佐伯啓思『経済学の犯罪』

近年、あらゆる事象を経済学のターミノロジーで説明することが、当たり前になった。しかし、その道は「いばらの道」である。つまり、経済学(=新自由主義)とは、一つの

  • 経済モデル

を示しているにすぎず(これを「天動説」と比較してもいい)、つまり、一つの「説明体系」を意味しているにすぎない。
こういった「モデル」というのは、正しいとか間違っているとか、では

  • ない。

もう、このモデルで考えるとなったら、とことん、これで考える。これで説明する。どんなに無理筋に見えようがなんだろうが、これで説明する。それが「モデル」ということの意味なのであって、つまり、これは一種の

  • 正統と異端

の神学論争であることを理解しなければならない。

今日、多くの先進国は軒並み景気の悪化に苦しめられている。ほぼゼロ金利の状態にあってこれ以上の金融緩和は難しい。いっそうの金融緩和はまたバブルをもたらすであろう。となればどうしても財政拡張に頼らざるを得ない。だがその結果は財政赤字となり、また投機資本に狙われることになる。それを回避しようとすれば緊縮財政や増税をとらざるを得ない。しかし緊縮財政政策や増税はさらに景気を悪化させるだろう。
こうして、深刻なトリレンマに陥る。「景気回復」と「財政均衡」と「金融の安定」の間にどうにもならないトリレンマが発生する。つまり「景気回復」「財政健全化」「金融市場の安定」の三つの目標が同時に成立しがたいということは、「景気悪化」「ソブリン・リスク」「バブル」のすべて解消することはできない、ということだ。
これは深刻な事態である。経済政策の軸が定まらないのだ。それは財政拡張へふれたかと思えば次には財政均衡へとふれ、また金融緩和へ向かい、バブルとバブルの崩壊をもたらし、また景気の悪化をもたらす。そして政治が著しく不安定化してゆくのだ。そして政治の不安定性はそれ自体がまた経済に動揺を与えることになる。こうした、一歩間違えば、底なし沼にずるずると引きずりこまれるような構造の上にわれわれの生活が置かれていることを知らねばならない。

どんなに「地球が太陽の周りを回っている」とすると説明が「きれい」に整理できる、ように思おうがなんだろうが「太陽が地球の周りを回っている」という「モデル」を採用している限り、あらゆる「採取」したデータを、この中に、

  • あてはめる

のだ。それが、無理筋だろうがなんだろうが、一切合財を「誤差」の中にぶちこむ。あまり「きれい」な説明体系になっていなかったとしても、「今回はちょっと形がいびつになってしまったが」みたいな感じで、お茶を濁して、ごまかす。
ここで「ごまかす」という言葉を使ったが、しかしじゃあ、どうすればいいというんだ? 「モデル」とは、そういうものであろう? じゃあ、実は「異端」こそ「正統」だった、とでも言うのか? そう言って、ガリレオのように裁判にかけられて死ぬのか?
上記の引用で指摘されている「政治の不安定化」は、今、どこの先進国においても見られる現象だ。まったく、議論が定まらない。むしろ、そういった「不安定」を、演じることによって、その
差異
を突き、一儲けしてやろう、という「一発屋」たちの「ゆすりたかり」の場と化しているかのようだ。

たとえば、仮にサブプライム・ローンを証券化して単独で売り出せば多大なリスクが想定される。そこでリスクの高い劣悪なローンを、細切れにして他の安全な証券と混ぜて新たな金融商品を売り出す。CDOでも複数の住宅ローン担保証券を細切れにしてうまく組み合わせて売り出すのである。こうして売り出せば、リスクは隠され、この商品の格付けは低くはならない。これは個別の投資家からすればリスクが低下した合理的商品にみえる。
また同様の「リスク管理商品」として先に述べたCDSクレジット・デフォルト・スワップ)がある。これも一種のリスク軽減商品である。もしも大手企業が破綻すれば保険金の支払いは膨大な額になる。そこで、この保険を証券化して売り出し、危険を分散するわけだ。しかし、大企業が破綻すうなどということは通常は考えにくい。二〇〇八年九月が来るまでは、この金融デリバティブは、誰もリーマン・ブラザーズが破綻するとは思ってもいなかったのだ。

