井上達夫『世界正義論』

今回の選挙を見ていて、一つ思うことは、各党の公約に「(昔の左翼がよくやった)現状認識」が、弱いことである。
自分たちが、政権を奪取したら、なにをやるかは、そもそも、自分たちが、どういった現状認識をしているか、に関係する。
しかし、その場合において、なぜ、こういった現状認識を持っているから、これこれを目指す、と言えるのかには、一つの「飛躍」がある。
例えば、子供の「いじめ」が、消極的リベラリズムによって、抑制的に働きうるのかには、私はかなり懐疑的に思っている。日本の子供の「いじめ」は、「いじめ」る側の子供が
楽しそう
なことに特徴がある。つまり、彼らは、その(動物的)本能によって、実際に「快楽」している。戦後の日本社会は、こういった「非社交的社交」性、つまり、非道徳性に、まったく、無力だったのではないか、と思っている。
例えば、消極的リベラリズムにおいては、人々は他者に干渉しない。つまり、「他者に迷惑がかからない限り」、なにをやってもいい。そうやって、多様な他者の実存が「そのようにあること」を社会が保証するわけである。
しかし、もしそのような態度が、普遍化されるなら、子供の「いじめ」を禁止する、定言命法は存在しない、ということになるであろう。
なぜなら、「いじめ」とは、他者共約の難しさに特徴があるからである。当事者の二人にとって、どんなにその「いじめ」行為が「自明」に思えても、それを第三者が、「確証」を得ようとする手続きは、そう簡単に成功しない。
ツイッターで、自分が「いじめられた」と思った人が、相手をブロックした場合、どんなに本人が「こいつの、いじめはエグく、ブロックは、やむをえなかったことは、自明だ」と主張しようとも、他人からは、さっぱり分からない、むしろ、なにに逆ギレしたのか、と他人恐怖症の神経を疑うことは、しばしば、というわけだ。)
日本には宗教がない。つまり、私たちは、子供時代を、無宗教で生きるケースが非常に多い。じゃあ、どこで、「道徳」を身につけるのか? 普通に考えるなら、それは「学校」しかないだろう。しかし、学校がそのような、オールタナティブの場としての役割に耐えられるだろうか? 事実、海外(特に、アメリカ)の学校は、ここで言っている、「消極的リベラリズム」そのものである。多様な有り様を、認める。道徳は、教会でやってもらう、わけである(逆に、学校が変なことを吹き込んだら、教会は「迷惑」であろう)。
私は、先ほど、日本における、消極的リベラリズムが、人々を非道徳的にしている、と言った。つまり、実質において、今の日本の学校は、「道徳」の機能を果たしていない。人々は、なんらかの「規範」的な動機付けを与えられる慣習を生きていない。
しかし、もしも、そういった広範な社会単位での「規範性(=道徳性)」が、なにもないならば、非常に、風紀が乱れ、住みにくい社会になっていそうにも思われる。
しかし、日本はそこまでの混乱も今までのところは起きていないように見られるわけで、むしろ、どちらかといえば「平和」と言っていい状態が続いている。
このように考えてきたとき、私は、この「矛盾」には、(私のもつ、保守主義的かつ歴史主義的な考えから)日本の憲法の特異な位置があるのではないか、と思っている。
日本の戦後憲法の特徴は、その前文にあるように、「国際主義」であり、つまりは、「カント主義」にあるように思われる。
一般に、憲法というのは、国民による国家への「命令」と考えられている。ということは、憲法に、「国民への命令」が書かれていることは、どこか、無駄なもの、「夾雑物」と考えられがちである。つまり、そういったものは、「ゴミ(=ノイズ)」なのだから、読まないようにすればいい、と。
しかし、実際に、日本の憲法には、そういったものが、多く、特に前文に集中して書かれている。
この憲法にある、国際主義や、カント主義(=世界平和主義)は、カント的な意味で、「定言命法」になっている。つまり、これらは、ある種の
宗教
的な、「効果」が存在すると考えられる。確かに、戦後の日本人は、宗教を生きていない。しかし、そのオールタナティブとして、この戦後憲法が、日本の
宗教=道徳
の、代替物としての役割を果たしてきたのではないか、と思っている。
憲法は、国民に「国際主義者であれ」と「命令」している。「世界平和を武力を使うことなく実現しろ」と「命令」している。そして、その「命令」は、当然のごとく、国内においても、私たちを強制している。
なぜ、戦後憲法は、今に至るまで、改正されることがなかったのか? それは、敗戦から、降伏を日本が受け入れるまでの、プロセスにこそ、その理由があるように思われる。
戦後すぐ、日本の敗戦処理を主導したのが、昭和天皇であった。つまり、戦後憲法は、
昭和天皇の戦後憲法
であった。昭和天皇が、アメリカと「手打ち」をして、作った憲法であった。しかし、立憲君主制において、君主は政治意思決定プロセスに介入することはできない。つまり、それ以降、天皇は、憲法改正プロセスに介入できない。
ということは、どういうことか?
日本の憲法を改正した場合に、その改正が「天皇の意思を反映しているのか」を確認する手段がない、ということである。憲法を変えたとき、その変更が、現在の天皇にとって、許せない改悪と思っても、そういった意思を表明することは、立憲君主制において、難しい。
つまり、君主の意思を介した「改正」は、事実上、難しい、ということなのである。たとえ、どんな改正を国会で承認しようとも、その「正当性」が、調達できない。
しかし、自民党は結党以来、自主憲法を党是としてきたではないか、と思うかもしれない。それは、戦中の日本のエリートたちが、天皇を「その程度」と考えていた、ことに対応しているのではないか、と考えている。
例えば、石原都知事を始め、少なからず、明治憲法に戻すことを目指していた政治集団がいるが、こういった人たちは、そもそも、戦後の憲法を、昭和天皇が作ったことが、気に入らないわけだ。敗戦を受け入れて、軍部の解体を実行した、当時、まだ若かった、昭和天皇を、彼らは、その程度の、なんとでもなる存在と考えていた。彼らが、尊敬し、崇拝していたのは、
明治天皇
であって、若輩の、昭和天皇を軽視していた。同じように、三島由紀夫は、自衛隊で自殺する前、露骨に、昭和天皇を軽蔑していることをにおわす、発言をしている(彼の自殺は、ある種の「キリスト」行為である。つまり、降伏しながら、ハラキリをしない昭和天皇を、露骨に軽蔑し、自らの行為によって、
昭和天皇を超える存在(昭和天皇ができないことを行う、上の存在)
として、自らの自殺を演じたわけだ)。
しかし、いずれにしろ、私は、戦後の日本人は、おおむね、昭和天皇の意思である平和憲法のカント的命法に、従ってきたのではないか、と思っている。
このように考えたとき、憲法改正には、二種類あることが分かってくるだろう。

