佐藤衆介『アニマルウェルフェア』

この前見た、映画「ジャンゴ」において、あらためて思ったことは、人間が人間を「奴隷」とするとは、なんなのか、ということであった。
最近の研究では、古代ギリシアには奴隷はいたが、その奴隷は、古代ローマ時代のように、悲惨なものではなく、奴隷と主人が一緒に農業をやっているような、比較的に「対等」なものであった、ということらしい。
たとえば、もし奴隷が、なんの拘束もなければ、普通に考えれば逃げるであろう。だとすると、なんらかの「拘束」があったと考えるのが普通なのだろうか。例えば、足首に、鉄の輪をつけて、そこに、鉄のボーリングのようなボールをつければ、重くて、簡単に遠くまでは、逃げられない、と。
私が奴隷にこだわるのは、その奴隷という人間と、家畜などの動物とが、どういった「関係」になっているのか、なのである。
奴隷とは、人間「が」だれかを奴隷に「する」のであるのと同じように、家畜は、人間「が」その動物を奴隷に「する」と言うことは可能であろうか?
つまり、その「違い」がなんなのか、を問うているのである。
そもそも、家畜は奴隷なのだろうか? この場合、家畜には、二つの意味があるであろう。一つは、「食用」として育てられる場合であり、もう一つが、「労働力」として育てられる場合である。
例えば、畑を耕すのに、昔は、牛や馬を使って、耕した。今のトラクターがやっていたことを、動物がやっていた。
例えば、家畜が食用という場合も、牛乳のように、あくまで、その牛を「殺さない」が、その牛の生理物を人間が栄養とする場合もあるであろう。
ここ最近、私はこのブログで、近代を、

  • 無関心社会

と定義している。たとえば、なぜ近代になって、奴隷はほどんどいなくなったのか。植民地はなくなったのか。それは、私たちが、

  • 人間を必要としなくなった

ところにある、と考えられる。別に、人間の手を借りなくても、たいていのことは、機械がやってくれるようになった。そうすると、

  • どうしても人の手が必要

という場面が、めっきり減ってしまったのである。昔に比べ、今の農業は、本当に少ない人数で、大量の農産物の収穫までを行えるようになった。
ところが、前近代においては、収穫の時期ともなれば、なんとしても、人手を集めなければならなかった。もし、人が集まらなかったら、その収穫を「あきらめなければならなかった」。一定の時期までに、刈り入れができなければ、農産物は痛み、売り物にならない。だとするなら、この場合に、人手を必要とする

  • 関心度

は、ものすごいものがあったであろう。奴隷だろうがなんであろうが、無理矢理でも人を動かせなかったら、一年がんばってきた、農業が全部無駄になるのだから。
私は、ここから、人が

  • 関心

があるとは、なんなのかを考えるのである。いや、逆である。関心が「ない」とは、なにを意味するのか、を考えるのである。
関心がないとは、相手を奴隷にしたいと思っていない、ということである。つまり、本質的に、相手となんらかの関係に入ろうとしていない、と。それは、そもそも、その人が、その相手がいない状態で、

  • 困っていない

ということに関係している。「無関心」とは、「いなくても困らない」という関係と同値だと考えられる。つまり、困るという感情を伴わない限り、人は人に本質的な興味をもち始めない。
しかし、このことは、今度は、動物の「方」が、人間に対して示す反応においても、同じなのではないだろうか。
動物が人間に対して、危険であるということは、動物が飢えて死にそうであり、今ここにある飢えを回避するために求める場合なのであって、ということは、

  • そうでない場合

においては、動物はそもそも人間に「無関心」であると考えられる、ということである。
私たちはここで、動物と人間の関係を、奴隷であり家畜の関係として、考えてきた。しかし、言うまでもなく、その関係の間には、もう少し違った距離のものがありうる。
たとえば、ペットの場合を考えてみよう。この場合、人間は、このペットの「ため」に、さまざまな「ご奉仕」を行う。人間は、ペットが喜ぶことがしたい。そうして、ペットが返してくれる

  • 喜び

の反応が、まるでペットが「幸せ」であるかのようで、そのペットを育てている人間は、「嬉しい」のである。
こういった反応は、反語的であるが、どこか「ペットが王様」のようではないか。人間はペットに「奉公」をしているかのように、ペットを少しでも快適な環境に置こうとする。
ある意味で、これは「現代社会」についても言える。現代における、「管理社会」は、むしろ、管理することによって、大衆に少しでも、

  • 快適

に過ごせるように「ご奉仕」しようとしている、とも考えられる。人間にとってペットがそうであるように、国家は国民を「コントロール」するのと同時に国民が幸せになるように「ご奉仕」をしようとする。
これが、人権社会であり、福祉社会である。
人間は、経済的な成功を実現していくに従い、他人を奴隷的に支配「しなければならない」という関係から、次第に解放されていく。しかし、他方において、他者を支配「しない」となるに従い、その事実が、すなわち、