バブルは汗水たらして働かなくとも、安手の錬金術のようにカネを生み出す。こうして生み出されたあぶく銭によってアメリカ人は過剰なまでのモノを買い込んでいた。バブルによって所得が生み出されるという期待が定着すれば、自動車であれ住宅であれ、身分不相応など気にせずにローンで買えばよい。統計上、アメリカの貯蓄率はマイナスにまで落ち込むのである。
まさに見せかけの繁栄であった。相次ぐ金融緩和によってバブルに対する責任を負うべきはずのアラン・グリーンスパンFRB連邦準備制度理事会)議長は、これを「根拠なき熱狂」といったが、確かに根を持たない繁栄であった。世界からアメリカに流れ込んでくる借金による繁栄であった。政府も同様で、アメリカ国債は中国や日本をはじめ世界から資金を集める手段となっていたのだ。

サブプライムローンとは、「優良」と「害悪」の

  • チャンポン

である。それを「おいしい」と思って、食べ続けたアメリカは、今、

  • 何が「おいしい」のか分からなくなった。

そこには何が入っているのか? 誰も信じられない。誰の言うことも信じられない。自分の選択眼も信じられない。舌がバカになってしまった。自分の舌を信じられないアメリカは、残された莫大な借金と、差し押さえられる家を前にして、茫然自失するしかない。
しかし、なぜ、アメリカは、こんなふうに、バブルの「淫夢」にふけることができたのか?
それもこれも、日本や中国が、必死こいて、アメリカの「国債」を買ったからではないのか? アメリカが、ただの紙切れを刷れば刷るほど、それを片っ端から、日本や中国が、

  • 国家の資産を、献上しますので、どうぞその紙切れを「恵んで下さい」

と頭を下げ、かき集めた、その紙切れ。アメリカは紙切れを刷れば刷るほど、日本や中国が「恵む」のですから、アメリカ国民は、

  • いくらでも贅沢したっていいんだ

と思ったんじゃないですかね orz。
例えば、この21世紀に入ってからの、世界経済には、ある「特徴」が見られるようになってきている。

二〇〇八年のリーマン・ショック以後、世界経済が少しは持ち直した理由の一つは中国の立ち直りが速かったからである。中国が世界の景気の底を支えたのだ。中国は、世界経済危機にさいして五〇兆円におよぶ巨額な財政出動をしながら財政赤字になっていない。しかも、巨額な貿易黒字によって、巨額の外貨準備を持っている。その世界第一の外貨準備を背景にして中国はアメリカ国債を支えているのである。
どうしてそのようなことが可能なのか。それは中国が自由・民主主義国ではないからである。中国経済を根幹において管理しているのは共産主義体制である。
為替を管理し、金融市場を管理し、独裁的な強力な政府によって十分な税収が確保されるという変則的な経済のおかげで中国経済は未曾有の成長を遂げ、しかもリーマン・ショック以後の世界経済を支えたことになる。

とすれば、この二〇年ほどのグローバリゼーションにおける、さしあたっての勝者がアメリカ、中国、ロシア、インド、ブラジルなどである理由も明らかになってくるだろう。これらの国は「国家(ステイト)」が強力なのである。政治的指導者や指導層に集中された権力と政府の行政力が強力なのである。
その強力な「国家の意思」によって、それぞれの国が、それぞれの国の特異な生産要素を戦略的に利用したのである。
中国は安価で豊富な「労働」という生産要素にアドヴァンテッジを持っていた。ロシアは「資源」という生産要素にアドヴァンテッジを持っていた。インドは英語や数学的能力にアドヴァンテッジを持った知的層を抱えていた。ブラジルも「資源」というアドヴァンテッジを持っている。そしてアメリカはドル通貨の「資本」という生産要素に強力なアドヴァンテッジを持っていた。さらにいえば韓国は、ナショナリズムという国民的結束と学歴エリートという「人的資源」を戦略的に作り出しあのである。
それらの国は、そのアドヴァンテッジを最大限生かすべき戦略を実行した。ここには強力な「国家の意思」があった。
こらッグローバリゼーションの現実なのである。問題は透明で公正な市場経済を実現したかどうかではない。強力な国家を持ちうるどうかなのである。グローバル市場が形成されるなか、市場や資源をめぐる激しい競争が生じる。そのさい、競争を自国に有利に誘導しうる戦略を持てる政府が存在するかどうかこそがポイントになってくるのである。