  • 昭和天皇の作った戦後憲法憲法意思を「守る」側の改正。あくまで、今の時代と齟齬を起こしている部分にパッチを当てるだけの、マイナーチェンジ。
  • 昭和天皇の作った戦後憲法憲法意思を「破棄する」側の改正。まったく違う憲法を作ることで、昭和天皇を「超える」存在に自分がなることを目指す、言わば、「クーデター」改正。まったく違う内容の、大幅な修正を目指す。

今回の選挙で、憲法改正を目指すことを主張している政党が幾つかあるが、それらが上記のどちらなのか、に注意が必要であろう。
(今後、憲法改正が非常に喫緊の問題となる場合として考えられるのが、天皇自身がそれを望む場合、または、天皇家自体の「お家の事情」ということになるのではないだろうか。女性天皇を認めるかどうか、といった話は、リアルに迫っているとは思うが。)
私は、むしろ、こういった憲法改正を主張している方々に聞きたいわけである。こういった人たちは、そもそも、今の憲法に、進んで従いたいという「意思」をもっているのだろうか?
憲法を変えることを目指して活動しているということは、今の憲法に不満なわけで、気に入らないわけで、どうせ、そういった方々の憲法改正運動が「成功」すれば、遠からず近からず、改正されることになるわけなのだから、ということは、
改正後が正義「だった」
ということが示されるということなのだから、つまりは、それって、今の憲法の「軽視」を「態度として」帰結しないですかね?
人によっては、戦争を放棄してるって、自分が戦争に行かないで、軍人として死なないのだから、お気楽だ、と思う人もいるかもしれない。しかし、それは逆で、むしろ、軍隊を使わないで、平和を実現しろと命令されているわけだから、どっちかというと、「ムチャぶり」に近くて、
あらゆる知恵を集めて
武力を介さずに平和を実現する手段を考えろ、というわけだから、なかなか難しい。しかし、難しくても、あきらめるな、と言っているわけです。つまり、どんなに難しくても(どんなにそのことによって、自分たちが貧乏になるリスクがあっても)、常に、注視し考え続けることを命じているわけだ。
まあ、なにが正義なのかを各自考えることは、おおいにけっこうであるとして、日本人は、すでに、憲法が、世界中の正義を考えろと命じているわけですからね。もう少し、各政党が、世界の正義について、言及してもいいんじゃないですかね。
たとえば、世界の最も、重大な人権問題は、もちろん、「飢餓」であると思うが、国連の機関のWFP(世界食糧計画)のサイトを見ていると、ここ20年くらいで、アジア・太平洋地域は改善してきている(おそらく、アジアの成長も関係しているのだろう)。中国やインドがあるので、飢餓人口自体は多いが。むしろ、問題となっているのは、アフリカ南部のようだ。
飢餓の原因としては、

