アンドリュー・ゾッリ『レジリエンス』

そもそも、組織は、永遠に存続することを目指すべきなのだろうか? もちろん、ここで、「永遠」という言葉を使ったことはミスリードであろう。
人間は「永遠」に子孫を残し続けるだろうか? なぜ、こういった問いはミスリードなのか。
自然数を考えてみよう。ある自然数Nがあるとする。そのとき、「N+1が存在する」は「正しい」。じゃあ、

  • これをずっと続ければいいじゃん。

そうすれば、それを「永遠」と言ってもいいんじゃね、と。ところが、ここで「ずっと続ける」とは、どういうことか?
たとえば、ここで、どんな自然数Nに対しても、「N+1を構成する」のに、0.001秒以上は必ずかかってしまうことが分かっているとしよう。
ということは、「N+10を構成する」のには、0.01秒以上はかかることになってしまう。これを繰り返せば、「いくらでも」時間がかかることがわかる。つまり、この処理は「終わらない」。それを「永遠」と言っていいのだろうか? これを、数学では、

  • 発散

という。つまり、どこまで行っても「永遠」にならないことだけは、分かったのだ。
この問題は、「速度」の問題であり、「加速度」の問題だと言える。
人間が行う行為は、あらゆるものが、「有限」の時間を必要とする。しかし、もしもその行為を行うための時間を確保できず、次のタスクが動きだしたら、どうなるだろう? 処理は、キューに積まれて、そのキューは、いずれは一杯になって、溢れるだろうか? それとも、その二つの処理を「同時」に行おうとして、それでも終わらなくて、

  • 次々

と処理が、並行して処理をしようとして、どれ一つとして終わらなくなるだろうか?

しかし、現在のインターネットは、開発当初には想定されていなかった攻撃に対しては極度に脆弱である。つまり、通信回路を断絶させる攻撃はかわすことができるが、ネットワークのオープンな構造につけ込み、不要な情報を大量に流すという行為には対処しきれないのだ。

そもそも、ビックデータ(=一般意志)は「スパム」を取り除けるのか?
このことは、ネット上でさかんに発言するノイジー・マイノリティたちの「極論」が、カスケードとなり、社会を破壊するのではないか、という「危険」として、論じられたりする話と似ている。どんなに、ビックデータを分析しても、そのほとんどが、スパムであったとき、そういった「ノイズ」をフィルタリングできるのだろうか。というのは、そのフィルターの「設計思想」がすでに、著しく、エリートたちの「パターナリズム」であることが考えられるからだ。
本当は、日本人のほとんどは、原発を即時廃止なんて求めていないのに、一部の「物言う」ノイズが、何人かが騒ぐだけで、ネット上は、その主張一色に覆われてしまう。

  • ほんとは、もっと日本人は保守的のはずなのに

というわけだ。
しかし、だとするなら、どうすれば、日本の「マジョリティ」である保守的な、「物言わぬ」、静かな、語る言葉を持っていない大衆は、自己主張を始めるのであろう? どうすれば、選挙に参加するようになるであろう?
というか、そもそも、エリートは、大衆が主張をすることを「求めて」いるのだろうか?
それは分からないが、いずれにしろ、エリートは大衆の「声」を、代表しなければならない。そのためには、大衆の「声」が

  • これ

と言えなければならない。つまり、「これ」が「大衆の声」だと言えなければならない。つまり、エリートは、大衆の声を、「代表」するから、エリートなわけである。
しかし、大衆は主張をしない。というか、なにも言わないのが大衆なのであろう。言うということは、「わざわざ」言うことがある人という意味であって、つまりは、大衆は、「だれ」に向かって話しているのか、ということになる。
では、そんな大衆をエリートが「代表」するとは、なにを言っていることになるのか?
わからないが、いずれにしろ、今後考えられることは、「スパム」化する大衆であろう。どんどんと、ネット上を、コンピューターが、無目的に輩出する、ボット的な、言語活動であふれていく。コンピュータが、適当に「話す」。それに意味があろうが、なかろうが、ネット上においては、もはや、その発言が、だれによって吐き出されたのかとか、いつ吐き出されたのか、そういった人間的な活動上で、血肉をもって、生まれてきたものではなく、コンピュータが、順列組み合わせで、なんの文脈もなく、たんに、「応答」されたものとして、吐き出すだけの、膨大な文章のインフレーションに溢れていく。
これこそ、「統計」の無意味化である。ネット上の9割以上が、こういったスパムとなる。ビックデータの分析は、基本的に、「スパム」を分析していることと区別ができなくなる。