まあ、言われてみれば、当たり前のような気もしてくる。国家だって、一つの「経済的主体」だ。その国家の「自由意思」によって、経済は大きく影響する。つまり、たんに「強国は強い」と言っているにすぎない。
ところが、日本の「新自由主義者」たちには、これが、なにを言っているのか、理解できないようなのだ。
そもそも、フリードマンハイエクは「違う」と、掲題の著者は言う。

同じ「シカゴ学派」にくくられるが、フリードマンとF・A・ハイエクではその経済観は大きく異なっている。フリードマンはできるだけ市場を完全なものに近づければ市場均衡が達成され、それがそのまま市場の秩序を生み出すとみる。
しかしハイエクにとっては、市場競争が均衡状態をもたらし、しかも資源配分上効率的であるということはさして重要なことではなかった。ハイエクが関心を持っていたのは、市場が、不完全で限られた情報しか持たず、おまけに常に誤った選択をやりかねない人々が寄り集まって、それでも自ずと安定した秩序を作り出せる、という点だった。
人は完全な情報や知識を持って合理的に判断できる存在ではなく、ささやかな自分の身の回りの「局所的」な関心や知識しか持たない不完全な存在である。しかし、そのような「局所的」な活動の寄せ集めが、結果として、一つの大きな秩序を生み出す。それは「自生的秩序(spontaneous order)」なのである。市場は、限られた知識しか持たない人々が集まって、よりよい状態を発見していくプロセスといってもよい。
そこには計画性はいっさいない、これは人間の理性や合理的計算によって生み出されたものではない。歴史的に形成されたものである。だから市場は、完全に競争的で効率的であるから重要なのではなく、それが人間の合理性や理性に極度に依存せずとも自ずから安定した秩序を生成するから重要なのである。その本質は、競争の結果として成立する「市場均衡」にあるのではなく、分権的で不完全な知識にもかかわらず自ずと生成する自ずと生成する「市場秩序」にある。

上記における、違いは決定的であろう。フリードマンは言ってみれば、凡庸な合理主義者である。合理的に行えば、社会は「最適解」に収斂するんだと「信じている」にすぎない。
対して、ハイエクは、まったく違っている。彼は、人々は本質的に「愚者」なんだと言っている。いや。むしろ、人々が、たとえ愚者であっても、

  • 「局所的」な秩序

は、それなりの安定的なところに落とし込めなければならない、と言っているのだ。
これは、経済学の祖である、アダム・スミスにしても同じだ。

「信用」とは、一国の冨を支えるにはあまりにも脆弱で不安定であった。それをスミスは、重商主義は経済を、「人為的なもの」によって支えようとした、と表現する。それは経済の持っている「自然」の構造を歪めてしまったという。
では経済の自然な構造とは何か。それは、まずは、身近な土地に働きかける労働から始めるべきである。「土地に働きかける労働」は何よりまず「農業」を発展させる。続いて手工業などの「製造業」が発展する。その次に農産物や工業品を交換・流通させるための「商業」が発展し、最後に国内市場が飽和すれば「外国貿易」が出てくる。
これが「事物の自然の秩序」であった。
「事物の自然的運行によれば、あらゆる発展的な社会の資本の大部分は、まず第一に農業にふりむけら、つぎに製造業にふりむけられ、そして最後に外国商業にふりむけられる。事物のこの順序は、ひじょうに自然である」(『諸国民の冨』第三編、岩波文庫版)というのだ。
そして、ここから自由主義擁護論がでてくる。政府が意図的に政策をとらずに「自由」に任せれば自動的にこの「自然の秩序」が実現できる、というのである。
どうしてか。人々はまずは身近な場所に投資する。それは確実で安全だからである。「利潤が等しいかまたはほぼ等しいばあいには、たいていの人は、自分たちの資本を製造業または外国貿易に使用するよりも、むしろ土地の改良や耕作に使用するほうを選ぶであろう」(前掲、第三編)という。
また次のようにも述べている。
「あらゆる個人は、自分の資本をできるだけかってを知っているところで、したがってまた自分ができるだけ多くの国内産業を維持するように、使用しようと努力するのである」(前掲、第四編)。
だからスミスにとっては、巨大な外国貿易やグローバル金融などに投資することは合理的でないばかりか、道徳的にも間違った行為であった。
たとえば次のようにも彼は書いている。「(外国貿易への投資は)自分の財産をしばしば風波にゆだねざるをえないばかりではなく、自分がその性格や境遇を十分に知ることもめったにできないような遠方の国々の人々に大きな信用をあたえることによって、人間の愚劣さや不正といういっそう不確実な諸要素にもそれをゆだねざるをえないのである」(前掲、第三編)。

よく考えてみてほしい。はるか、海の向こうに、なんとかとかいう企業があるらしい。そこでは、こんな「商品」を作っているんで、あんた、ちょっと買ってみませんかね?
困りましたね。
まず、私に、なにかを売ろうとしている人は「誰」なんでしょうか? というか、この人、

  • 本当にいるんでしょうか?

