荻上チキ『ネットいじめ』

掲題の著者が旗振り役をしているのか、よく知らないが、「いじめ対策サイト」のようなものがある。

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このサイトがどれくらい利用されているのかは知らないが、そのような視点で、インターネットを検索すると、実に、多くの「いじめ駆込み寺」のようなサイトが、各地方公共団体のものまで含めて、あることがわかる。
上記のサイトを最初に見た印象は、正直、薄かった。
まず、「いじめ」の定義がなんなのかが、ぱっとは見あたらなかった。
そのかわりに、「いじめ」という言葉の隣には、必ず、「いやがらせ」と書いてある。じゃあ、「いやがらせ」のことと考えていいのか、となるだろうが、そうなのかどうなのかは、どこにも書いていない。
次に、このサイト自体が、「誰」が「なんの責任において」相談を受けるのかが書いていないようにも読めた。というか、このサイトは「いろいろと相談をやれる場があるよ」という、紹介の「入口」を目指している、ということなのかもしれない。
このサイトでは、「いじめから抜け出す方法にはいろいろあって、それがいろいろ載っています」と書いてある(どこに、なにが書いてあるのか、よく分からなかったが)。つまり、そういった学問的な蓄積があるんだ、と言っているように聞こえる(だったら、そういった「論文」や「書籍」をリファレンスしたらどうか、とも言いたくなるが)。しかし、そういったことを、ここで紹介しているというより、とにかく、

  • 相談して来い

ということを、かなり強く要請するような文章になっている。
つまり、このサイトの「ダブル・バインド」的なメタメッセージとして、なんか、学者たちが「学問のネタ」を探して、子供たちに何かを話させようとしている、という印象をどうしても受ける。
そして、最後に書いてあるのが、「いじめ報道のガイドライン」。つまり、このサイトは、「いじめについて語ること」の自由を、

  • 抑圧

することを目指している、という項目が置かれることによって、「いじめはタブーなんだ」というメッセージを、逆に、強く印象付けている印象がある。
荻上チキさんといえば、3・11での、「ツイッターデマ」を研究されていた方で、ああいった、混乱した場面において、風説の流布は、非常に「危険」だから、それなりの一定の「規制」が必要なのではないか、を研究されていた方だと思っている。
おそらく、その延長で、「いじめについてネット上で語る場合には、それなりの、危険がある」ということを強調される意味で、こういった項目を用意されたのだろうが、ということは、ようするに、なんらかの国家的な「規制」が、必要だというメッセージを発せられているということで、それを目指すために作られたサイトなのか、つまり、このサイトの「目的」はなんなのかが、よく分からない印象を残しているようにも思う。
多くの場合、「いじめ」という言葉を使ったとき、「二つ」のことを意図し、また、その二つを、かなり、混ぜ合わせて話されている印象を受ける。
一つは言うまでもなく、その後、「自殺」などの悲惨な結果につながるという意味での、「暴力」などの「犯罪行為」である。もちろん、子供は裁判に処されることのない、少年院に行くだけの存在ではあるが、だからといって、その子供の行為が「犯罪でない」ことを意味するわけではない。
子供だからって「犯罪行為」は行う可能性がある。
そういう意味で、このサイトでも、中心に書かれていることは、「イザとなったら弁護士や警察に相談することだってできます」という言葉だ。
つまり、最終的には、「警察」こそが、子供を守らなければならない、「それ」を目指すサイトであるとも読めるだろう。
結局、どうして、こういったサイトは、なにが言いたいのか分かんないような、総花的なものになるのかの理由は、ここにある「警察」というところにも関係しているように思える。
「相談する」ということは、相談をされた側に「責任」が生まれる。つまり、無責任なことは言えないわけだ。学問はなんでも可能な魔法の杖ではない。「魔術」ではいのだ。困っている人が学問に泣きついてこられても、そこに「答え」はないかもしれない。
警察は、単純に、子供の生命が助かれば、あとは、なんでもいい、とはならない(警察は、そういった組織ではない)。警察とは、法に則って、「やれることをやる」組織であって、問題は、「いじめられている」側が、果して、そういった警察を利用する努力を費したときに、どこまで「効果」があるのか? というふうに、議論が進む、と考えられるだろう。
しかし、「本当に警察を利用できるのか」を、「誰」が判断するのか? このサイトで「相談を受ける」と言っている「らしい」人か? つまり、なににおいても、「選択」と「責任」はついてまわる。子供には保護者がいるのであって、結果として、子供に「いい結果」をもたらせなかった場合に、その保護者からの非難を甘受しなければらないかもしれない。
(確かに、こういったことが語りたいのであるなら、私は好きなだけ、工夫をされたら、いいと思う。)
教育機関が、警察を排除しているからダメだダメだと言うことには、「じゃあ、どこまで、警察は教育機関に介入すべきなのか」という論点になる。子供の自殺が起きるたびに、「警察をもっと介入させろ」の大合唱が、大きくなるが、こういう態度は一種の「保守派」のお決まりの論法のところがあって、つまり、その主張は、どこまでもエスカレートしていく傾向がある。
しかし、普通、こういったケースを考えるとき、「なぜ今の学校は警察の介入に、それほど積極的でないのか」という、アジェンダセッテイングをすることの方が、普通ではないだろうか。
つまり、今の学校には、さまざまな理由から、「警察の介入を嫌がる」動機があるわけであろう。

