BUMP OF CHICKEN「ディアマン」

結局のところ、「BUMP OF CHICKEN」とは、なんだったのだろうか? 東日本大地震があり、そのチャリティもあって、「HAPPY」なんて、歌もあって、少しそんなことを、考えた方がいいのかな、という気持ちが、なんとなく、ずっとあった。
彼らは、いわゆるテレビのような、大手メディアに今だに、登場していない。その理由は分からないが、そういう態度というのは、つまりは、彼らがやっていることが、そういった場所で行われる、マスメディア的なコミュニケーションでは、伝えられない(誤解される)ことを行っている、という自覚がある、ということなのではないか、と思われるわけである。
(そもそも、テレビの番組は、その番組のディレクターという「製作者」がいる、「他人の作品」であるわけで、そういったコンテンツで、自分の主張が歪んで、他人に伝わるのは、避けられない。しかも、テレビの場合は、自分の顔が、スナップショットとして切り取られる。よって、むしろ、こっちの方が「リアリティ」として、理解される危険がある。)
近年の、ソーシャルネットメディアの隆盛とともに、言葉はより、「だれに向けて語られているのか」が分からない、非常に抽象的な「記号」として、伝わるようになっているのではないだろうか。そういった記号が、社会を回していることを否定するつもりはないが、しかし、こういった「記号」操作が、あらゆる問題を解決するような性質のものではないことは、自明の前提だったはずである。
「記号」とは、数学で言えば、「モデル」のことであったはずだ。つまり、その記号が(他の記号との差異として)使われる「前」に、その「モデル」という
解釈
が先行している、そういった性質のものであることを忘れて、あらゆる、人間の差異を、「記号」で体系化できる、という(ヘーゲル的な)「態度」が、
本質主義
として、ナイーブに受け入れられているのが、SNS的なコミュニケーションだといえるのかもしれない(2ちゃんねるを含めて)。
bump は、全作品について、ほとんど一貫した姿勢のようなものを感じるところが、他のアーティストと一線を画している印象を受ける。それは、
弱者=自分
という、一貫した、「臆病な自分」の
視点
から、語り続けようという姿勢であろう。おそらく、こういった女々しいアイデンティティを一貫して、続けているアーティストというのは、非常に少ないのではないだろうか。少なくとも、彼ら以前のアーティストにおいて、あまり、思い浮ばない。
というのは、「弱者である自分」や「臆病である自分」というのは、むしろ、否定される属性だからであろう。つまり、「弱者である自分」や「臆病である自分」を
否定
して、そうでない自分に「なった(ヘーゲル的な成長=運動の結果)」状態として、自分をアイデンティティした(=仮面をかぶった)姿を
大人
として、コミュニケーションするのが、SNS的な「強者」だから、だ。
(そういう意味で、私が以前構想した「幼児社会」を体現しているのが、彼らだと言えるのかもしれない、と少し思ったりする...。)
とにかく、いろいろなことが言えるのだろうけど、ようするに、bump の特徴は、全てが、

  • ひとりごと

だというところにあるように思われる。とにかく、だれか他人に向かって語られない。
一切
が、そうなのである。他人に向けて、語られない。全部が、自分に向けて、自分に「だけ」の言葉の連なり。他人にそれを聞かれることで、なんらかの、他人の反応を呼び起こし、そういう過程によって、他人を自分の意図通りに動かそうといった、

  • 社会的

な「社交的な会話」の体裁をなしていない。
完全なモノローグ。
つまり、モノローグという「個人的」な行為によって結果する産物を、一種の「芸術作品」としている、ということになるだろう。
こういったものは、確かに、一種のナルシシズムであるが、他方において、こういったものを読むことになる、ある種の人々にとっては、そんなふうに、軽く考えられない可能性がある。なぜなら、こういった、
残余物
は、作者にとって、のっぴきならない「個人的」に重要な、思考過程を辿った「跡」として、存在するものだから。つまり、

  • 同じような「個人的」な問題に悩み苦しんでいる、この日本に住む、若者が、たくさんいる

ということなのである。
以前、あるジャーナリストが「マイノリティ憑依」という言葉を使ったとき、私は、とても嫌な感じがした。というのも、それが、弱者の味方になろうと勇気をふりしぼろうとしている人を、「不道徳」者だと断罪する行為だからである。人が「善」や「正義」を行おうとする意志を、くじこうとするこの用語は、いずれにしろ、社会的であり社交的であり、それに賛成するにしろ反対するにせよ、
政治的
なのだ。しかし、こう考えてみよう。「自分」に「憑依」する場合。言うまでもなく 、「自分」は、この世の中で、最も「マイノリティ」な存在であろう(なぜなら、自分はこの世の中に一人しかいないのだから)。だとするなら、「自分マイノリティ憑依」は、むしろ、不可避であるだけでなく、不可欠なのではないか?
「自分の臆病さ」や「弱者としての自分」というのは、この日本という、能力社会において、常に問われる、アイデンティティである。
これを、身体論で言うと 、「震え」や「行動の躊躇」となって、結果する。
私たちは、別に、そういうことに悩まない人たち、勝手に、「大人」であることを「説教」していれば、「幸せ」になっている人たちに、なにかを言いたいとは少しも思わない。
そうではない。
前に進むことを、ためらい、悩み、なにかの答えを、どこかに探さずにはいられない、

