大川真『近世王権論と「正名」の転回史』

日本の政治史が、飛鳥時代の、律令国家から始まっているということについて、反対する人はいないであろう。つまり、それは、
中国の制度
の「輸入」のことを言っている。しかし、源氏の頃から、その政治体制は武士を中心とした封建制へと移っていったわけだが、明治維新において、それを再度、群県制に戻していった、と言えるだろう。
このように考えたとき、どう考えても、日本の政治体制において、中国の制度は無視できない、緊張関係を常に持ち続けていたのではないか、と思われる。
その場合、なにが、どうあることが求められるのかは、二つの視点が必要と思われる。

  • 中国の制度に近づけ、より、向こうの合理性(正当性)によって、制度の安定を目指す。
  • 中国の制度から遠ざかるが、それは、あくまで、日本の特殊性を考慮に入れての施策。

結局のところ、政治とは「全体」であるわけで、こういった全体によって「安定」しなければ、政治は混乱をまぬがれない。そのように考えたとき、もともと、中国の制度を基盤にして、中国の制度のコピーとして、日本の政治システムが始まっているのだから、

  • 相当な理由がない限り

中国の制度と「同じ」ものになっていないとさまざまな「矛盾」が置きるだろうことは理解できるであろう。つまり、その矛盾を、なんとか、解決しなければならない。つまり、「概念的意味付け(=正名論)」をしなければならない、ということが分かるのではないか。
それは、現代の日本の憲法にも言えて、基本的に明治憲法、戦後憲法とも、その精神は、朱子学的な「古代中華政治システム」の延長に、捉えることができる。
明治憲法が、立憲君主制絶対君主制かには、議論があるところだが、少なくとも戦後憲法は、立憲君主制なわけで、天皇が実質的な政策策定過程に、一切関わらない「憲法的制約」になっている。
その代わりに、天皇が「形式的」任命を行うことで、「形式的」な、「権力の源泉」を天皇が維持している。
立憲君主制には批判も多いが、いずれにしろ、中華思想における、

  • 天子

の位置が、天皇であることは、このように考えた場合、比較的理解しやすいのではないか。
それに対し、一つ前で紹介した、東浩紀さんの新憲法草案では、二元論的元首という体制になっている。

  • 天皇 = 象徴元首
  • 総理 = 統治元首

なぜ、これが変(=中二病的)なのかは、結局のところ、私たち国民は「誰」と主従関係にあるのかが、上記では意味不明になっているから、と言える。
これは、この前、電通のところで言ったことと同じであるが、例えば、もし、象徴元首と統治元首の両方に、反対のことを命令されたときに、「どちら」に従うのかが、よく分からない。つまり、これは、

非主体性(=主体の「否定」=人間の動物化)を意図しているような、ポストモダン的な「奇怪さ」を見せているんではないか、という印象を受ける。
しかし、こういった「二元論」の主張は、むしろ、明治「以前」の日本において、大きな意味をもっていたことが、掲題の本では、主張される。

天皇・公家が担う「文」の内実とは、「いにしへの礼楽」であり、天皇、公家の存在意義は、専ら「いにしえの礼楽」を保持していることに求められる。一方、武家は、「弓矢の道」に務め、天下を警護するという「武」を本分とすると述べられる。武家政権が成立した後は、かつて古代の天皇がそうであったように、一人の君主が文武を兼備するという支配方式は望めず、天皇・公家が「文」、武家が「武」をそれぞれ分有し、具体的には、天皇・公家は「いにしへの礼楽」を、武家は「弓矢の道」を、それぞれが「役」」として務めることが求められるのである。「文武」を重要な政治原理と考えていた蕃山は、「将軍」をはじめとする武家が「武」を、天皇・公家が「文」をそれぞれ担うという二元論的な在り方を、理想的政体ではないとしながらも当代に適合する政治方式と考えたのであった。

これは、熊沢蕃山の儒者の立場からの「妥協的」な次善策であるが、そもそも、新井白石の「正名論」は、基本的にこれと同じと言えるようなもので、あったわけだが、この二つが、上記の憲法と、決定的に、一点、違う部分がある。

