今週の、videonews.com は、デンパクということで、大変に興味深いものがあった。
日本の広告代理店の世界において、恐しいまでの、圧倒的な規模を誇る電通は、二位の博報堂の倍近くに迫る。
しかし、普通に考えて、それは、あまりにも大きすぎないだろうか? (そうでありながら、他方において、海外展開がまったくない業界だというのも、一つの特徴であろう。)
まず、広告代理店とは、「何をしているのか」と、考えていこう。
ある、大企業が、新商品を売ろうとしたとき、
- 商品A:企業X --> 国民Y
まず、日本の国民にその存在を知ってもらわなければならない。
- 商品Aの知識H:企業X --> 国民Y
しかし、たんに知ってもらうだけではダメで、その商品を買いたい、と思ってもらわなければならない。つまり、その商品やその企業に対して、
- いいイメージ
を持ってもらわけなければならない。
- 商品Aの「いい」イメージK:企業X --> 国民Y
しかし、そのためには、言うまでもなく「媒体」が必要だ。なんにせよ、人々に「届かなければならない」。
- 商品Aの「いい」イメージK ∈ 国民Yの媒体の中
つまり、人々が日常の中において、「嫌でも見てしまう」所に、「それ」を置く、ということになる。それが、
- テレビのCM
となる。テレビは、戦後の復興から、日本の高度成長と共に発展してきた、ネットが登場するまでの、日本を代表するメディアだったと言えるだろう。
テレビは完全広告収入によって成立しているコンテンツで、視聴者からは、お金を取らない。その代わりに、番組の合間に流される
- CM枠
を、一口単位で企業に売っていく、ということになる。
- CM:企業X --> テレビ局P --> 国民Y
しかし、問題は、どうやって、そのCMと、「その」CM枠を、
引き合わせる
のか? である。日本には、あまた、企業があり、多くの企業が、テレビCMを流したい。しかし、テレビ局としては、それなりの値段で売れなければ、おいしくない。しかし、よく考えてみよう。そんなに都合よく、手頃な値段のものが、見つかるだろうか? 急に、契約が流れたら、どうする?
そこに現れるのが、広告代理店である。
- CM:企業X --> 広告代理店Q --> テレビ局P --> 国民Y
電通は、大量の、得意先を抱えることで、そういったテレビ局側の、「都合」に答える。大量の得意先、大量のお金を社内に持つことで、テレビ局側の、さまざまな「需要」に、答え「られる」関係となる。
もちろん、いつも、いい条件ではないかもしれないが、いずれにしろ、これほどの大量の優良得意先を抱えているところは、他にはないのだから、どっちにしたって、テレビ局側は、関係を悪くできない。長期的な関係が続くことは避けられないのだから、当然、
貸し借り
のズブズムのバーター取引関係になっていくわけである。
しかし、よく考えると上記はおかしい。次の例を考えてみてほしい。
- 自動車CM A:自動車会社X --> 広告代理店Q --> テレビ局P --> 国民Y
- 自動車CM B:自動車会社W --> 広告代理店Q --> テレビ局P --> 国民Y
この場合、CM A、B は、それぞれ、別会社のX、W、つまり、競争相手のCMであるのに、同じ広告代理店が扱っているわけである。その場合、そのAとBの「内容」とは、なんなのだろう?
言うまでもなく、自動車会社Xは、自動車会社Wの車種より、自分のところの方が、人々に買ってもらう価値があると思っているから、宣伝しているわけで、それは相手も同じわけだ(そもそも、相手より「良い」商品を売っているという自負がなければ、相手と同じものを売っていると思っているんだったら、別の会社である意味がないだろう)。ところが、その二つのCMを同じ会社が、てがけたとき、一体、何が起きるのだろうか?