受験シーズンから入学シーズンにかけて、次のように2つの興味深い場面がありました。一つは、これから入学する高校の勝手サイトを作って、これから同窓生になる生徒同士が自己紹介をしあっているような場面。もう一つは、中学校の勝手サイトで励ましあいながら試験勉強をする生徒同士が、「あの高校は、サイトが荒れているから、本当は暮らそう」といった情報交換をしているような場面。学校に入学する前には、その学校のことをネットで調べたりするわけですが、勝手サイトは生の口コミ評価だという形でも利用されていた。これはおそらく一般化はできないけれど、学校はそのような、評判の可視化を嫌がるだろうなと。
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掲題の本は、非常に奇妙である。というのは、最初に書いてあることが、「ネットいじめ(=学校裏サイト)」があるから、ネットは禁止すべきだ、という教育界の大合唱に対する「反論」から始まっていることだ。
この本でも書いてあるように、ネットとはニュートラルな「道具」にすぎず、それをどう使うかは人間の側の都合にすぎない。逆に、イジメの「言論」が可視化されることは、
コントロール可能性
を高めている可能性もある、とは言えるわけだ。このイジメの「構造」を分析する、学者には、大変に便利なツールにも思えるわけであろう(多くの人が、あまり考慮に留めていないが、インターネットは、そもそも、IPアドレスによって、トレースできるのであって、匿名性はかなり、顕名「的」であるわけだ)。
むしろ、なぜ、教育界において、ネット規制が話題になるのかは、上記の引用にもあるように、「まったく違った動機」によって、ネットが規制されることが、教育界にとって「有利」だから、と考えるべき、ということであろう。
しかし、そもそものこととして、「勉強して頭が良くなれば、いじめをしなくなる」ということは、まったく、成り立たない、ということである。
むしろ、「勉強ばかりやっていた人」とは、自分のことしか考えていなかった人という性格が多分にあるのであって、彼らは、本性として、自分が有利になるなら、他人を利用して生きてきた人たちという側面がある。
つまり、「勉強して頭が良くなった人」だから、たくさん知識があるから、いじめが悪いことだという知識があるから、「いじめをやらない」とならない。逆に、他人のことを考えないで、自分の勉強ばかりやってきて「うまくいった」人たちなのだから、「怒られないように、
工夫
をして、いじめをやって、得をしよう」となるわけだ。

それともう一つ。そもそもリテラシーを上げれば、ネットいじめが解決するかと言えば、そういうわけではない。ウェブ上の炎上などを見れば分かるように、高いリテラシーを駆使して叩くことはよく行われるし、逆にリテラシーだけでは集合行動への抵抗は難しいことは証明されてしまっている。「リテラシー」が魔法の言葉のように、それがあるだけで何か良いことであるかのように使われているけれど、リテラシーがどう使われるかによって左右されるし、仮に価値判断をそこに含めるにしても、それは「みんなが善良な市民になればいじめはなくなる」と言っているのと同じように、無理なプランです。だからこそ、既存のコミュニティの観察が、いっそう重要な意味を持つようになる。だから本書では、「騒ぎすぎ」を批判する作業と、「観察」をアップデートする作業の両方を行っているんです。
ネットいじめと現代社会 ―― 内藤朝雄×荻上チキ特別対談 - 荻上式BLOG

