伊藤宏之『社会契約論がなぜ大事か知っていますか』

どうも日本における政治論が、常に、なんらかの禁忌でありタブーをよけるように話されていると聞こえるのは、なぜなのだろうかと考えるわけである。
例えば、日本維新の会といって、大阪の橋本市長を中心に国会においても勢力を獲得し始めた政党が、他方において、憲法改正を目指していることは、そもそも、その「党名」にある

  • 維新

という言葉が、そのもの「明治維新」を意味しているから、ということなら、だれでも知っていながら、なぜか、この論点を避けている、というふうに思えるわけである。

日本の「近代」は明治維新によって始まりました。しかし、その社会体制は自由民権運動の抑圧と「大日本帝国憲法」が示すように、天皇主権によって人権が大きく制限されていました。国民は「臣民」であって、主権者ではありませんでした。その後、アジア・太平洋戦争での敗戦を経て、現行の「日本国憲法」が制定されました。ここで日本史上初めて、基本的人権国民主権が規定されたのです。日本の本来の近代は、したがって、一九四六年に始まる、ということができます。

明治維新は、その後の、富国強兵や近代化の結果から、一見すると、「人権革命」だったように思えるかもしれないが、それは、本末転倒なのであって、あくまで、明治維新は、中国の朱子学を中心とした

  • 正名論

の延長から目指された、「王政復古」だったということである。
私たちは、歴史は「前進」すると思っている。ところが、明治維新がそういう意味で、「前進」だったのかと問われると、難しい。たしかに、明治維新には、一種の「身分廃止」といった側面がある。このことは、吉田松蔭も強調しているところで、いわば、天皇に対する

  • 臣民(=奴隷)の間の平等

が目指された側面があった、ということは言える。じゃあ、その運動はどこまで徹底されたのかといえば、怪しい。そもそも、

というものがあるように、宮家が天皇の周りを固め、それらと区別されない形で、「華族」と呼ばれる、事実上の貴族たちが戦前まで存在した。
歴史は前進すると考えるなら、なぜなのか、と問わなければならない。そう問うことなく、歴史の前進を語るのは、歴史への傲慢なのではないか。
私たちを驚かせた、自民党改憲草案は、さまざまな形で、人民の基本的人権を制限していこうとする意図のもとに作成されたことがよく分かるであろう。
そもそも、自民党日本維新の会も、戦前の大日本帝国憲法に戻すことを目指している人たちで、中心メンバーは構成されている。しかし、そのまま戻してしまえば、アメリカとの関係を維持できないと考えているから、

  • 微妙

にその意図を、素朴に実現させようとしていないだけで、本音はそうなわけである。
つまり、彼らは、

  • 王権神授説

なのだ。憲法改正を目指している、安倍首相が、日本の代表的な憲法学者を知らないのも、そもそもそういった日本の憲法学者を軽蔑しているからで、彼らは、王権神授説以降の近代憲法学を馬鹿にしている。なんでも、王政復古すれば、OKだと思っているし、つまりは、現代の、建武の新政をやりたいだけなのだ。そして、その国民から主権を剥奪し、あくまで、主権は国王である、天皇に「だけ」あり、国民はその天皇の臣民という、一般的な表現による「奴隷」であることが示せればいい、ということになるのであろう。
例えば、日本の景気を良くする、というとき、そもそも、日本の国民全員が働きたくないから、貧乏でいい、と考えた場合に、それを許さない論理的根拠が、王権神授説となる。
つまり、国王が日本は景気が良くならなければならないと考えたら、それに向けて行動するのが、臣民としての日本人となる。
おそらく、自民党の中枢も日本維新の会の人たちも、そういった自分たちの「政治的意図」を、そう簡単に表には出してこないであろう。それらは、彼らが圧倒的な国民的支持を獲得して、国会の勢力図を支配したときに、その

  • 本性

をあらわす。つまりそれが、

  • クーデター

だということである。この手法は、戦中ドイツにおける、ナチスの民主主義的な政権奪還のプロセスと同じである。
なぜ、掲題の著者が強調するように、ジョン・ロックが重要なのか。それは、まずもって、彼の代表的主著の『統治ニ論』

完訳 統治二論 (岩波文庫)

完訳 統治二論 (岩波文庫)

