諏訪哲二『いじめ論の大罪』

ここのところ、「まおゆう」といかいうアニメがやっているが、つくづく、文章のセンスのない人というのは、こういう書き方をしてしまうんだな、というのを印象づけられる。
この物語において、主人公は、最初から最後まで、「勇者」と呼ばれるし、自らをそう「自称」する。さて、彼は「勇者」なんですかね orz。
どうして、これがダメなのか。
まず、勇者という呼称は、他人がある人に対して行う「評価」のことである。つまり、他人が評価を介すことなく、その人を「勇者」と呼んでは、

  • 混乱

するのである。私たちは、この主人公について言及するとき、それが、

  • 固有名

の意味で言っているのか、それとも、

  • 評価

の意味で言っているのかを、

に区別ができない。しかし、困ったことに、この主人公「自身」で、自分のことを、「固有名」の意味でも、「評価」の意味でも、勇者と使っている。
馬鹿馬鹿しいことに、実際に、この勇者なる主人公は、「やたら強い」。他人が知らない魔法を、こいつだけ、なぜか知ってたりして、ほとんど、無敵なまでに、悪人を殺して殺して殺しまくれるくらいに、強い。つまり、他人を殺せるんだから、

  • 勇者

だというわけだ、いやはや orz。
馬鹿馬鹿しいのは、もうこいつを「主人公」としている時点で、どうせ、物語の最後まで、死なないわけである。つまり、こいつが生きている限り、悪人はこいつに殺され続ける。しかも、圧倒的な強さで(そりゃあ、「勇者」ってことになってるんですからね。勇気をもって、悪人を殺し続けるんでしょうね orz)。
同じような言葉として、「いじめ」というのがあると私は思っている。
私たちは、子供たちのある関係を「いじめ」と

  • 呼称

した「時点」で、「すでに」そこには、無意識のうちに、ある「判断」をしている。つまり、その子供たちの「関係」を、アプリオリに、規定してしまっている。大事なことは、それは、

  • 証明

されなければならないことであるのに、ナイーブにも、「誰もが認めている共通の前提」であると、勝手に自分の中で、臆断して、他人にその認識を押し付け始めるわけである。
(同じような、馬鹿馬鹿しさを、佐々木俊尚という人が使う「マイノリティ憑依」とかいう言葉からも、受ける。この言葉が馬鹿馬鹿しいのは、要するに、彼は、この言葉を「左翼」にしか絶対に使わないからである。つまり、彼は「立場主義者」なのだ。大事なことは、言葉には、「色」がないことである。もしそれを「左翼」に使うなら、当然のこととして、人々はそれを「右翼」にも使い始める。
このことと同様のことを、ツイッター界隈にはびこる、炎上マーケティング論者たちの「持論」には共通しているように思われる。そんなに言うことがあるなら、どうぞ、英語で論文を書いて、アメリカの学会に、自分の持論を発表してください。そうすれば、

  • あなたの主張が「新しい」かどうか

が分かるというものである。そうして、海外で一定の評価をされてから、日本でいっぱしの評論家を気どってはどうであろうか。)
掲題の著者は、長年の教師経験から、いわゆる、マスコミでちやほやされ続けてきた「教育評論家」たちの、空理空論が、いかに、教育の現場において、有害無益であり、多くの害をもたらしてきたのかを糾弾する。
「いじめは悪い」。当たり前である。というのは、すでに「いじめ」という言葉には、最初から「悪い」という意味が含意されているからである。つまり、「いじめは悪い」と言っている人は、自分がたんに、

  • 悪いは悪い

というトートロジーを言っているだけなことに気付かない。
つまり、「いじめ」という「言葉」を使ってはいけないのである。その言葉を使った時点で、子供たちの諸関係を、分析することを「放棄」したことを意味するのだから。
掲題の著者の論点は、私の見るところ、四点あるのではないか、と思っている。

たしかにパーフェクトな教師を想定すれば、現実の教師は力不足に違いない。しかし、パーフェクトな教師などいない。カリスマ的な教師は時にはいるかもしれないが、パーフェクトな教師はいない。みんな子ども好きのふつうの人であり、子ども好きでない人もいる。
だからこそ、教師にはありうべき権威を付与し、その仕事を助けてやらなければならないのである。子ども(生徒)がみんな対等な人間として屹立してくれば、教師の手に負えるはずがない。本源的に生徒と教師もひととひととしては対等だからだ。

自らも教師を長年やってきた、掲題の著者は、教師だって、生徒たちに、ばかにされれば、怒りもする。挑発されれば、興奮し、衝動的な行動もしてしまう。
つまりは、ただの人間なのだ。
問題は、その教師という仕事が、「普通の人間」ができる仕事でなければならない、と考えることなのである。そのことに、社会的な理解がない。むしろ、私たちが考えなければならないのは、そういった、あまりにも「人間的」な教師という「普通の人」でも、教師ができるためには、どういった「条件」が必要なのか、を考えることなのである。

学校は教育の場であり、生徒が近代的個人に育っていく場である。学校は一人前の市民が生活しているところ(市民社会)ではない。学校は市民社会ではないし、あってはならない。学校は子ども(生徒)を市民として扱っていない。市民として扱ったら教育はできない。さまざまな機会を通じて市民へと向かうような教育(指導)をしているところだ。

