彭丹『中国と茶碗と日本と』

日本文化という言葉を使うとき、それは「事実性」として言っているのか、「概念」として言っているのかは、大きな意味の違いを指唆しているように思われる。
例えば、東浩紀さんの「憲法2.0」という、新憲法草案にしても、何度も「文化」や「文化的遺産」という言葉が頻発する。特に、気になるのが、第一条の「天皇」の「定義」に関係する部分であろう。

  1. 天皇は、日本国の象徴元首であり、伝統と文化の統合の象徴である。
  2. 天皇は、日本国の伝統と文化の継承者として、過去、現在および将来の日本国民のために儀式を行う。

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ところが、現在の憲法では、「文化」というのは、ちょっと違う文脈で一カ所にだけ使われている。

第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
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ようするに、明らかに、上記で使われている意味と、下記が、違っているように思われる。下記は、もっと、国民一人一人の「生活」を、(日本国民の感覚として)「一般的」な「質」の向上という意味で使っている(日本人が生活が良くなったと思うことは、日本人のだれもがやっているような、文化的慣習が「できる」と類似している、と)。
ちなみに、現行の憲法での「天皇」の「定義」は以下だ。

第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
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下記においては、天皇を「文化」というカテゴリーと

  • まったく関係なく

定義されていることが伝わるのではないか。ここにおいては、天皇の定義は、あくまでも「政治学的カテゴリー」の問題が問われているので、そういった「内容」的な話を必要としなかった、ということが理解できる。
他方、上記の定義は、どこか「中二病」的だ。まず、「日本国の伝統と文化の継承者」という「定義」をどうしてしなければならないのか、その「意味」がよく分からない。そもそも、歴史的に「事実として」天皇「家」が、そういった傾向を持っていたのかもしれないが、「概念」として、

  • 伝統と文化の継承者

などという意味不明な「役割」を演じていたなどとは、過去の日本人を含めて、だれも思っていないわけであろう(つまり、これは一種の「解釈」を、発表しているにすぎない)。
というのは、おそらく、前者で、しつこく頻発する「文化」という言葉が、実際の「文化」について言っているのではなくて、

  • 宗教

のことを言いたいのではないか、と思われるのである。ここで、「文化」という言葉を使うことによって、表現したかったことは、「宗教」なのだと思われる。しかし、一般に近代憲法においては、政教分離が「常識」となっているため、その通りに書けなかった、というのが、正直なところなのではないだろうか。
つまり、この憲法は、「文化という言葉を宗教の意味で使うことによって、事実上の宗教国家を目指した」とも言えるのかもしれない(全文の、「文化」の文字を「宗教」に一括置換して読むと、おもしろいかもしれない)。
下記において、天皇の「儀式」は、最後の添えられた、「形式的」な意味しか与えられていないように思われるが、上記においては、最初で、その儀式を「宗教」と非常に密接に関連して、行うことが宣言されている。つまり、3・11で、天皇が鎮魂の祈りの儀式を行えば、それは、
国家宗教
として、行われる、つまり、天皇個人の私的宗教心から、行っている、というより、宗教国家が必然的に要請する「義務」のようなものとして、行われる。また、国民で「ある」ということが、この宗教の「信者」で「ある」ということと、同値にある、といったことを指唆している、とまで、言えるのかもしれない(こういった、近代憲法アポリアを回避するために、「国民」と「住民」というカテゴリーを導入したのかもしれないが、果して、どこまで、成功してますかね)。
掲題の本において、よく日本人が使う「日本文化」というのが、よく分からない、というようなことが語られる。
というのは、日本人が毎日のように行なっていること(七夕にしろ端午の節句にしろ雛祭にしろ)の、ほとんどが、昔の中国で行われていた行事であるからだ。
しかし、様子が変なのである。
つまり、それは「過去」の中国、なのだ。お屠蘇酒を飲む習慣は、今の中国にはない。宋の時代に、さかんに行なわれていたそうだが、今の中国人はやっていない。
日本の伝統服とされている「和服」は、そもそも、「呉服」と呼ばれているわけで、つまり、呉の国の衣装のことを言っているにすぎない。
例えば、今の日本語も、基本的に平安時代に、その当時の中国で話されていた「音(おん)」が、日本においては「そのまま」残っているとも言えるのではないか。
中国は言うまでもなく、
易姓革命
の国であって、何度も夷狄によって、王朝を簒奪されることを繰り返してきた。それが、中国の「文化」であって、つまり、何度もそのたびに、「流行」が変わってきた、ということなのだろう。チャイナドレスは満洲族のものだったから、明における漢服に代わり、清では、チャイナドレスを着るようになる。
逆に日本は、中国と親密な交流が行われていた時期が、単発的だったので、むしろ、日本の方が、過去に中国から輸入した文化を大事にしていて(まるで、日本の文化であるかのような所まで「高めて」使っていて)、まるで、
漢民族
の生活習慣を、一貫して守ってきた、漢民族を「継承」している国にさえ、見えてしまう所がある、ということなのだろう。
掲題の著者が不思議に思うのは、なぜか、日本の「国宝」に、中国で作られたものがあることだ。なぜ中国製を日本の「国宝」にするのか。
同じようなことは、本居宣長の「国学」にも言える。

古事記』がある。日本民族の起源とされる内容なのに、序文は漢文で書かれ、言葉の多くは漢籍によるものである。中国古代の夏(か)の禹(う)王、殷の湯王なども登場する。しかし、それでも本居宣長は『古事記』が中国文化と関わりなく、古代日本の姿をそのまま伝えていると主張する。
この本居宣長によって確立された国学のも疑問を感じる。国学とは、本来、中国古代の周の時代に、国都に設けられた学校のことである。国学という漢字表記自体が中国文化そのものであるのに、中国を排除して日本民族固有の思想・精神を求めた学問に、「国学」という中国語を冠して矛盾を感じない。