そもそも、

  • その商品は本当に「その人」が作ったのでしょうか?

これは、先ほどのサブプライムローンと、まったく一緒であろう。中身がなんなのか知らない。「知らない」のに、買う。それはなんなのだ?
ここで、言わゆる「新自由主義」者たちが、主張する「経済学」とは、どういうものなのかを考えてみたい。

(A)失業は存在しない。
(B)政府は景気を刺激することはできない。
(C)景気変動は存在しない。
(D)バブルは存在しない。

私たちが今悩んでいること、全てを否定するこれらの主張は、つまりは、「長期的」には、ということである。長期的には、これらは、全て、解決する、と言うのだ。
といっても、私たちが今感じている実感と違うのですから、そこには、なんらかの「理論的前提」があることが分かるでしょう。

第一に、経済主体はあくまで合理的に行動している。この場合の「合理的」とは、経済主体は、与えられた状況下であらゆる情報を利用し、利得や効用などで定義された経済上の価値を最大限に実現しようとしている。
第二に、経済の規模を決定するものはあくまで労働力や資源など供給側の要因であって、需要側の制約は存在しない。つまり生産されたものはすべて売られるのである。供給過剰ということはありえないのだ。
第三に、貨幣は原則的には実体経済にさしたる影響を及ぼさない。いいかえば、貨幣はモノの交換手段となっており、実体経済に対して補助的な意味しか持っていない。

もし最低賃金がなければ、いくらでも給料の安い「仕事」というものが存在し、いくら生産過剰であっても、オークションなどで、「ほとんどタダに近くても」売られる商品がある、と。
つまり、上記で言っているのは、

  • 私たちが今、「失業していない」ということであれば、どういった生活が実現できているか。
  • 私たちが今、「バブルでない」ということであれば、どういったこれから起こる悲惨な結果を考えなくていいか。

といったような「イメージ」を考えて否定している、ということではなくて、

  • 「失業していない」と定義上なっているけど、実感として「失業しているのと変わらないか、それ以上に悪い」ような「失業していない」状態
  • 「バブルでない」と定義上なっているけど、実感として「バブルであるのと変わらないか、それ以上に悪い」ような「バブルでない」状態

と言うふうに言えるだろう(つまり、正名論的に、実体に合っていない「定義」を使っているから、説明に成功しない。そういう意味では、ケインズは、正名論的に、用語を一般的な意味に近づけて考えようとしている意図が感じられる)。
私は以前、このブログで自分を「不可知論者」と書いたことがあるが、それは、

だという意味で、むしろ、私が言いたかったことは、

  • 人は「局所的」にしか知ることはできない

ということになる。それは、遠くの世界を知ることができない、ということではなくて、

  • 「局所的」にしか知れない

ということなのだ。遠くの世界のあることを知ったと思ったとしても、それはその「ポイント」を知ったということにすぎず、そのことが、なにかを判断する場合に十全かを保証するとは限らない。
つまり、私が問題にしているのは、その人にとっての、

  • 文脈(コンテクスト)

が違う、と言いたいわけである。
例えば、最近、東京のある小学校で「いじめ撲滅隊」というのを結成して活動している、というニュースがあったが、私は、「いじめ」に対して、唯一有効な対応策は、こういった、

しかありえない、と思っている。それは、小学生たちの
文脈(コンテクスト)
が、学校の先生や学校外の警察を含めた大人社会とでは、決定的に違っているから、うまくコードが流れない(不可知論)。その小学校には、その小学校の生徒たちの文脈があるのであって、だとするなら、彼らが