子どもは「不完全性」である。子どもは、幼稚である。未熟である。だからこそ、子どもなのである。大人は子どもを「同等」と扱ってはならない。子どもは「間違える」ものなのである。
子どもは「謬見」をもっている。それは、まだ、「未熟」だからである。子どもは子どもゆえに、間違う。どうしても、大人に対して、

  • 幼稚

な態度を示してしまうことで、大人の反感を買ってしまう。子どもは、ちょっとした、「アイデア」によって、大人を、どうしても、挑発してしまう。それは、その時、子どもが思いついたアイデアを「前提」にすれば、大人が「馬鹿」に見えるからだ(これが、掲題の著者が言う、子どもの「オレ様」化だ)。
しかし、その子どもの謬見は、子どもが未熟であるためにやってしまう、

  • 思慮の足りなさ

である場合が、大抵である。しかし、たとえそうだとしても、大人は、

  • 子どもとはこういうも

として、受け入れるのである。
ここは、非常に大事なポイントのように思われる。よく、義務教育を、大学の単位制のように、クラス単位を廃止すべきだ、という主張がなされる。そうすれば、クラスという「牢獄」から解放され、「いじめ」はなくなる、と。
そして、こういった提案は、アメリカのような所が、ある程度それを実現していることから、こういったことが提案されるのだろう。
しかし、大事なことは、そういった提案が正しかろうが間違っていようが、

  • 子どもの本質がその未熟さにある

という事実は変わらない、ということである。たとえ、授業が単位制になろうとも、

  • 未熟な子どもは、どこか「クラス」的な場において、「社会性」を身につけていかなければならない

わけである。それを、わざわざ、学校でやらなくてもいいということが、事実であったとしても、いずれにしろ、

  • どこか

でやらなければならない。

たとえば、昔のいじめは、集団のまとまりを壊そうとする者や、集団から離れようとする者への教師的価値観を代理した制裁的な要素を持つタイプが多かった(ちなみに、日本の軍隊では「軍人らしからぬ者」がいじめられた。こいつが嫌いだからいじめたということもあったろうが、一応の大義名分はあったわけである)。
だが、八〇年以降は教師的価値とは関係なく、集団の中での主導権争いや、個対個の好悪に基づく感情的対立が暴力に発展したりするタイプが多い。学校的価値観とは関係なく、集団が集団としての「安定」を獲得するための個人(たち)にヘゲモニー争いが展開していると考えるべきである。

「いじめ」とは、子どもたちの間にある「価値観闘争」だということである。子ども一人一人は、すでに、さまざまな個人的価値観をもっている。スポーツができない運動神経こそが人生の全てだと思っている人の他方には、スポーツの苦手な、いやむしろ、スポーツを憎むところまで、感情を昇華させた人もあらわれる。
それらを共有しない相手同士が、お互いを牽制し合うのは、ある意味、「自然」なわけである。
だからこそ、人々は、そう簡単に、「仲間」にならない。それは、独立した自我をもつ、お互いが、「それゆえ」に、そう簡単には、

  • 交わらない

ということを意味しているわけで、じつに自然なこと、とも言えるわけである。

お互いに本当のこと、あるいは、自分が本当だと思っていることを率直に語り合うのがコミュニケーションの本質だと思っている人は多い。本音で話し合えば通じるはずだという確信はかなり多くの人が持っている。
この姿勢は一見、相手を人間的に対等に見ているように思えるが、実は自分の了解範囲のものに変形したり、縮小したりして見ているのである。つまり、こちらが了解しているあちらが、あちらのすべてであるかのように勘違いしている。
幼い子どもはみんなそうである。だから幼い子どもは本当に思っていることすぐ口にする。「個」の主観性をまだ社会的に洗練されずに持っているからである(もちろん、おとなも逃れようもなく、所有しているのではあるが)。
おとなになると私たちは本当のこと、あるいは自分が本当だと思っていることを口にすることはふつうしない。相手(まわりの人)もまたそれぞれ本当のことを所有しており、ほとんどの場合、こちらの本当のことと異なっていることに気づいているからである。
こういうことはたいてい学校の集団生活の友だち関係で身につけるように思う。

いじめとは「本音」である。本音で、自分が生理的に嫌悪する、我慢のできない相手「だから」、毛嫌いするのである。
大人になるとは、こういった「自らの生理」を、自堕落にダダ漏れさせなくなる、ということだと考えられるであろう。というのは、一見すると、嫌な印象を受けた人でも、長く付き合い、相手の良さが分かってくる、ということがあるのであるから、そんな一瞬の相手の印象で、その人の「全て」を評価するような奴は、底の浅い、うすっぺらい人間だという判断になるのであろう。
相手への、ちょっとした印象で、相手を全否定する態度は、自らが、「それだけの能力が自分にはある」といった「うぬぼれ」なのであって、人間なんて、そう簡単には分からない、ということである。
このことは、逆にも言えて、「自分はこれこれ、こういう性格じゃないですかー」と、会ったその瞬間に、自己アピールしてくる、炎上マーケティングは、押しつけがましく、相手に生理的な嫌悪感を与える。
それでも、日本中の人口の何割かが、「ひっかって」釣れれば、炎上マーケティングとしては成功だと、当人は思っているのだろうが、現代という

  • 評判社会

では、そいつの「本性」を、日本中の一人一人が「評価」するわけで、むしろ、その「悪評」こそ、そいつの人生の最後までついて回るわけである...。