  • 地震・洪水・旱魃などの天災
  • 疫病の蔓延
  • 民族間の衝突など内戦

とあり、こういった原因になってくると、たんに経済活動だけでなく、より難しい「政治」の駆け引きが、重要になってくる。
多くの飢えて死にそうな人がいるなら、中期的には、なにが必要なのかを考えるなら、一般的に考えれば、なによりも、彼らが「食糧を作る」ことではないか、と考えられるだろう。つまり、農業をやることではないか、と思われる。そうやって、自分たちで必要な食糧を作れている限り、ある程度の「自衛」ができる。
それが、うまく回っていない場合の原因としては、栄養学の知識不足、農業の知識不足、国家や巨大資本による妨害工作、などあるのかもしれない。
しかし、それでも、うまくいかないケースというのは、天災であれ、戦争などの人災であれ、普通に考えられる。こういった場合に、人間の作る社会システムが重要になってくるはずなのだが、うまく機能していないのであろう。
例えば、飢えて死にそうな人たちが目の前にいるとき、彼らの生活を「飢えない」状態に変える、一番簡単な方法は、

  • 移民

のように思われる。日本は、こういった人たちを、かたっぱしから、日本国内に連れて来て、少なくとも飢えない生活をさせることは、難しくないように思われるのだが、どうなのだろうか?
もちろん、そういった人たちも、生活が軌道に乗ってきたら、母国に帰ることがあってもいいだろう。いずれにしろ、日本はただでさえ、少子化なのだから、そういった人たちを、積極的に受け入れて、サポートしていく、ということは、考えられないのだろうか(そういった、公約を唱える政党があってもいいように思うのだが)。
掲題の本において、掲題の著者が主張する「世界正義」は、言わば、(後書きにあるように)「問題志向」的と言える。つまり、「論理主義」と。

世界正義論の主要問題群をほぼ網羅的に論じたのは、大風呂敷を広げる蛮勇に見えるかもしれないが、そうしたのは「体系的哲学」への野心からではない。本書は体系志向的というより問題志向的である。

これは、後期ロールズのように、世界の各地域ごとの共約不可能性から、各地域「ごと」の正義を容認する姿勢と、真っ向から対立する姿勢で、実際に、正義を行うと言っている人自身が、首尾一貫していない矛盾した(=問題のある)行動をしている限り、それは
正義じゃない
と考える姿勢といえるだろう。

以上の点を踏まえて言えば、IMFが主導してきたグローバルな政治経済体制は、市場原理主義的政策の受容を途上国にのみ選択的に押し付け、欧米先進諸国が歴史的に実行し現在も続行を許されている保護主義政策や開発主義政策を途上国が採用することを妨げている。市場原理の規律をより厳格に課されるき先進諸国には市場経済への政治的・戦略的介入を容認しながら、農業保護や産業育成を先進諸国以上に必要としている途上国には、かかる介入を禁じているのである。