の第一部が、王権神授論を唱えたフィルマーとの対決を主題としたことにあると思われるのである。
(ちなみに、ロックが第一部で対決しているフィルマーの「パトリアーカ」という論文については、以下に、第一章が載っている。
全訳 統治論 (ポテンティア叢書)

全訳 統治論 (ポテンティア叢書)


それにしても、岩波文庫のその本は、初版が2010年である。じゃあ、それまではどうなっていたかというと、『市民政府論』といって、第二部だけが、文庫化されていた。つまり、王権神授論との対決の部分はずっと文庫化されていなかった、ということである。
これほど、政治学において、重要な書物が、つい最近まで、岩波文庫で一部の翻訳だったというのが驚きであるが、つまりは、それだけ、王権神授論の否定は、日本においても、タブーだということなんですかね。
とにかく、この岩波文庫を読んだ印象は、その第一部の方の、ロックの思考過程が、よく分かる、むしろ、第一部だけでも、多くの人に読んでもらいたい気持ちさえしてくる。
フィルマーの主張を簡単に言えば、まず、神が聖書における「アダム」に、人間の支配の権限を与えた。だから、その段階で、「アダム」だけが主権をもち、ほかの人間はその「アダム」に仕える臣民だった。その後、「アダム」が死んだとしても、世界中のだれかが、神から他の人間を支配する権限を与えられていたはずだ、と。いつの時代も。その継承は、基本的には、家族においては父親であり、長男であった、と。だから、家族であれば、基本的に父親だけが主権をもち、ほかの家族のメンバーは父親の臣民、つまり、奴隷になる、と。
フィルマーの主張のポイントは、こういった秩序があると考えることによって、社会が「アナーキー」でなくなる、と彼が考えた、ということである。
これに対して、ロックは反論する。ロックの主張において、重要なポイントは、ロック自身が自分をキリスト教徒だと考えていることである。当たり前であるが。
つまり、ロックの思想は、当時の一般的なキリスト教会の通説に反している「異端」だった、ということなのである。
まず、神は、聖書のどこにも、父親だけを特別視していない。同じく母親も、同等の権利を与えている。また、どんな場合でも、長男を絶対に指導者にしなければならないなどと、聖書のどこにも見出せない。
そもそも、聖書において、神は、「アダム」など、唯一の王様一人を、特別視して、他の人間を臣民(=奴隷)として、どうでもいいなどということを書いていない。むしろ、人間に産めよ増やせ、と言ったのであって、人間だれもが「生きろ」と言ったわけで、つまりは、人間のだれもが、神の命令によって、それぞれに、この地球の大地で相応の生活を営んでいい、営むための権利を与えた、と考えられる、と。
だとするなら、その神が人間全員に与えた権利(=自然権)を実現するための社会制度(=社会契約)を、実際のものにしなければならない、ということになるであろう。
もしも、ある家庭において、長男が幼い間に父親が死んだ場合に、その長男に家長をやらせられるだろうか。そんなことは不可能である、というのがロックの教育論の主題であったわけで、彼の教育論において、子供は産まれたときはまだ白紙であって、それから、大人になる間に、さまざまなことを身につけていく。だから、幼い長男がどんなに、やんごとない身分であったからといって、政治をできる力量が、その幼児にあると考えてはいけない、という、非常にまっとうな議論をしたわけですね。実際、歴史上、そうやって、さまざまな傀儡政権が作られたわけですけど。
同様に、ロックにおいて、政教分離がどうなっているのかも、興味深い。

神の信仰問題は、そもそも人知を超えるし、統治者といえども同様である、とロックは説きます----

「真の宗教の生命と力のすべては、心の中で完全に納得するという点にあり、信ずることなしには信仰ではないのです。......命令し刑罰で脅す権利は、ただ政治権力だけが持っているものですが、説得し議論で押すことには、善意だけが権威であるのです。......ですから、統治者の権力は世俗の法の強制力によって信仰箇条や礼拝形式を決定するところまでは及ばない、と私は断言します。」

これが政教分離の原則の論拠です。

「国王への忠誠や服従という口実で、あるいは神への細心・誠実な礼拝という口実で、自分や他人に苦しみを科すことがないようにするためには、私は何よりも政治の問題と宗教の問題を区別して、双方の間に正しい境界線を設けることが必要であると思います。」

