浦沢直樹『20世紀少年』

私は、掲題の漫画は、日本の漫画の歴史の中においても、最高傑作の部類だと思っている。
漫画の特徴は、小説や批評のリテラルな形式と、映像の感覚的な「理解」の中間を表現するスタイルにあると思っているが、掲題の漫画のテーマの一つである「いじめ」のようなものを表現するのには向いているのかもしれない。
この漫画はテーマの一つは「忘却」だと言えるだろう。
主人公のケンジは、どうしても「”ともだち”」が誰なのかが分からない。自分たちの少年時代に、共に行動していなければ、知っているはずのないことを、ことごとく知っている。つまり、そいつは、
同じクラスの誰か
であることは間違いないのに、「なぜか」それが誰なのかが、分からない。
それは、ケンジだけではない。彼を含めた、同窓会のみんなが、分からない。
しかし、なぜ、みんなが一様に「分からない」のか? そんなことが、ありうるのだろうか。
なぜ、彼らは、

  • みんな

その「彼」を忘れているのか。いや。まったく、忘れていたわけではない。そうではなく、みんなは「彼」を、「死んだ」と思っていた。

  • 思って「いた?」

「4組。」
「こいつ、5年4組だよな。」
「僕はやってない、僕はやってない!!」
「ん-------?」
「どこからか、声がするけど、見えないな--------。」
「僕はやってない.......」
「あれ------。見えないなあ。」
「どこどこ?」
「こんな悪いことしたんじゃ、」
「死刑だな。」
「おまえは今日で死にました。」
「かはっ!!」
「きゃははは!!」

21世紀少年 上―本格科学冒険漫画 “ともだち”の死 (ビッグコミックス)

21世紀少年 上―本格科学冒険漫画 “ともだち”の死 (ビッグコミックス)

「あれ------、見えないなあ。」
「なんか踏んづけてるみたいない気もするんだけど-------」
「いないいない、誰もいない!!」
「危ね---------、何かにつまずいたぞ-----------」
「やっぱ、犯罪者は死刑だよな。」
「ハンタイのサンセーなのだ。」
「これボールにして、サッカーしねえ?」
「本当に赤き血のイレブンに、なってしまうのだ!!」

21世紀少年 下 (2) (ビッグコミックス)

21世紀少年 下 (2) (ビッグコミックス)

この漫画は最大のテーマは、言うまでもなく、「いじめ」である。
クラスのみんなは、毎日のように、放課後、校庭裏で、カツマタ君を、殴る蹴るの暴行を行っていたが、上記にあるように、ある日、彼は、

  • 死んだ

ことに「なった」わけだ。ここから、クラス全体での「シカト」が始まる。そして、実際に、カツマタ君を彼らは「見なくなる」。
上記の引用のように。
ここで、「見ない」ことと、「殴る蹴るの暴行」が、両立していることが特徴だ。そして、その「死んだ」彼は、彼らからは見えないことになり、そして、日が経ち、卒業していく過程において、実際に彼らの記憶の中においては、

  • 彼は「あの日」に実際に死んだ

ことになっていくわけである(自分たちが見たくない現実。受け入れたくない現実を、「それ」として、忘却していく)。
例えば、上記の引用において、なぜ、カツマタ君は、盗みを疑われているかというと、主人公のケンジが、駄菓子屋で実際に「盗み」をしていたことの、尻拭いをさせられる形になっていたからで、ここで、カツマタ君にとって、ケンジが重要な存在になっていることが分かる。
ケンジは子供たちでの秘密のグループを作って、予言の書を書いていたわけだが、そこにおいて、ケンジが「正義」の名の下に、悪の組織と戦う、となっている。そして、カツマタ君は、その「悪の組織」を、実際に、その予言の通りに作り、その予言を実行することで、
ケンジの「正義」行動
を、その予言通りに「進ませている」という関係が特徴的であろう。
そして、この「悪の組織」は、非常にオウム真理教を意識している、ことは間違いない。オウムも「科学」を非常に重要視した宗教教団であったが、ここにおいても、
理科の実験の、大好きな、カツマタ君
として、「科学」が、重要な役割を演じる。ケンジたちが作った「予言」は、

  • 科学によって起こさせる行動

が記述されていることが特徴で、それは、ちょうど、大阪万博が、当時において意味した「輝かしい」科学という象徴的な意味が、対応している。
ケンジの「正義」
は、
ケンジの「盗み」
に対応し、
カツマタ君に対する「いじめ」
は、
カツマタ君がケンジを通して見る「科学」
に対応し、ちょうど、ケンジの視線には、「絶対」に、カツマタ君が「見えない」関係になっている(死んだことになっているのだから)。
このオウム真理教に似た「テロ」の実行犯である、”ともだち”=カツマタ君を、こういった、

  • 子供の頃の「いじめ」という「忘却」の境界

において、クラスの「中」という、だれもが体験している、非常に個人的な体験とオーバーラップさせるわけである(一人一人ということになると、クラスには40人近くもいるわけで、親しい人もいれば、そうでなかった人もいたわけで、どんどん記憶が曖昧になっていくわけだ)。
よく考えてみると、私も、小中高と、まあ、大学も含めて、けっこう、記憶が曖昧になってきているなあ、と思う。なんとなく、ぼやっとしか覚えていない。ほとんどの人がそうなのではないか。むしろ、子供時代というのは、そういうものなのかもしれない。
しかし他方において、その頃の「いじめ」がどのようなものであったのかを、そんなに簡単に「曖昧」にしていいのか、ということは、どうしても考えさせられざるをえないように、この漫画には、思わさせられる。
この漫画を見て、小学校の頃だったか、けっこう、ぼろぼろの木造の家に住んでいた女子で、臭いとか納豆の臭いとか、そういった感じで、かなり長期的に、言葉でいじめられていた人がいたことを思い出した(別に忘れていたということではなかったのだが)。ただ、中学にもなると、クラスも別になり、別の学区の人も入ってくるからだろうか、そういった「いじめ」的な感じではなくなっていったように印象をもった記憶があるのだが。いずれしろ、そういった子供の頃のことというのは、ほとんど記憶になくなっていくものだなあ、とは思う...。

20世紀少年―本格科学冒険漫画 (1) (ビッグコミックス)

20世紀少年―本格科学冒険漫画 (1) (ビッグコミックス)