  • いくら歩いても「本当」の人間に出会わない orz

といったカフカ的世界。これが、未来のネット空間である。
そうであるとするなら、今後考えられるのが、ネット空間の、現実世界による

  • 再領土化

なのかもしれない。一部、中国や韓国がそうであるように、ネット上へのアップロードもダウンロードも、自らの「パブリック」なIDと紐付けした形でしか行えなくする、

  • 本当の意味での「実名」化

こそが、「エリート」の考える、「理想社会」なのかもしれない(こうすれば、「一般意志」は、各個人の「民主主義」的な「主張」と、紐付き、名寄せを実現し、スパム的情報を排除し、その「全貌」を現すようになる、というわけだ)。
人が、ネットになにかを書き込もうとしたとき、まず、国家に、そのIDと、その書き込もうとしている人が、「同一人物」であることを、生体認証などの手段を使って、保証する。絶対にこの「自己同一性」を逸脱「させない」というわけである。
このような社会になったとき、いわゆる「法人」の問題はどうなるであろう? この場合の法人とは、狭い意味でのそれではなく、あらゆる人間集団を表象するもののそれと考えたとき、「それ」には「パブリック」なIDを認めるのであろうか? それとも、あくまで、各個人に紐付けなければ、なにもできないようにするのだろうか?
もしも、インターネットへのアップロードもダウンロードも、必ず、法律上の戸籍における、「個人」にアイデンティティしてしか不可能な社会にしたとき、一体、どんな現象が起きるであろうか。
まず、若い頃に、なんらかの犯罪に関わった人は、そういった「公」の場には、でてこないであろう。なぜなら、必ず、ばらされて、

  • 悪評

として一生、ついて回るから。そう考えると、ネット上で、「実名」で、

  • ミーハー

活動をしている人は、みんな、表舞台を歩かれてきた、大学教授のような、

  • ご立派な

社会的ステータスをもたれているような、「幸せ」な「リア充」ばかり、というのが印象だろうか。

  • オタク=ミーハー=リア充=キラキラ

ミーハーとは、やたらと、自分が好きな有名人とお友達になりたがる人たち、ということになる。やたらと、社会的に有名な人と、知り合いになりたがり、自分が知り合いだとすると、どんな場合でも、自慢をしないと気がすまない。こういった連中は、ネット上における、一種の「危険動物」として、

  • ネット的隔離

が必要なのかもしれない。彼らには、「印付け」によって、一種の

  • 芸術家的「動物」

として、一般社会に「害」が及ばないように、なんらかの、一般社会の人たちとの間に、

  • フィルター

を用意することが必要なのかもしれない。

これまで述べたことは、レジリエントなシステムが失敗と無縁であるという示唆を与えるものではない。じつのところ、レジリエンスの多くの形態は、一定の頻度での適度な失敗を必要としている。それによってシステムは解放さえ、資源の一部を再構築できるからだ。例えば、小規模な森林火災は、システム内の栄養を再配分し、全体の崩壊を避けながら新たな成長の機会を創出する(逆説的なことに、その方法とは森林がもっとも健全な状態を迎えたとき、耐火性の樹種が非耐火性の樹種によって駆逐されないようにするというものだ)。周期的な自然のプロセスに人間が介入して必要不可欠な小規模の火災を阻止してしまうと、森林は燃えやすい要素を大量にため込み、ほんの些細な発火が大惨事を招くリスクを高める。

どんなシステムも必ず失敗する。どんなシステムにも、なんらかの、欠陥を内包している。完璧なシステムが存在しないのは、完璧な理論が存在しないことと同値である。
あらゆる理論は「相対的」である。その理論の「良さ」は、他の理論を補うものであり、相対化させる、その「有効」性に依存するのであって、それ独立して、「善」などというものは存在しない。
レジリエントであるとは、比較的に、失敗に対する「復旧」に成功する「性向」のことだと言えるであろう。それは、失敗しないことを意味しないが、ある意味、「失敗しない」。つまり、その失敗は

  • 相対的

には「小規模」であり、たとえ、その規模のものを頻発したとしても、クリティカルな崩壊に至るリスクが少なく思われるような傾向のことだと言えるであろう。
もちろん、だからといって「永遠」のシステム維持が「可能」であることを意味するわけではないが、「なぜか」一般のシステムに比べて、