武家は「武職」という「職掌」を第一に重んじなければならなく、朝廷の官位を徒に求めるべきではない。こうした姿勢が頼朝の任官制度に貫徹していたと、白石は評価するのである。「文事」は武家職掌でなく朝家の「家業」とし、「武職」を武家の「職掌」とする論理は、前述の通り、「礼楽」の源泉を「天皇」とし「征伐」を「将軍」が把握するという国王復号説で展開された政体観と一致している。

現行の官位制では、武家としての職掌を軽んじ、朝廷から授けられる官位を貴び、結果国内的にも対外的にも、徳川政権の権威を失墜させてしまうという強い危機意識を白石は持っていた。武家官位制の問題を解消するために、白石が提唱したのが、武家勲階制である。

つまり、なぜ、徳川体制が、これほどまでの長期安定政権を維持できたのかは、この新井白石の慧眼にあると言えるであろう。つまり、彼は

  • 国内向け

の権力の系統樹を、完全に「武家内」で閉じた、ところにあったのではないか。武士の一人一人の「主人」は「必ず」武士とする。しかし、一番トップの将軍「だけ」は、その「上」に、天皇を置く。ただし、それは、

  • 国外向け(といっても、当時における国外とは、ほぼ、朝鮮だけを意味していたのだが)

の「礼楽」(朝鮮通信使を迎える宴の場)においての、意味のことだった、と。

蕃山によれば、秦人が始皇帝の悪政を避けて渡来した結果、日本に古楽雅楽)が伝わり、その後、中国には雅楽が絶え日本にしか残存していないという。
理想的な雅楽は日本にしか残存していないと認識されるが、その日本のなかで雅楽を保持しているのが、先ほど掲げたように、朝廷なのである。

「いかにしても文事を以て我国の長ならん事を争」う意欲漲る朝鮮通信使に対しては、儒教的価値観に沿って雅趣な文物を示す必要があった。外交主権・国内の政治統治権は「国王」たる将軍が完全に把持する戦略を白石は打ち立てたが、将軍に対しては一方で武家の旧儀を復興させる役割も白石は期待していた。ただし「武家ノ旧儀」は東アジア世界の共通的価値であった儒教的価値観からすれば特殊日本的である。儒教で重んじられる雅楽の担い手はどうしても朝廷に頼らざるを得なかった。言い換えれば、当時の東アジア世界において王朝の正統性を示す「礼楽」の在処は天皇家に求めざるを得なかったのである。

ここにも、ある種の「逆説」を感じないだろうか。なぜ、徳川体制が、天皇制の存続を許してきたのか。そこには、たんに許した、ということよりも、徳川が「天皇家への弾圧」を、
緩めてきた
というような表現の方が正しいのではないか、と思われる。それは、一種の「宗教弾圧の緩和」という表現に近い。
しかし、新井白石が推進し、その後の何百年の徳川体制の存続に繋がる、その礎には、徹底した、天皇家の権威の排除があったことは言えるであろう。
つまり、武家の「主従関係」を、完全に武家の中で閉じる。もちろん、家康は、神となり、武家独自の「音楽」も生まれる。しかし、あくまで彼らは、天皇家となんの「直接」の関係がない。
どこかの武士で、「天皇家から、なんらかの官位が欲しい」と思い、宮廷に仕えようとする、武士が出てきそうなものだが、そういった存在を
徹底
して、徳川体制は許さなかった。そういう意味で、新井白石の目指した、国家体制は、一貫した統一性があったように思われる。
その場合に、上記における、「天皇」が象徴する「文化」が、ようするに、

  • 中国から「輸入」した文化

であったことは、非常に象徴的なように思われる。そういった「輸入技術」を「継承=保存」し続ける場所として、「天皇家」に居場所が「許された」というのが、新井白石の政治的リアリズムだった、ということになるのだろう。
新井白石の、もう一つの慧眼が、「武士」の名分である。武士とは、何ものか? 上記で、私は、日本の政治が、中国の政治システムのコピーで始まった、と言った。そうであるなら、この「武士」が、

  • 何者

なのかについて、それ相応の「正名」を求められていることが分かるであろう。

朱子学においても当然、君臣関係は重視される。しかし「君臣之義」は、臣下が君主に付き従うという現状の君臣関係の絶対視を意味するわけではない。臣下が「義」のあるところに従って自らの去就や進退を主体的にかつ的確に判断する態度によって、あるべき「君臣之義」が成就される。