言うまでもなく、AはXがWより「良い」ことを宣伝し、BはWがXより「良い」ことを宣伝する。もちろん、それをXとWが、それぞれ、主張しているまではいい。ところが、その二つを、広告代理店Qが主張したとき、それって、
矛盾
じゃないの? となるだろう。つまり、広告代理店Qは、結局のところ、国民Yに、
どっち
を買ってもらいたいと考えているのか? ということなのである。
海外では、メディアバイイングは、専門の会社が行なうようになってきた。そして広告会社の仕事は、依頼(広告主)企業のブランド戦略、販売促進計画、メディアプランニング(核種の媒体を組み合わえた広告宣伝計画)等に参画し、運命共同体として成長していくことだとされる。そこから”一業種一社”という広告業界の倫理が、確立されてきた。
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私はこれが、なぜ、日本のガラパゴス携帯や、パソコン市場が、スティーブ・ジョブズのアップルの、iPhone や iPad に、徹底的に駆逐されたのかの理由のように思っている。スティーブ・ジョブズは、ちょっと聞いていると、人間的に問題があるんじゃないかと思うくらいに、競争他社を、ボロクソに言う。それくらいに自社製品を「差別化」する。こんなに違うんだから、自社のを買うべきだ、と。消費者にとっては、最後は、その商品を買うことによって、もたらされる「満足度」なのだから、社長の人格が少しくらいおかしかろうが、物が良ければいいわけだ。
他方、日本の企業のCMは、どんなに見ても、結局、他社製品と何が違うのか、さっぱり分からない。家族で車に載って、「それで何?」
日本企業のCMは、とにかく、「なんとなーく、幸せそう」とか、そんなのばっかりで、
- うちの企業の商品は、こういった「世界」にしたいから、売ってるんだ。
とか、
- うちのこの商品を買ってもらえれば、こんなふうに「世界」は変わりますよ。
とか、そういった、「どんな世の中にしたいから、他社のではなく、うちのを買ってもらわないとだめなんだ」という、主張がないわけですよね。
それは、一社がそうなのではなく、
- 日本の大企業「全て」
みんな、そうなわけです。みんな、横並び。ところが、です。外国の企業は、こういった日本的な横並びなんて、なんにもないから、平気で、
オレがオレが
をやってくる。そりゃあ、iPhone が売れるわけですよね。
- CM:企業X --> 広告代理店Q --> テレビ局P
ここで、企業Xは、日本の大企業と、東電のような国策企業、あと、国家と、それなりに数はあるし、テレビ局Pも少ないながら、それなりに、ある。それに対して、広告代理店Qは、ほとんど、電通の一極集中しているわけで、つまり、この関係において、
電通
が、圧倒的な力を持っている(電通を中心に世界は回っている)。ところが、上記で見たように、別の自動車会社が、一緒に顧客になるような、「意味不明」なことが起きていることから分かるように、
電通「自体」になんの主義主張も持っていない。
この会社自体が、なにか、こういった世の中にしなければいけない、というような主張がない(普通、二つの同業他社があったとしたら、「どっちの主張が自分たちと共にやっていける主張か」「どっちが自分たちのパートナーにふさわしいか」の「選択」が生まれるはずであろう)。
まさに、ロラン・バルトが日本を「空虚な中心」と呼んだように、日本イデオロギーの「中心」は、「無」というわけである。
日本のCMは、いっくら見ても、結局、何が言いたいのか分からない。これを見て、視聴者は何を考えろと言っているのか、さっぱり分からない。
しかし、ここで疑問が湧く。
じゃあ、なんのために、大企業は、こんなことをやっているのだろうか。
電通が相手をする企業はどこも、日本を代表する大企業ばかりで、どこも、地方の中小企業が地方局に流すCMなど比べものにならないくらいの、大金が払われる。この場合、上記のような、電通の特徴には、どんな利点があるだろうか? それこそ、
- 否定
である。上記で見たように、日本の言論市場の、あらゆる場所には、電通の広告「権力」が、隅々まで、行き渡っている。つまり、大口の顧客が、そうまでして、大金を払うのは、むしろ、電通を通しての、
日本の言論空間
に対しての、ネガティブ・イメージの封殺にあると考えるべきであろう。
- 自社が何を言いたいか?
であるなら、それは、「発言する場」が用意されるかの問題に収斂するが、
- 自社が何を言われたくないか?