  • 復元力

が「強い」ということになるのであろう。

リスクが極度に膨張する以前の世界では、各金融機関にとって、他の金融機関----さまざまな取引相手と契約を交わしている市場参加者----と契約を交わすのは望ましいことだった。契約の締結は事業内容の多様化の表れであり、リスクを軽減する措置と理解された。大規模なポートフォリオに含まれる多数の契約が一斉にデフォルトを起こすわけがない。しかしながら、リスクが膨張した金融危機後の世界では、無数のカウンターパーティーとの契約関係にある金融金と契約を締結することが悪夢になりかねない。それは、いつ突然死するとも知れない未知の第三者と運命を共にすることを意味するのだ。このような状況下で、契約相手の信用力を判断することなどできるのだろうか。契約相手の債務を評価することなどできるのか。ましてや、契約相手のそのまた契約相手を評価することなどできるのか。いったい、誰を信じればよいのか。

もし、私たちが、回りの人を「信用」できないとき、どうして彼らと「契約」できるであろうか。いつ裏切られるとも限らない。そんな状態で、どうして仕事を続けられるであろうか。ところがである。現代社会は、分業社会なのだ。ということは、なんらかの「契約」なしに、どんな社会活動も行うことはできない。ということは、どういうことか? 現代社会においては、人々は、あらゆる関係に「不信感」がぬぐえず、結局は、

  • なにもしない

ということに結果している、ということである。しかし、どうしてそれを責めることができるであろうか。この問題の全ての根本原因は、人は他人を信じられる「論理的根拠」を見つけることはできない、ということに関わっている。
論理的に、人を信じる「根拠」を導き出すことは「不可能」である。
これが、カントの実践理性批判である。
つまり、まず私が「人の道」に反するような、鬼畜な所業を行うことを嫌う、という態度を、

  • 自ら「実践」する

その過程において、始めて、「相手が自分の態度を<前提>にし出す」ことで、始めて、相手を蓋然的に「信用できる」と思えるようになるわけである。

霊長類学者フランス・ドゥ・ヴァールと共同研究者サラ・ブロスナンは、オマキザルの協調的行動と不公平に関する観念を調査した。ある実験で、二頭のサルに対して、簡単な課題をこなすたびにブドウかキュウリのどちらかを与えた。二頭が同じ褒美をもらっているかぎり、何ら問題は見られなかった。サルにとってブドウのほうがずっと魅力的なことは間違いないが(ドゥ・ヴァールはすべての霊長類が糖分を好むと指摘する)、二頭ともキュウリを与えられているあいだは不満そうな様子もなく、繰り返し課題をこなしていた。
ところが、二頭のサルにそれぞれ異なる褒美を与えると、面白い展開があった。ありがたみの少ない褒美、つまりキュウリをもらったサルは課題をいやがるようになり、最終的にはキュウリを口にするのを拒むか、課題を放棄するという方法で抗議の意志表示をしたのだ。
ドゥ・ヴァールいわく、これは分別を欠いた反応である。「もしも、人生(あるいは経済学)の目的が利益の極大化であるとすれば、もらえるものはすべて受け取ったほうがいいはずである。サルも普通なら、キュウリを与えると必ず食べます。ところが、仲間がもっといいものをもらっているのを見ると、キュウリを拒むようになるのです」
人間にもこれと同じような、いわゆる「不公平嫌悪」と呼ばれる本能がある。ところが歴史的に経済学者、ゲーム理論研究者、そして数学者たちは、人間は公平さよりも自己の利益の追求を重視することを当然の前提としてきた。実際のところ、希少な資源を分かち合おうというとき、人間が自己の利益ばかりを追求するという証拠はほとんど見あたらない。私たち人間はせっかくみずみずしくて美味しいキュウリを手に入れても、ブドウに固執する傾向を発達させてきたのだ。

ここは、非常に重要なことを言っている。
頭の悪い、有識者は、人間は功利主義者であると、マジで思っている。ところが、人間は実際には、功利的に行動していない。それはなぜか?
それは、こういった「セカイ」について考えると分かるかもしれない。
ある貧乏な家庭の、子どもの兄弟がいたとする。もしも親が、この二人のうち、一方ばかりをかわいがって、その子にだけは、大金のおこずかいをあげて、私立の大学にも行かせたのに、もう一人には、一円もめぐまずに、大学も行かせてもらず、さっさと働きに出た。としよう。さて。この二人の兄弟は、

  • 仲良くなれるか?