をするしかない。教師が介入して、生徒を更正させるだとか「傲慢」なのだ。
いじめが過剰にエスカレートするのを防ぐのは、同じ文脈を共有する上級生たちの「先輩としての相談」かもしれない。
大事なことは、生徒と教師が、「同質」の関係にはならない、ということである。どんなに「友達的」にお互いがなっていると教師の側が、勝手に思い込もうが、うまくいかない。それは、こういった「いじめ」のような非常事態において、現前化する。
同じようなことは、経営者と労働者にも言える。この二つは、本質的に違っているのであって、それを、「同質」の関係と考えてはならない。どんなに「友達的」にお互いがなっているとしても、そこを明確に分けない限り、まともな話し合いはできない。
上記の、新自由主義理論にしても、彼らは「労働者の賃金を究極的に下げられる」という前提に立っている。つまり、労働者の雇用環境を究極的に破壊すれば、経営者は

  • 生き残れる

のである。経営者は労働者を究極的に手段にすると、「セレブ」な生活ができる。
あとは、日本中の労働者に「経済学の理論がそうなっているんだったら、しょうがないよな」と言わせれば「勝ち」なわけだ。
彼ら経営者は、グローバリズムが好きだ。そうやって、世界中で「オークション」をやることで、自分たち経営者は、いくらでも安い労働者を集められる。
だから
お前たち労働者は、安い賃金を我慢しろ。「使ってやっている」を強調する。つまり、これは一種の「労働者の分断」を意味しているわけだ。
こういった動きに対抗するには、「自治」しかない。つまり、労働者は彼ら自身で、団結し、経営者側の理屈に対抗していかなければならない。それが、

  • 労働者の側の文脈(コンテクスト)

なのだ。
これを、ナショナリズムの単位で見たとき、そう簡単に重商主義を受け入れられない、ことが分かってくるのではないか。

しかし、それにもかかわらず資本主義を停滞に陥れるものは何か。それはグローバリズムのもとで展開される「浮動する」資本の気まぐれな投資であった。金融グローバリズムのもとでの貨幣の「投機」的な運動。それこそが企業の長期的な投資を衰退させるのだ。

私たち日本人はなんのために生きているのか? そう考えたとき、経営者が日本人の雇用を切り捨てて、韓国や中国の労働者を使い始めるような、
売国奴
の行動に出たとき、そのミクロの集合が、マクロの「日本の労働者」の失業率の増加につながることは自明であろう(合成の誤謬)。だとするなら、そう簡単に、日本の雇用の「破壊」を許していいのか、という問題になる。
私たち日本人は、経営者がセレブな生活をしたいために、生きているのか? 労働者は経営者の「奴隷」なのか? そのように考えていったとき、この「境界線」にあるものこそ、
国家
であることが分かるであろう。国家は、こういった経営者のグローバル戦略に対して、規制をかけられる
最後の防波堤
である。もちろん、経営者たちのグローバル戦略は、それはそれで戦略されることを否定しているわけではない。そうではなく、労働者側にとっては、その動きは、
不利
なのだから、「国家の介入によって」労働者であり地域自治体は自分たちを守らなければならない、と言っているのである。

グローバル経済のレベルを落とすということは、各国の社会構造、文化、経済システムの多様性を認め、それぞれの国がその国の国内事情に配慮した政策運営を採用できる余地を増やすことである。自由主義者やグローバリストの嫌う言葉をあえて使えば、戦略的に「内向き」になることである。
「内向き」になることは、「鎖国」でもなければ「閉国」でもない。そもそも「外に開く」か「内に閉ざすか」などという二者択一はまったく無意味なのだ。いまだにそのような議論をする人が多いのは困ったものであるが、「内向き」とは、国内の生産基盤を安定させ、雇用を確保し、内需を拡大し、資源エネルギー・食糧の自給率を引き上げ、国際的な投機的金融に翻弄されないような金融構造を作ることである。端的にいえば、「ネーション・エコノミー」を強化することにつきるのであって、スミスやケインズの考えの伝統に立ち戻ることなのである。私には、これこそが本来の意味での「自由主義」だと思われる。

掲題の著者の言う「戦略的内向き」がない限り、国家は滅びる。それは、グローバル経営者が滅びると言っているのではなくて、

  • 日本という地域共同体

が、徹底的にハゲタカの草刈り場にされ、滅びる、と言っているのである。つまり、この日本という地域に住む人々を、どうやって、生きさせていくのか。これを考えないで、自分のセレブ生活にしか興味のない、グローバル経営者は本質的に「非国民」であり「売国奴」なのだ。
この日本という、国内の
文脈(コンテクスト)
をおろそかにし、資本家に媚を売るエア御用によって、この国は滅びる。つまり、こういったエア御用に「対抗」する勢力の台頭が必須の条件となっている、ということであろう...。