  • 臆病な若者

に、共感するから、なにかを言わずには、いられないわけである。
例えば、以前、アニメ「とある科学の超電磁砲」において、レベル5の御坂美琴が、レベルゼロの左天涙子に「レベル(=能力=学歴)なんて、どうでもいいことじゃない」と言うシーンで、左天涙子が、こっそり、俯き、拳(こぶし)を握る場面を、紹介した記憶があるが、私は、こういう感性を理解しない人たちに、なにかを説得したいとは少しも思わないわけです。
その拳(こぶし)は、現代日本の、この学歴社会において、学歴から排除されていった、多くの若者が、一度は、作る形であり、こういうものと、まったく無関係に生きている人には、関係のない。死ぬまで、理解されることのない。だけど、それを理解している人たちには、なにも言わなくても、理解される、

  • 印(しるし)

なわけです。
このアニメにおける、「レベル」とは、現代日本社会における、
学歴
のアナロジーになっています。つまりは、bump の描くモノローグとは、そういうことを理解する感性をもたない、「エリート」主義者の「幸せ」自慢とは、まったく違ったなにかだということなのではないでしょうか。
小飼弾さんが、ブログで、このアニメを dis って、アニメ「新世界より」を、ステマしていたが、私はそっちのアニメを少しも、共感しなかった。私には、そっちのアニメが少しも評価に値するものだと思えない。ただの思考実験であり、SFオタクが喜ぶような装置が、ちりばめられているだけの、非現実的なホラー小説であり、私は、こういったものを評価するような、
価値観
と対決したいわけである...。)

怖がりな少年 どんどんギターを歪ませた
他人は少しも 解ってくれなかった

怖がりな少年は、自分を他人に解ってもらえない。そんな少年には、「なぜ好きなのか分からない」シンガーがいた。イヤホンから少年に向かって、流れるそのシンガーの声が繋ぐ、少年とシンガーの関係は、どういうものなのだろうか?
おそらく、このシンガーとは、作者なのだろう。では、この少年はだれなのか? おそらく、この少年も作者なのだ。作者は、この二人の関係が、

  • たった二人だけの世界

であると描く。

その声とこの耳だけ たった今世界に二人だけ
まぶたの向こう側なんか 置いてけぼりにして
どこにだって行ける 僕らはここにいたままで
心は死なないから あの雲のように遠くまで
何にだってなれる 今からだって気分次第
退屈なシナリオも 力ずくで書き直せる

この、たった二人の世界においては、少年は「なんにだってなれる」。未来を自分の思うように変え、生きることができる。
しかし、実際に、その少年が生きることになる「それ」は、さまざまな意味において、違っている...。

「常に誰かと一緒 似たような格好 無駄に声がでかい」
「話題は繰り返し ジョークはテレビで見た」
「語り合い 励まし合い ケンカする 仲間が大事」
そういうのを見下している 腹の底
怖がりな少年 どんどん自分を強くした
キラキラしたものの 裏側を疑った
変ってしまったシンガー 昔のようには歌わない
がっかりした そのうちなくした 興味を
易々と気は許さないさ 紛い物ばかりに囲まれて
まぶたのこちら側でずっと本物だけ見てる
大勢の人がいて ほとんど誰の顔も見ない
生活は続くから 大切な事だってあるから
情報が欲しくて ドアからドアへと急いで
心は待てないから どうせ雲のように消えるから

次々と自分の目の前を過ぎていく、日常。なんにだってなれると思っていた少年は、その過ぎさる日常に翻弄されるだけで、実際は、なにもできない。

  • ほとんど誰の顔も見ない...。

変われなかった少年 昔のようには笑えない
そういう意味では 変わったと言えるのかも
何に勝ちたいのか どんどん自分を強くした
解ろうとしないから 解ってくれなかった
変れなかったシンガー 同じことしか歌えない
それを好きだった頃の自分は きっと好きだった

変わるということは、強くなることを目指すことを意味すると思っていた少年にとって、自分が「強くなる」ことは、結局のところ「何に勝ちたい」ということを意味していたのだろうか? 「勝とう」とする少年。「本物」だけを見ようとする少年。

  • 解ろうとしないから、解ってくれない。

次第に、好きだった、あのシンガーとも疎遠になっていく...。

懐かしむことはない 少年はずっと育っていない
昔話でもない 他人事でもない でもしょうがない
何にだってなれない 何を着ようと中身自分自身
読み馴れたシナリオの その作者と同じ人

なんにだってなれると言った少年は、こうして年を取り、でも、

  • 何も変わっていない

のだ。なんにだってなれると言った少年は、何にだってなれない。ずっと、自分のまま。変わらない少年...。そして、少年は、

  • 変われなかったシンガー

を好きだった自分が、きっと自分は「好きだった」んじゃないかと、再度、「その」自分を、ふりかえるわけである...。

アンプは絶叫した 懸命に少年に応えた
シンガーは歌った イヤホンから少年へと
どこにだって行ける 僕らはここにいたままで
心は消えないから あの雲のように何度でも

少年に「応えてくれる」アンプ。イヤホンから少年に向けて「歌ってくれる」シンガー。
変わらなかった少年とは、つまりは、「負けた」ということなのだろうか? しかし、少年の心は消えない、というのだ。この「幼児社会」において、少年が少年であることは、大人であろうとすることが成功しないことは、むしろ、少年が背負うべき十字架と言えるのではないか。大人になれなかった。しかし、そういう過程を経ることで、笑えないと気付くことによって、「変われなかったシンガー」を好きだった自分が、きっと自分は「好き」だということに、気付く。
変わろうとして変われなかった自分。大人になれなかった自分。そして、それは、以前自分が「好き」だったはずのものを、思い出す自分であった...。
作者は、こうして、「何度でも」繰り返す、「変わらない自分」への気付きを、ただただ、こうして、徹底して肯定するのである...。