一般的に、長男は、親の愛情を一人占めしてきた経験が長いため、だいたい、わがままで、自己主張が強くて、忍耐力がなくて、すぐキレる、いわゆる

  • 困ったちゃん

が多い傾向がある。もしも、上記の兄弟の両方が、こういった「キレ」キャラだったら、当然、お互いが仲良く行くはずもない。
しかし、多くの場合、そういった「対立」は起きていない。ということは、どういうことか?
つまり、多くの場合、兄弟の「片割れ」の方は、「違った行動傾向」を示す場合が大い、ということである。

本書の取材のため世界を旅する過程でとても意外に感じたことがあった。不思議なほど一貫して認められる発見があったのだ。つまり、優れたレジリエンスを発揮するコミュニティには、それを支える特定のタイプのリーダーが存在するという事実だ。本書を書き始めた時点では、『レジリエントな人の七つの習慣』といった主題は念頭になかった。ところが、苦境から力強く立ち直る力を発揮したコミュニティには、年齢や性別、経済的な豊かさなどは違っても、共通する特徴を備えたリーダーが必ず存在した。彼らは人々を結びつける卓越した能力をもって、政治的、経済的、社会的立場の異なるさまざまな組織のあいだに協力関係を築き、相互の交流の橋渡しをしている。
彼らは典型的なリーダーとはイメージが異なる。明確なビジョンを掲げる剛腕タイプのCEOとも、大胆に決断を下し、采配を振るう政治家とも違っている。あるいは、一般大衆の意見を汲み上げる草の根の活動家とも違う。彼らは中間層からリーダーシップを発揮する、これまで注目を集めることのなかった新しいタイプのリーダーである。組織階層を自由自在に乗り越えて柔軟に働きかけ、ともすると蚊帳の外におかれがちなグループをも引き込み、各関係当事者が互いに理解し合うための通訳を務める。いわば「通訳としてのリーダー」と呼ぶべき彼らの影響力は、正式な肩書きよりは、インフォーマルな権限と文化的規範に根ざしている(ミッション4636のジョシュ・ネスビットとパトリック・メイヤー、シースファイアのティオ・ハーディマン、あるいはインドネシアのウィリー・スミッツを思い出してもらいたい)。混乱に見舞われたとき、このようなリーダーの存在(もしくは不在)が事態の推移を大きく左右する可能性がある。

ここで、検討されている「リーダー」は一般的な意味では、リーダーではない。つまり、彼らは、基本的に、表舞台に引き摺り出されない。彼らは「裏方」なのである。彼らは、自己主張をしない。むしろ、ずっと

  • 聞き役

なのである。彼らは、基本的に、この組織の「感情の流れ」を、俯瞰的に見ている。その「渦」に巻き込まれない。彼らは、自分の能力を過信しない。彼らは、自分が無力であることを「前提」に行動する。一人では、やれることには、限界がある。だとするなら、組織を動かすには、自分ではなく、人が動いてもらわなければならない。彼らは自分で決めない。ではどうするか? 彼らは、

  • 決める人を探す

のである。この地球上に、多くの人がいる。ということは、「決められる」人がきっと、どこかにいるのだ。つまり、彼らの「戦略」は、

  • 多くの人々のコネクション

が、なんらかの「富」を生む可能性を常に念頭に置く、ということである。
このように考えてきたとき、いわゆる功利主義者が、なぜ、人々の「生理的不快」感情を、呼び起こし、生理的な「嫌悪」を、人に会う度に、そういった

  • トラブル

を起こし続けているのかの理由が分かるであろう。彼らは、一言で言えば、

  • 人間的に欠陥

だということである。つまり、彼らは、上記でいう「不公平嫌悪」を重要視していない、ということである。つまり、エリート・パターナリズムなわけである。

  • お前を「お金持ちにしてやる」と言ってるんだから、お前「が」嬉しいに決まってるだろう?

これが、利己主義者の「最後の砦」である。こうやって、カール・シュミット的な

  • 友だち

の対立、つまり、彼らは「立場(=友だち)」主義者なわけである。
しかし、上記の引用でも示唆されているように、
もしも、資源が「有限」なら
どうなると考えられるか? 私たちは、共に、少ない資源を分け合わなければならないであろう。また、飢えて困っている人がいるなら、そういう人に優先的に渡らなければならないであろう。つまり、このような状況では、最も(人間の生理的な感情から)「合理的」な選択が、

  • 不公平嫌悪

となるわけである。「みんな同じ」と思えるのであれば、どんなに生活が苦しくても、けっこう我慢できるものである(戦争末期がそうだったように)。少なくとも、人々の精神的安定は確保できる、というわけで、「悪平等」は、「合理的に善」であるとさえ、言えるのかもしれない、ということである...。

レジリエンス 復活力--あらゆるシステムの破綻と回復を分けるものは何か

レジリエンス 復活力--あらゆるシステムの破綻と回復を分けるものは何か