見慣れたものには矛盾を意識しない。というより、その矛盾も含めて、自分たちの文化がこのようなものだと日本人はおのずから考える。これは私にとって、日本人と日本文化の興味深い一面でもある。

つまり、ここで「文化」とは「事実性」を言っているのか、それとも「概念」の問題を問うているのか? 概念ということで言うなら、そもそも、本居宣長が言っているような「国学」と「同じようなことを主張して行われていた」ことが、

  • 中国にない

と思うこと自体が、変なわけであろう。じゃあ、何がその「独自性」なのか?
掲題の本は、日本における「陶磁器」の歴史における、中国の位置付けを歴史的に検証していく。
しかし、一言で言えば、日本には、「陶磁器」の歴史は、ほとんどない。では、なぜ日本において、それらが発展しなかったのか、と問うことができるだろう。

それでは、なぜ古代日本人は、製陶技術の向上や革新に積極的な意欲を持たなかったのか。その理由は二つあると考える。
一つは、古代日本、というより、近世までの日本では、庶民の日常食器には木器が主として使われ、やきものが使われなかったためである。
小山冨士夫氏によれば、「日本は『きのくに』とか『ひのくに』とかいわれるように、国土の過半は樹林でおおわれている。このために樹木を原料とする木器や漆器は古くから発達したが、陶磁器はおくれて発達した国である」。

もう一つの理由は、やきものは中国から輸入することができた、ということである。必要ならば、中国から求めたほうが質の良いものが得られるし、自ら窯を掘り土を捏ねて造るよりたやすいためである。もちろん、これは権力や金銭を持っている貴族に限られたことである。

この状況に、少しの変化があらわれるのが、「お茶」が、日本に輸入されてから、だという。しかし、その評価のされ方は、少し変わっていた。

しかし、中国磁器を模倣しようとしたものの、技術の差が大きすぎて、それに及ぶことができなかった。天目茶碗を造ろうとしたら、瀬戸黒になったり、青磁茶碗を造ろうとしたら、黄瀬戸になったり、白磁を目指したのに、志野焼のような効果しかできない、ということもあった。
ここで、茶人の好みが日本の陶磁史に決定的な役割を果たすことになる。
もし茶人の存在がなければ、中国磁器を模倣しそこなったこれらの日本磁器は、出来の悪い雑器として歴史の風塵に消えたのかもしれない。そうなると、日本の製陶も単なる中国陶磁の物真似に終わったかもしれない。
しかし、足利将軍家の茶人と異なる、一群の茶人がいたのである。彼らは煌びやかに輝く、天目茶碗、潤沢な光沢を放つ青磁茶碗より、この出来の悪い雑器を好んだ。村田珠光、竹野紹鴎、そして千利休である。

興味深いことに、こういった日本の茶人の一派(彼らも上流階級に属すことは言うまでもない)が、「逆に」、出来の悪いポンコツを、
好んで
使った、ということなのだ。これを日本人は「日本文化」と呼んだ。
そもそも、私たちは、物を作るとか、「芸術」ということを、どういったことだと思ってきたのだろうか。

宋代の景徳鎮青白磁を、現代の日本で再現しようとしている日本人陶芸家のグループに加わり、景徳鎮窯遺跡の調査旅行に同行したときのことである。
明・清時代の最盛期の景徳鎮からは想像できないほどの、現代景徳鎮の荒廃ぶりに、私は言葉を発することができなかった。陶芸家たちと町の磁器店を一軒一軒まわってみたが、目に留まる作品に行き当たらない。私は一人の陶芸家に尋ねた。「現代景徳鎮の磁器はいかがでしょう?」。
彼はしばらく黙っていた。中国人の私にどのように言っていいか迷っていたのだろう。
でも、彼は言った。「アジがないんです」。
世界の人々に愛され、かずかずの名品を生み出した景徳鎮陶工の後継者たちであるのに。
季節が厳冬のさなか。町をめぐる昌江は水が枯れて、細々と流れている。この川にはかつてどれほど豊かな水が溢れ、どれほど賑わっていたのだろう。東京の博物館や美術館で見た数々の景徳鎮窯の作は、すべてこの川を通じて運ばれたものである。だが、今日の江面に船ひとつ見えない。
金を稼ぐために造られたものと、命をかけて造られたものとは、迫力が異なる。
現代の陶工たちは、目先の利益しか目に入らず、濫造に走りがちである。しかし、先祖の陶工たちは、生きていくために監陶官の厳しい目をくぐらなければならなかった。だから精魂を込めて作品を造る。そこには、今の人たちのとうてい及ばない精神が潜み、霊気が籠っていた。
景徳鎮だけではない。すべての官窯は、このような皇帝と陶工の執念のせめぎあいによって栄えたのである。

官窯で作られるものは、ようするに、「国家のために」作られるものであって、要求される品質は、ハンパない。それは、宮廷の儀式においても使われるであろうし、単に、質だけではなく、「均一」性も要求される。つまり、こういった、陶工と監陶官の間の「ゲーム」が、現代では、まったく、再現さえ及ばない

  • 品質

を可能にしたわけであり、その、並ぶもののない、「技術」が、少なからず、庶民の使う日用品にも及んでいく。
(そして、こういったことは、現代における、日本の産業技術者が次々と、韓国や中国に、引き抜かれていることと比較されるように思われるわけである...。)

中国と 茶碗と 日本と

中国と 茶碗と 日本と