  • 他者への無関心

に結果する。他人がどうでもいいということは、逆説的であるが、「福祉をあげてもいい」ということなのである。そもそもの、その人に対するコントロールの欲望がないのだから、その人が快適でないからと「ストレス」で、文句を言ってくるのに、かまうことすら、わずらわしいわけである。つまり、そんなことに対応する「コスト」を考えれば、その人のいる環境を、適当に快適な環境にしておく方が、ずっと、めんどうも少なくて、

  • 割に合う

となるわけである。
長々と書いてきたが、現代社会における、私たち人間の人間への「無関心」が、人類のはるか太古から続く宿痾である「奴隷」の解放を実現してきたように、これと同様に、

  • 動物の解放

を考えることは、不遜であろうか?

仏教は世界で最初に不殺生を説いた宗教といわれており、人間だけではなく動物の殺生をもとがめ、動物供犠を禁止した宗教である。人間をはじめ生きものすべてが、感情や意識をもっているという点で同一であり、それは「衆生」という概念で統一されている。仏教はインドで紀元前六〇〇年ごろに生まれたが、フロリダ大学教授で異色の文化人類学マーヴィン・ハリスによれば、その当時は半牧畜生活から酪農を含む農耕生活へと生活様式が転換する時期であり、ガンジス川流域の平原の開墾にウシが不可欠となり、農民は牛肉を食べることができない状況であったという。

なぜ仏教が、動物への殺生を禁止し、のら犬などを傷つけることなく、敬う態度をしてきたかといえば、そもそもの、仏教の発祥の場所が、特に、農耕におけるウシの「価値」が非常に大きな時代だったから、という視点で考えることは重要ということなのであろう。
そして、その仏教こそが日本の長い間、主流の思想であったことを考えても、こういった仏教の動物観が、日本人に大きく影響を与えていることは間違いないでろう。

わが国の霊長類学の創始者の一人であり、長く自然保護にかかわってきた京都大学名誉教授河合政雄は宮沢賢治の作品から日本人の動物観をとらえようと、作品に出てきた動物の分類を試みた。その結果、哺乳類がもっともよく登場するが、そのなかでとくに活躍する動物はウマ、ネコ、ウシ、イヌ、ヤギ、ヒツジといった家畜であり、鳥類のなかでも中心はニワトリであった。野生の動物はキツネ、ネズミ、タヌキ、シカ、ウサギのような里山の動物であり、家畜や人間がつねに行き来する里山に生息する動物こそが、わが国では人間との一体感を醸成する動物であると指摘した。
ありのままを肯定しながらも「手なずけ」、すなわち教育された自然に対する敬意は、儒教的発想を反映しているのかもしれない。儒教は、紀元前五世紀に活躍した孔子の教えにもとづく思想体系である。六世紀に百済から五教に通じた博士が来日して伝来する、仏教と同様に日本人の動物観に少なからず影響を与えたと考えらあれる。儒教は自然が豊かなアジアモンスーン風土を反映して、現世を快適な場所として肯定し、肉食を否定していないので、王朝時代の殺生禁断の詔とは直接的な関連はない。しかし、「動物への配慮」思想への間接的な影響は考えられる。中国哲学史が専門の大阪大学名誉教授加地伸行によれば、儒教では自然世界は野蛮であり、道徳的価値観を付与された人為的世界こそが正しいとされる。そして、精神(魂)と肉体(魄)が分離した状態が死であり、招魂儀礼により魄と結びつけることで命に永遠性をもたせるのである。祖先を祀り、現世に尽くし、子孫を生むという「孝」という倫理観は、ペットや家の近くにすむタヌキ、農家で数頭単位で飼われる家畜などの身近な動物をかわいがり、それらの死に対し畜魂碑などを建て、慰霊祭を執り行い、さらに次世代へ繋ぐめに繁殖へも配慮するという日本人の動物福祉観に、色濃く反映しているとはいえないであろうか。

日本のベースにある仏教的な動物観は、こういった儒教的な、「自然」をひとたびは「野蛮」と考えながら、

  • 道徳的な手続き

を「経る」ことによって、その存在を「賢者」であり「人格者」としてトランスポートしていくわけで(そして、その「人格者」の魂は、慰霊祭などを通して、世代を超えて「続く」というわけで)、そういう意味では、人間と深く関わり、人間に影響を与えながら、生をまっとうした動物たちには、どこか「賢者」であり「人格者」のような「風格」があらわれるわけですし、そういったところから、畜魂碑を行うことへの慣習化へと発展する。
掲題の本が指摘するように、近年、ヨーロッパを中心に、家畜動物の「福祉」が注目されるようになっている。
家畜を狭い場所に、沢山の数の動物を閉じ込めれば、彼ら動物は、「ストレス」を感じることは、人間の奴隷に対して同じことをやれば、人間も苦しいのと同じように、動物もストレスフルになる。しまいに、