中国の官僚(=士大夫)は、そういう意味で、武士とは、まったく違う存在だと言わざるをえない。武士は、戦国時代の傭兵から始まった概念のため、戦場における命令系統の、絶対的な関係が、重要視される。
これは、例えば、ある武士が、自分の父親と主君の、どちらの「命令」を重要視すべきなのか、という問題を考えたとき、いかに、武士が中国の儒者とは違った存在であるかが分かるであろう。

君臣関係をより緊密にするために絅斎が提示した方策が、義合である君臣関係を天合へと移行させることであり、親子間における「愛」の感情を、君臣関係へ連続させていく在り方である。

「文王ノ紂ガ無道ヲ知ラセラレスヌデハナイガ、唯君ガイトウシウテナラズ、忘ルルニ忍ビラレヌ心カラ、聖明ノ君ジヤト仰ラレタ。親ノ子ヲ思様ニ、何程ニワルイコトガ有テモ、ソレヲ知ヌデハ無レドモ、其ワルイナリニ弥カワユフテ忍ビラレヌト同ジコトゾ。」(同前)
「真味真実、君ガイトシフテナラヌト云至誠惻恒ノツキヌケタデナケレバ、忠デナイ。」(同前)

浅見絅斎による君臣間の情宜的結合の強調は、『葉隠』においてより熾烈な形で展開される。

「恋の部の至極は忍恋也。「恋死なんのちの煙にそれとしれつひにもらさぬ中の思ひを」、如斯也。命のうちにそれとしらざるは、深恋にあらずや。思ひ死の長け高きこと限なし。仮先より「ケ様にては無きか」と問れても、「「全思ひもよらず」と云て、思ひ死に極るは至極也。(中略)此事、万の心得にわたるべし。主従の間など、此心にて澄なり。」(聞書二、第三四条)

武士にとって、自分の父親は一人しかいない。しかし、主君となりうる可能性のある人は「いっぱいいる」。だったら、主君より、父親の方の言うことを聞くべきなんじゃないか? もしこれが、中国の儒者であれば、別にこれでいいだろう。しかし、日本の武士では、そういうわけにいかない。どう考えても、
主君
を絶対の存在にしなければならない。少なくとも、父親より少しは上ということにしておかないと、戦国の武将としては、謀反を疑われる。
しかし、「そのため」に、どんな「正名」がありうるであろうか?
上記にあるように、浅見絅斎や「葉隠」は、それを、いわゆる
ホモセクシャル
な、関係によって、この「対立」を乗り越えようとした。男女の「恋愛」に比肩されるようなものを、武士の主従関係に「積極的」に導入していこうとしたのだ、と。
いずれにしろ、こういった「平和」が続いた、徳川体制が、なぜ明治維新へと進んだのだろうか? つまり、思想の上における、そのターニングポイントはなんだったと言えるのだろうか?

上代日本において「名」のない純朴な「自然の実」が存在しており、その「実」なる世界を客観対象化しうる「名」として儒教の徳目の重要性を説く。この点、「名」と「実」との一致を説く「正名」の基本的立場を継承しており、寛政期の朱子学派および藤田幽谷と原理面では大きな違いがないように思えるかもしれない。しかし以下に見られるように、正志斎は「名」ではなく、「実」の世界に大きな比重を置いており、寛政期の朱子学派および藤田幽谷が「名」の世界の革新を思想展開の起点に置いていたことと対照的な相違を示す。

「帝王の恃んで以て四海を保ちて、久しく安く長く治まり、天下動揺せざるところのものは、万民を畏服し一世を把持するの謂いにあらずして、億兆心を一にして、皆その上に親しみて離るるに忍びざるの実こそ、誠に恃むべきなり」(『新論』国体上)

天皇がその地位を持続してきた所以を、天皇の統治能力ではなく、被統治者の「億兆心を一にいて、皆その上に親しみて離るるに忍びざるの実」という心情の「実」に求める。また次のようにも述べる。

「天地開けし日より今日の今に至るまで、一人も天位を犯すものなきは、即ち、君臣の義にして、言語を持たずして、其教自然に備れるなり。」(『退食間話』)