一般に、世界中の教育を見ても、「いじめをやってはダメ」といったような、
道徳
は、「知識を大量に習得」することとは、なんの関係もなく、なんらかの

  • (宗教などを介した)強制

に依存しているところが多分にある印象を受ける。アメリカであれば、子供の頃から、教会に通い、自分がキリシタンであるという自覚のめばえとともに、そういった「禁忌」を避けていくような所があるのではないだろうか。
ところが、日本においては、そもそも、教会がない。日曜になっても、礼拝に行くこともない。なんの「道徳」教育もなく、まるで、子供たちは、

  • いじめを「楽しんでいる」

ような印象が、どうしても強い。いじめることで、「みんなで、もりあがれる」。つまり、彼らは「本能」で楽しんでいるのではないか。
もし「いじめ」が「楽しい」ことなら、それを「道徳抜き」で、「やらせない」ことは可能なのか?
そこにはなにか、「宗教なしの日本人」の「非道徳性」が、問われているのではないか、という印象が強い。
私が、どうしても、上記の「警察介入」論に、不信感を持ってしまうのは、まるで、警察さえ介入すれば「すべて」が解決するかのような、口ぶりだからだ。
なぜ、これほどまでに、「いじめ」は、社会問題化するのか。言うまでもなく、実際の「自殺者」が何人も生まれているからだ。つまり、なんとしても、自殺者だけはだしたくない。子供をあずかる学校としては、その「対策」が望まれている。
しかし、そういう問題設定は、どこか「本末転倒」ではないのか。
ここで、「いじめ」のもう一つの側面について考えてみたい。
つまり、「いじめ」によって、子供が自殺にまで至って「大変」と考えるとき、それは、

  • 反省

された認識であることが分かるであろう。「いじめ」とは、ある「状態遷移」を指唆している。

  • ある人A:ある人Bに、いじめられていない。
  • ある人B:ある人Aを、いじめていない。

これが、ある時間が経過した後、

  • ある人A:ある人Bに、いじめられている。
  • ある人B:ある人Aを、いじめている。

に、変わった。じゃあ、その間の「いつ」変わったのか? それは、いわば「後」から、振り返って発見される。つまり、

によって「発見」されるのだ。
ある人Aは、ある時、ある人Bに、嫌味を言われたとする。すると、ある人Aは、不快な感情になる。しかし、そのすぐ後で、ある人Bが謝罪をすれば、ある人Aは、その感情をおさめたことが予想される。他方、もしある人Bが、さらに嫌味をエスカレートさせたら、どうか。そういう場合でも、その後、ある人Bが謝罪をすれば、その感情をおさめたかもしれない。
こういった交互の諍いを繰り返した後、ある時点で、ある人Aの「堪忍袋の緒が切れる」。つまり、その時、「いじめ」は、お互いに自覚される。
それは、家に帰った後かもしれない。次の日に、最初に会ったときかもしれない。いずれにしろ、統計力学的に言えば、

が起きている。こうした場合に、「いつ」どの時点で「なに」が起きたら、それを「いじめ」と「定義」できるのか、といったような、メルクマールが指摘しづらい、という特徴があることが分かるであろう。
もし、「いじめ」の対策のために、学校に警察を介入させたときに、なにが起きるかを予想してみよう。
まず、中学や高校に入るときに、最初の一週間は、みっちりと「誓約書」を書かされることになるのではないか(今の企業でも、最初は、不法行為を行った場合の「自己責任」を受け入れさせる「誓約書」に、一筆を書かされるだろう。一週間くらい、トレーニング、レクチャーを受けて、「いじめ」をやったら、どうなるか、を親子、共に分からせるわけだ)。
そうすると、何が起きるだろう? 多くの場合、「いじめ」をやっているのは、

