。
それは、現代の暗号システムを考えてみると、分かるのではないか。
現代の、例えば、企業内の通信インフラの暗号化において、確かに、難しい暗号理論を駆使して、その通信のテキストを、暗号化し、だれも読めないようにしているが、最終的なところでは、
通信の末端同士(末端のサーバ同士)に、なんらかの、

  • 共通の暗号キー

を、「まったく、通信で、対話者が話す内容に関係なく」勝手に決められることによって、成立している。つまり、「対話内」での論理的な関係に関係なく、まったくの、外在的な「メタ」な、関係によって、上記の、「暗号」化は成立している。
このことは、数学基礎論において、

  • 基本算術の無矛盾性が、基本算術を含む、公理的集合論の「中」でなら、証明できる

ことに対応する(言うまでもなく、公理的集合論の中で、公理的集合論自身を示そうとすると、ゲーデル不完全性定理になる)。
ということは、どういうことか?
一見すると、これで、問題は解決したように見えるかもしれないが、そうではない。今度は、「サーバ同士の暗号」という

  • コンテキスト

において、上記の「イブ」のような問題が、また、問われなければならない、ということを意味している、と考えられる。
ウィキリークスによって、さまざまな、内部情報が、白日の元に、さらされている現状が、そのことを、よく表しているだろう。)

かくしてアリスとボブの間に秘密のチャンネル p が確立される。しかし仮にチャンネル a、b そのものがすでにイブにばれていたとしたら、サムからアリスとボブへ遅られる暗号鍵 p そのものが横取りされてしまう(そしてイブがアリスやボブになりすましてしまう)。それをさけるには a、b そのものが秘密のチャンネルでなければならず、そしてそのような秘密のチャンネルを確立するにはふたたび秘密のチャンネルを用いなければならず...。もちろん実際にはこんなことは行われず、はるかに精巧な仕組みが用いられている。それでも、セキュリティの問題には常に無限後退の恐れがつきまとうことは否めない。結局のところまったく白紙の状態から100パーセント安全なコミュニケーションを確立するなど、どだい無理な話なのだ。それでも一定の仮定のもとでの相対的な安全性を保証するために、さまざまな暗号方式やプロトコルが提案されその検証が行われる。それがセキュリティ理論の現場である。

近年、インターネットの普及や、マルチCPUなど、複数の計算主体が、「通信」によって、並行して「計算」し、結果を導いていることが、あまりに
当たり前
になっている状況を考えるとき、そもそも、私たちは、ある勘違いをしてきたのではないのか、という疑いを覚える。
それは、つまりは、「計算する」ことと「通信する」ことを、区別することはできないのではないのか、ということである。
計算の本質には、「すでに」通信が含まれているのではないか? それが、掲題の論文が考察する「線形論理」の姿でもある。近未来においては、計算が「通信」を包含していることを、だれもが、
当たり前
と考える時代は、すぐ近くまで来ているのかもしれない。それは、例えば、サイエンスの最先端の事実を、私たちは知らなくても、「専門家を信じて」(=専門家のアウトプットを「前提」に行動することによって)、さまざまな「計算」を、実際に行っている事実が、この事態が、いかに、大きな地殻変動をもたらしうるか、を示しているのではないか。
そのようになってきたとき、私たちが「個人」に「帰属」させて考えてきた「エリート」などの能力の個体差についても、まったく、違った「計算」の姿が、あらわれるようにも思う。
しかし、その場合に、上記の「イブ」のように、増殖する「通信」に介在してくる、「他者」の存在は、どんなに排除したいと思おうと、それが通信である限り「必須」と考えなければならない。しかし、それは、何を意味しているのか、どんな「計算」に対しての影響を与える「世界」となるのか...。

現代思想2012年11月臨時増刊号 総特集=チューリング

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