言語的作為ではなく、臣下や民衆のうちにおのずから湧き出る尊王の心情こそが、後述するように、正志斎の祭政一致論の根拠をなすものである。
イデオロギーが飽和・対立する状況に対し、正志斎は、従来の「正名」を転回させることで、換言すれば、言語的作為を否定し、秩序の「自然」なる性格を強調することで、イデオロギーの統一化を企てた。斯かる正志斎の思想的転回には本居宣長の影響がある。とりわけ「自然」概念の形成には、宣長の「惟神」解釈が大きく影響している。

掲題の著者は、その「転回」における、最も重要な人物として、会沢正志斎を置く。
正志斎以前と、正志斎以後では、何が違うのか? 一言で言えば、彼は、それまでの「朱子学言語ゲーム」つまり「正名論」の、

  • ちゃぶ台をひっくり返した

わけである。正志斎以前において、論点は、あくまで「正名論」であった。武士と中国の士大夫は違う。じゃあ、武士とは何か? それを「名付け」できるかどうかが問われていた。こうして、違った「定義」が可能であるなら、そこから、「武士の存在意義」が保証される。しかし、正志斎は、そういった手続き自体が、
意味がない
として、やめちゃった。つまり、そんな「名前」なんか、どうとでも付けられるし、勝手に人間がやることであって、そんなもんより、人々の「自然」、「心」、「誠」、内からあふれる「実」が、あるべき形であるなら、それでいいんだ、と。
正志斎が「新論」を書いたとき、一つだけ、はっきりと、白石の時代と違っていたことがある。それが、

  • 対外的な緊張関係

である。日本は、白石の時代、基本的に外交は「朝鮮」との間にしかなかった。だから、朝鮮のことだけを考えていればよかった。ところが、正志斎の時代になると、ロシアの船が日本近海に来るし、中国はアヘン戦争で、ボロボロだし、アメリカから黒船が来る。
つまり、白石のように、国内的な権力関係の調整を考えていれば、すむような時代状況では、なくなっていた。白石がこだわっていた、「正名論」において、なにが正しかろうが、そんなことを、ごちゃごちゃ、国内でもめている間に、外から黒船がやってくる。
そこで、正志斎は、なにをしたか。もう、そういった衒学的な論争をやめてしまった、わけである。
その場合、彼が、その自己の主張の理論武装を行うのに使ったのが、「本居宣長」である。

K・マンハイムは、『イデオロギーユートピア』において、「存在被拘束性」を全体的イデオロギーとして一般化し、マルクス主義の反映論、一方で新カント学派に見られる主観主義の双方の立場を批判的に継承した。端的に言えば、イデオロギーが諸階層・諸集団の利害関心を反映したものである一方で、イデオロギーによって諸階層・諸集団に新たな現実がもたらされることを論じたのである。その際に思想を「イデオロギー」と「ユートピア」との二面に分け、どちらも現実から超越する性格を有しながらも、後者の方が現実に対する反作用的性格を強く持つことをマンハイムは明らかにした。マンハイムの理論はそのまま援用するわけではないが、日本思想史においては「イデオロギー」」が融通無碍に研究者によって使用されている現状を鑑みると、「イデオロギー」と「ユートピア」という使い分けから思想の性質を論じることは、今でも一定の有効性を持ち得ると私は思う。特に本居宣長という思想家を論じる際には、この視点が有効である。
周知の通り、宣長は、当代に染みついた「漢心(からごころ)」から脱却することを第一義として説く。宣長の狙いは、中国や儒教の価値観への断固とした拒絶である。言い換えれば、あらゆる価値がイデオロギー化されることへの頑なまでの拒絶である。したがって彼が提示し「皇国」像や天皇観は、今の社会で実現すべき当為的性質を有するとは考えなかった。その意味でどこまでも宣長は「ユートピア」的思想家である。この点は丸山の『研究』第一章第四点五節の中心的論点であり、「政治が非政治化(Entopokitisieren)されること」を指摘した丸山の眼力はさすがというべきであるが、丸山はその後の研究でこの点を深化させることはできず、他の研究者においても、宣長思想のユートピア性についてはまともに触れられることはなく、近代以降との連続性を安直に指摘する研究が横行している。
宣長思想の本質はむしろ個人のアイデンティティに訴えかける魔力性にある。この点に踏み入ったのは、相良亨である。相良は、宣長の「せむすべなく、いとも悲し」という、不条理を禍津日神のはからいとして仕方なく受容して悲しむ態度が安心論へと結びついているという構造を明らかにし、相良の論は前田勉氏によって深められた。宣長には、現在の不条理を既存の因果律で解消することなく、それを不条理としてそのまま受け取るという近代的自我の相貌がある。さらにその不条理を受容する奥底には、「世中の事はみな、神の御はからい」「世中の人は人形」(『玉くしげ』)と述べるごとく、神への畏敬と「被造物」感というヌミノーゼ(R・オットー)的な感情がある。かかる意味で、宣長はどこまでも神学者なのである。したがって宣長が説く古代天皇制国家への憧憬の感情が、当代に実現すべき国家イデオロギーとなり得るわけではない。宣長は国家イデオロギーを抽出するには不適な思想家である。