  • 病気

にもなるであろう。そうさせないように、動物に大量の抗生物質で薬漬けにしておいて、

  • 死なせない

というわけである。さらに最近は、人々が脂肪がのった肉を好むことによって、出荷される直前に、大量に食糧を食べさせて

  • 太らせる。

もう、これ以上食べられないと、家畜が拒否反応を示しても、注射してでも、無理矢理、食べさせる。これが、

  • 安くて「うまい」肉

の正体である。無理矢理病気にさせない薬漬けの体にさせられ、無理矢理、太らせて、動物を、

  • 人間の好みの体

にしてから、食肉用に殺す。まさに、福島県の低濃度放射性物質の話のようではないか。「この程度」なら、人間にほとんど、問題はない。安いし「うまい」んだから、大衆が好んで食べることは、むしろ、

  • 素晴しい科学の勝利

だとでもいうのであろう。しかし、そういう問題ではないのである。家畜をそんな狭い「檻」に大量に囲い込み、外の人間からは見えない場所で、

  • 動物虐待行為

が行われているのではないか。私たちは、そういった「虐待」された、動物の肉を「安い」とか「うまい」とかいって、食ってるのであって、問題にしているのは、その「残虐」性なのである。
もしも、こういった家畜を中心とした、動物に対して、さまざまな動物たちに、自らの「防衛行動」をとらせないような狭い場所で、動けなくして、太らせているなら、どうして、その行動が、

  • 国家に対する私たちへの「行動」

に類似してこないことがあろうか。人間が動物に対して行う「虐待」を

  • 原発のように)しょうがない

と言うなら、同じことは、国家による大衆の「管理」に対しても、同様の「虐待」を招来することになる...。

立正大学で長年教鞭を執り、幅広い側面から生物学史を論じている中村禎里は、日本人の動物観を昔話から読み解こうとした。まず、『グリム童話』と『日本昔話記録』(柳田国男ほか編)における変身譚を比較している。『グリム童話』では、変身譚の九二パーセントは人間が動物に変身する話であり、悪魔や魔女といった媒介者により疎外体として動物になるという。他方、『日本昔話記録』では、人間が動物に変身する例は三一パーセントほどであり、疎外体としての変身は一三パーセントにすぎないことを紹介し、日本人は動物を劣等視する傾向がきわめて弱いと結論づけた。そして、動物が人間に変身する例は六九パーセントにも達し、そこでは完全に人間性を獲得しており、動物との間の利害をともなわない親近感を指摘している。

京アニのアニメ「Kanon」における沢渡真琴(さわたりまこと)は子供のキツネが、あまりに人間を想ったがゆえに変身した少女であったが、それは、日本において、人間と動物の間に、なんらかの「縁」が生まれると、人間の側がたんに「無視できる存在」と考えられなくなる、という関係にあったと言えるのかもしれない。
反対に、近年の日本人の肉食の習慣は、そういった家畜が私たちの視覚から「隠されている」からこそ、私たちは「無邪気」にそれらを「グルメ」として考えるようになっているのではないか。
自分たち自身が、肥満は体に悪いといって、ダイエットにいそしんでいるくせに、食べる動物の肉になると、脂肪がたっぷりのものが「おいしい」とかいった価値観を恥かしげもなく、披露する。脂肪たっぷりということは、その動物が「不健康(=薬漬け)」であることを意味していることに気づかない。
なるべく、放し飼いにされている「健康」な家畜は、筋肉がついていて、そんなにおいしくない。しかし、それが「健康」に、「尊厳」をもって育てられたということの「証明」なのである。
そもそも、日本人はそんなに肉を食べてこなかった。それは、家畜を狭い部屋で、大量に押し込むというような、「非人道的」な「外道」の所業をしなかったからであろう。のびのび育て、「少し」だけ、いただいたのであって、私たちは、目の前にある牛丼屋の肉が、どんなに安売りされているからって、非人道的に育てられた肉を「おいしく」食べられるのか、そういった

  • 倫理性

が問われているのでないだろうか。そもそも、食は資本主義になじまない。分業社会で、私たちの見えないところで、その食品は、どうやって、今、自分の目の前にまで運ばれてきたのか。よくよく考えた方がいい。なるべく、こういった現代の食の病弊を少しでも改善できるように、各自が考えて行動することが求められているのであろう...。

アニマルウェルフェア―動物の幸せについての科学と倫理

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