の場合は、「あらゆる」言論の場に、権力を行使できなければならない。それを可能にするのが、電通システムというわけである。
(まあ、一種のカルテル的関係、もっと言えば、「電通コングロマリット」といったところか。)
そして、この電通システムを、最も、「有効」に活用したのが、
原発安全神話
を3・11まで、展開した、電力会社であろう。
東電がなぜこれほど巨額の広告費を出していたかというと、実は関東圏以外の原子力発電所(以下原発)の立地県(福島・新潟)においても、大量の企業広告を出稿していたからです。また、この広告費には媒体以外にも、さまざまな原発PR費が含まれていたようです。
広告には大まかに分けて、製品の告知をメインとする「商品広告」と企業イメージの告知をメインとする「企業広告」の二種類があります。
東電は関東圏以外で電力を売りませんから、それ以外での地域では「企業広告」の出稿がメインになっていました。そして原発立地県では、その原発の安全性や性能を啓蒙するための広告を大量に流していました。
しかし、東電の大量の広告出稿の真の目的は、立地県の県民や関東の人たちに原発の安全性、重要性をアピールすることではなく、その広告を掲載するメディアに、原発についてのマイナスイメージを与える報道をさせないことになったわけです。電通と原発報道――巨大広告主と大手広告代理店によるメディア支配のしくみ
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東電が電気を売るのは、もちろん、関東なのだから、普通に考えればCMは、関東に流せば、目的は達せられるように思われるが、なぜか、東電は、関東を飛び出し、全国で、CMを流す。
というか、そもそも、関東だって、一般住宅向けは、東電の一社独占販売なのだから(一般家庭は、今だに、原発で作られた電気を買いたくなくても、勝手に国によって、買わされている)、そもそも、CMをやらなくても、競争相手がいないんだから、不要であろう。
電力会社には「総括原価方式」という原価算定方式があります。電力側は媒体費を定価で支払ってもすべてそのまま原価に算入し、電力価格に上乗せすればよかったので、値切る必要などなかったのです。
電通と原発報道――巨大広告主と大手広告代理店によるメディア支配のしくみ
こうして、湯水のように、全国にばらまいたお金の額の「大きさ」に
比例
して、電通内における「発言権」は、大きくなるわけである(総括原価方式は、どう考えても、悪夢にしか思えない orz。なんとか、これだけは、確実に終了してもらいたいものだ)。
逆に、電力会社から金をもらって、原発礼賛キャンペーンの片棒を担いだ評論家や作家、タレント、スポーツ選手も数多く存在しました。
彼らは原発推進派の大学教授や電力会社の社長たちとにこやかに会見し、原発は多重防護で守られているから安全で、資源のない日本には必要不可欠であるというストーリーの企業広告や意見広告に出演していました。そしてもちろんその人選から制作まで、すべてを広告代理店が手配していたのです。
電通と原発報道――巨大広告主と大手広告代理店によるメディア支配のしくみ
私は別に、会社が大きくなることが悪いとか言いたいわけじゃない。そうじゃなく、
- なにがやりたいのか?
- どんな社会が実現したいのか?
そういった「意味」を生きるべきなんじゃないのか、ということなのだ。自分に主張があるなら、そこには「選択」が生まれるし、それと矛盾した行動は、そうそう、とれなくなる。そういった、
理念
を生きることがないから、競争相手の両方を「サポート」するとかいう意味不明の行動をやって、疑問にももたない、というような、
- なにがしたくて生きているんだ?
といった、根本的な疑問をもたざるをえなくなるわけだ。生きることは、「意味」を証明することではないのか? だから、人生は充実するんじゃないのか? なんだか分かんない(どんな汚れた手段で集められたのかも分からない)お金さえ稼げば、そりゃあ、家族は糊口を凌げるかもしれないが、それが「人生」なのか、ということなのだろう。
そのように「意味」を生きれば、上記のような、原発絶対安全神話をタブーのままにしておくような生き方は、そうそう、選べなくなる、ということじゃないのか...。