宣長の特徴は、その「保守性」ではないだろうか。彼の特徴は、徹底した、現状肯定である。彼は社会変革運動といったものを、ほとんど、行っていない。新井白石荻生徂徠は、積極的に、当時の徳川幕府の政策決定に関わり、実践的で漸進的な社会変革運動にコミットした。
他方、宣長は、口では文句を言いながら、まったく、変革を目指す運動を行わない。基本的に彼にとって、現実が「このようにある」ことは、

  • リアル

ななにかであって、変えることを目指すなにかではない。ひたすら、受け入れる「覚悟」を読む人に求める。
その論理を、一種の文献学(=科学)が担保する。古事記に描かれる太古の世界の
理想社
は、この現代には、実現しないし、そんなことは不可能だと思っている。しかし、ということは、これは、
未来社
に、その「ユートピア」を投影していることと同型だと、解釈できるだろう(東浩紀さんの「一般意志2.0」が、一つのユートピアとして、語られていたことと比較できるかもしれない)。
(つまり、キリスト教社会における「千年王国」である。言うまでもなく、本居宣長の時代においては、蘭学新約聖書などが、知識人に読まれるようになり、大きく影響を受けていく。)
宣長から正志斎へと引き継がれる、その「ソウル」は、一種の「非合理性=私的言語ゲーム」である。朱子学の「正名」を軽視することは、宣長にとって、瑣末なことでしかない。というのは、彼は、そもそもの「漢心(からごころ)」を否定するというスタンスによって、東アジアの漢字コミュニケーションを、
根こそぎ
否定する。彼は、まともに、東アジア世界の人々と対話する気がない。現代を「達観」し、冷めた目で、冷笑している(まさに、「神学」だ)。
もちろん、彼の立場にしても、中国を全否定しているとか、そういうわけではないのだろう。彼が徹底して拒否するのは、その「漢心(からごころ)」であって、例えば、古事記には、論語がでてくるわけだし、それくらい古代の中国文化は、アクセクタブルであり、その時代に帰って生きようとしている中国人がもし存在するなら、彼は受け入れたのかもしれない。逆に、日本においても、「漢心(からごころ)」に染まった日本人を、彼は受け入れない。
確かに、この、「漢心(からごころ)」と「やまとごころ」の対比は、一つの倫理的な地平を示していて、興味深くはあるが、しかし、だとしても、なぜそれが、
日本
なのかは、よく分からない。普通に考えれば、中国にだって、同じようなことを言っていたやつはいるのではないのか?
例えば、正志斎の「新論」は、それ以降の、日本軍国主義イデオロギーとして、軍人の必須の読本となっていくわけだが、本当に、上記のような「自然」「心」「誠」「実」の、ターミノロジーによって、社会秩序は保証できるのか? こういったものによって、世界中の人々の「説得」に成功しうるのか?
日本の明治以降、日本政治は、「クーデター」と切っても切れない関係になっていく。5・15から、2・26から、日本の政治的決定は、クーデター的恫喝と不即不離に進むようになる。それは、朱子学言語ゲームにおける、

  • 正名論

を、おろそかにしたからではないのか? そして、その問題は、現代政治においても、なにも変わることなく、解決することなく、続いているのではないのか...。

近世王権論と「正名」の転回史

近世王権論と「正名」の転回史