つまらないエヴァ

この前、映画館で、エヴァンゲリオンを見たのだが、とにかく、つまらない。ずーっと、同じことをやっているんだな、という印象しかない。よく、あきもせず、人々は見るなあ、という印象だ。

このアニメの「構造」はずっと一緒だ。つまり、すべてが、

の視点から描かれている。こいつが、ずっと、椅子に坐って腕を組んでいる姿勢だけは、

  • 変わらない。

ということは、ここが「中心」なわけである。
一見すると、シンジ君は、父親に反発して、父親の意図と違うことをやろうとしているかに見えるけど、すべて、父親の「想定内」であり、実際、父親が「狼狽」する姿が描かれることは、一度もない。
典型的な
ファザコン・アニメ
でしょう。たしかに、シンジ君の回りには、常に何人かの女性が存在している。例えば、テレビアニメ版の最初において、綾波レイを、シンジ君は、

  • 自分より父親に親しい存在

として、意識し始める。つまり、自分以上に父親に「献身」的な存在として、興味をもち始める。子供の頃に母親を亡くし、母親の記憶をもたない彼は、その父親が「自分以上に親しくしている」存在として、綾波レイに、異様な感覚を覚えてくる。
しかし、そういった関係は、ミサトさんやアスカに対しても同じわけである。つまり、シンジ君が、父親に反発しながら、結果として、父親の意図通りのことを行なっているのを、
不思議に思わない
構造として、こういった女性が、まるで、母親が子供に「父親の言う通りにしてくれ」と「懇願」しているような、構造が見える。
14歳年齢が上になっていても変わっていなかったことが、シンジ君が使い続ける「僕」という一人称だ。ここからも、この「僕」という表現が、完全に、

  • 父親との関係

を意識した表現であることが分かるのではないだろうか。例えば、村上春樹の小説は、やはり「僕」という一人称を使うが、そこには、父親がでてこない(最近は読んでないので分からないが)。しかし、私たちは彼の両親が教師であることを知っているわけで、つまり、彼の小説には、どこか父親の「影」を感じさせられてしまう。
おそらく、シンジ君のこのファザコンには、私たちが、本当は面倒くさくて行きたくない「学校」になぜ行くのか、なぜ、いい成績を目指すのか、なぜ上の学校を目指すのか、といったことに、(自分のことなのだから、自分で決めているはずなのに、どこかで)

  • 父親の意思

を感じている、からこそ、あれだけの「マンネリ」をずっと見つづけているのではないだろうか。いいかげん、父親と完全に「デタッチメント」して(つまり、エヴァと完全に無関係になって)、シンジ君が行動している姿を描いて、本当の最終回にしてもらえないでしょうかね...。