IMFという自由貿易を推進する機関を国連に作っておきながら、こういった機関の圧力が、明らかに、小国に強く強制するものになっている。つまり、小国の市場や国内秩序が完全に「破壊」され、外資のハゲタカに、食いちらかされている、ということなのだろう。
私たちが、「正義」と言う場合、IMFのような国際機関が、世界の正義を追及していくとき、彼らの権力が最も、効果的に実行されうるのが、弱小国なわけで、弱小国は、とにかく、こういった国際機関の言うことに、従わないわけにいかない。そうでないと、援助を受けられないから。
ところが、強国は、一方で、多額の募金を、こういった国際機関にしておきながら、こういった国際機関の目指す方向に無批判に従うことはない。あくまで、「国益」と天秤にかけ、政策を進める。
そこから、強国と弱小国の間には、超えられない、「正義の壁」があるんじゃないのか、という疑いをもたざるをえない。
正義とは何か? 人間にこの答えを用意することは可能なのだろうか? 少なくとも言えることは、「矛盾した行動をしていれば、それが正義に反している可能性は高い」ということであろう。首尾一貫した行動が、可能かどうかの前に、少なくとも、それを目指さなければ、正義を目指すことにはならないのだろう。
同じことは、学歴社会における、高学歴者と、低学歴者の「格差」についても言えるのではないか、と考えている。
高学歴者が、なぜ高学歴者になれたのか? 統計が示していることは、そういった「裕福な家庭」で育ったからである。だとするなら、そこに「正義」はあるのか、ということになるだろう。
学歴社会が欺瞞的なのは、そういった高学歴者こそ、上記で指摘した「非道徳」的な行動を示しがち、だということである。それは、IMFの指導に、アメリカや日本が従わないにもかかわらず、援助対象国に、そういった「道徳」の強制が徹底されることと、類似している。
高学歴者は、道徳を信じない。宗教の存在を信じない(=非科学的)のと同じように、道徳を軽蔑する。それは、真実ではない(=科学ではない)という理由で、そういった宗教的生活を目指す人たちを、「トンデモ」だと、侮蔑する。
しかし、他方において、彼らは、現代の日本社会の、愚者たちがもつ「信仰」によって、生まれている「秩序」を「享受」することに、なんの疑問ももっていない。
それは、彼らが「積極的な正義」など、(科学で言う意味で)存在しない、という
真理
を信じていることを、意味しているにすぎず、上記にあるような、

  • 消極的正義(=矛盾による反正義)

を、真剣に考えていないことを意味する。
例えば、国家が存在することは「正義」であろうか? もし、これが「正義」ならば、あらゆる社会は、国家の建設を目指さなければならない、ことになるであろう。つまり、あらゆる「命題」は、正義か悪かの
二分法
によって、分類される。これが、「積極的正義」である。この考えの欺瞞性から、後期ロールズは、保守的な正義論を展開する。しかし、それは、「言いすぎ」だと、掲題の著者は、主張する。
国家は存在すべきだろうか? その「答え」を与えようが、与えなかろうが、

  • 国家のない生活

を考えることが「可能」であるという意味で、「国家のない生活においての正義とは何か?」を考えることには、意味があるのである。

旧稿で「醒めたアナキズム」と呼んで私が検討した二種の脱国家的秩序構想、すなわち、「市場アナキズム(market anarchism)」----しばしば、「無政府資本主義(anarcho-capitalism)」とも呼ばれるが、資本の無限蓄積運動とは必ずしも関係なく、市場による秩序形成を意味するので、市場アナキズムと呼んだ方がよい----や、「共同体アナキズム(communitarian anarchism)」の秩序構想は、集権化された組織的暴力装置としての国家を否定するが、生産・流通・消費を含む社会的協働を律するルールを形成・執行し、公共財を最適でなくても十分に供給するための代替的な社会統制様式として、市場メカニズムや共同体的統制を提唱し、これらが、組織的暴力装置を管理する権力の放縦化・腐敗を招きやすい国家による社会統制よりも、効率的かつ公正であると主張する。

(萱野さんが指摘しているように、国家とは、暴力によって「正当化」された組織のことだと考えるなら、一切の戦争を放棄した、日本国憲法は、
国家の廃棄
を言っていることと、実質同じだと言えるだろう。おそらく、石原都知事や橋本大阪市長の回りに集まってきている連中は、日本国憲法に「徴兵制」を書くまでは、政治活動をやめないと言うんじゃないだろうか。それは、彼らの目指す政治が、「昭和天皇の戦後平和構想」の「否定」であり、「昭和天皇の上に明治天皇を位置付ける」戦後レジームから戦前レジームへの「王政復古」だから、ということになる...。)
つまり、学歴社会における「高学歴者」や、国際社会における「大国」のような、

  • 強者

には、上記で指摘したような「消極的正義」に対しての、

が「正義」の名において、求められている、ということではないだろうか。それは、意識的であれ無意識にであれ、「行動」の「矛盾」を、自家撞着のままでは済ませない、「正義」が、社会には求められている、ということなのではないか...。

世界正義論 (筑摩選書)

世界正義論 (筑摩選書)