  • いいお家(うち)の子供

である場合が多い。つまり、資産家の子供や、地元の政治家の子供のような。だから、「いじめ」を、

  • ルール

でコントロールしようとしたときに、そういった名家の子供を、「いじめ加害者」として、「犯罪者の烙印を押し」、県外に逃亡させなければならない、というような事態が続発することも考えられるだろう。
また、もしも、ある一人の生徒が「いじめられている」と分かったとき、その

  • クラスの全員

を、牢屋に入れなければならない、ということまで分かるかもしれない。つまり、それが、

  • 監視社会

ということの意味なのだ。勉強ができて、将来有望そうだからこそ、「いじめ」も「うまく」やってきた子供たちが、次々と、

  • 警察の「罠」

につかまり、(退学を強要され)将来の道を断たれるかもしれない。
もし「いじめ」を結果の悲惨さによって、コントロールしようとするなら、そのエスカレートを止められなかった時に、「自殺」という結果になることは、論理的に、理解できるであろう(それが、止められなかった、ということなのだから)。では、「いじめ」を

  • ルール

によってコントロールしようとしたなら、どうなるか。今度は、結果の悲惨さを伴わずに、「いじめ」加害者の
自由
を奪う形に結果することが分かるであろう。それが、警察の学校介入が意味することであるわけだ。
「いじめ」という言葉は、「人権」という言葉の、意味が反対というだけで、その用法において、非常に「似ている」印象を受ける。
それは、つまりは、具体的な「定義」が、ない。ないけど、なんとなく、みんなで「人権って大事だよね」と言い合っている。もちろん、そうなんだけど、だったらだったで、

  • これがなんなのか

を明確に「定義」できる必要があるんじゃないのか? ということへの、自覚が感じられない。なんとなく、今ある言葉を使って、なにかを表現しようとして、じゃあ、それが「うまくいっている」ということを、どうやって、確認できるのか、といった疑いが感じられない。

  • 「分かるよな」

こういったことは、つまりは、「人はどう生きるべきだと思うのか」みたいなことを、それを言っている人自身にないからじゃないのか、といった感想を持つ。
なにかの信念をもって生きている人は、その信念に人々は、合わせて生きるべきだと思っているので、「いじめ」についても、そういった視点で考える。なんらかの宗教に生きているなら、

  • どう生きるべきか

は、その宗教を抜きには考えらないし、そういった延長にイメージするだろう。
つまり、

  • ある人A:ある人Bに、いじめられている。
  • ある人B:ある人Aを、いじめている。

という二人がいたときに、

  • ある人A:どうなればいいのか(どういう人間になればいいのか)?
  • ある人B:どうなればいいのか(どういう人間になればいいのか)?

これが「いじめ」問題を考えている学者たちが、なぜか「問うていない」ことこそが、異様な印象を受けるわけである。彼らが言っていることは、

  • ある人A:なにをしてはいけないか?
  • ある人B:なにをしてはいけないか?

ばかりで、つまり「否定」を連ねているだけであって、じゃあ、この二人が

  • どうなればいいのか?

この二人の関係が、どうなればいいのか、の具体的なイメージをしていない(構成的なプロセスをイメージしていない)。「いじめ」には、ある一定の特徴があって、以下のプロセスを踏んでいくことで、その、からまった糸をほぐして、「いじめ」をなくせる。しかし、私が聞きたいのは、その「いじめ」が終わった後において、その学者さんは、

  • 「この」二人

が、どういう関係にあってくれることを、目指していたのか、ということなのである。二人にどうあってほしいのか。お互いが、お互いを、どういうふうに認め合う関係になってほしいのか。
そして、そのことは、言うまでもなく、「その二人」と知り合いになって、その「固有名性」を理解した上でなければ、「何も言えない」ことが分かってくるであろう(それは、精神医療が、患者の診断なしに、何も言えないことと同じだ)。
つまり、宗教なしの日本人、を生きる、彼ら学者たち自身にも、

  • いじめの「否定」

が、なんなのかを「イメージ」できてないんじゃないだろうか...。

ネットいじめ (PHP新書)

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