その上で、歴史的検証が続きます----

キリスト教世界において宗教上の理由で起こった大部分の紛争や戦争の原因は、避けられない意見の相違によってではなく、当然許されてよかったはずの相異なる人々に対する寛容が[教会の首長や統治者によって]拒否されたことに起因したのです。......人間というものは、自らが正直に勤勉に働いてえた富を奪われ、人間的ならびに神的な一切の権利に反して他人の暴力と略奪の餌食とされることに辛抱強く耐えるなどということはなかなかできないものです。特に彼らが別に何の罪も犯しておらず、またそのような扱いを受ける理由がまったく統治者の権限内のことでなく、ただ神に対して責任をとるべき各人の良心のみに属する場合にはなおさらのことです。だとしたら、......神と自然によって認められた諸権利[=自然権]をできる限りでの実力によって守ることを合法的にであると考えるようになるのは理の当然ではありませんか。これまでそれが普通の道筋であったことは歴史上の数多い例に明らかですし、また今後も依然としてそうであろうことは、道理の上からも極めて明らかなことです。」

ロックのいう政教分離の原則によれば、政治権力は個人の「社会的利益 civil interest」を保障する目的で個人がつくったものであり、「信仰箇条や礼拝形式」には及びません。したがって、政治権力はキリスト教徒に対してであろうと、その中の宗派に対してであろうと、また「異教徒、マホメット教徒、ユダヤ人、等」の非キリスト教徒に対してであれ、宗教上の自由を保障すべきである、というものです。また、「平和な教えを説き、清純で非のうちどころのない生活態度をとっている人々は、......その宗教のゆえに市民的権利を奪われるべきではないのであって、福音はそのようなことを命じていません」といいます。政治権力はただ、「反乱者、殺人者、強盗、......などを、いかなる教会の人であろうと、それが国教会であろうがなかろうが、処罰・抑圧」するのですが、それは宗教統制を意味するものではないのです。
では、統治者が政教分離の原則に背反して宗教統制を強行する場合にはどうしたらよいのか、とロックは問題を立てます。この問題は、「排斥法危機」に際しても争点になったものです。ホッブズの宗教統制正当化論と異なり、ロックの立場は明快であって、権限外の政治権力行使は認められず、「神の裁き」に訴える、つまり抵抗権の行使が正当化されるというものです----

「すべての人が、その良心において全能なる神に受け入れられうると確信することを行わなければならないのです。なぜならば、神の御心にかない神に受け入れられるかどうかにすべての人の永遠の幸福がかかっているからです。第一に神に、しかる後に法に服すべきであるということになります。......もし、統治者がそういう[権限外の宗教統制の]法律をつくる権利を持っていると信じて、しかもそれが公共の福祉のためになると信じていて、被治者はそうではないと信じていたならば、どうなるでしょうか。誰がその両者の間の裁定者になるのでしょうか。ひとり神のみが、と私は応えます。最高の統治者と国民の間には、地上ではいかなる裁定者もありえないからです。」

宗教における寛容の原理、すなわち各宗教団体が「自由で自発的な結社」として相互に共存すること、これを保障をすることが政治権力の及ぶ「範囲」あるいは領域なのであって、宗教的行為は権限外であって認めっれない、とロックはいうのです。この原理はさらに、宗教団体のみならず、宗教団体以外の一般的な結社の組織原則としても保障されねばならないとロックは説きます。これは「自由で自発的な結社」(政治結社=政党を含む)の政治権力からの自由、すなわち自治と自律性の原則の表明にほかなりません----

「いかに自由であれ、またいかに些細な契機でつくられたものであれ、団体はすべて、それが哲学者の研究団体、商人の団体、あるいは閑人の社交と懇親の団体であっても、すべて何かの規則によって規制され、何かの秩序を守ることにすべてのメンバーが合意しているのでなければ、その団体は決して存続できずたちまちに分解し解体するでしょう。それゆえに、教会もまた自らの規則......が定められなければなりません。......この教会団体へのメンバーの参加は完全に自由で自発的ですから、その規則をつくる権利はこの団体にしかありえません。少なくとも、これと同じことですが、その団体が構成員の同意によって権限を与えた人々だけに規則をつくる権利がある、ということになります。」

ここには、ロックが望む教会組織原則=団体自治原則が説かれています。個人が信仰を共有する目的で自発的に結合して組織をつくる、その組織の運営規則を成員相互であるいは成員の代表者が策定して、この規則によって組織を運営する、このことが明示されています。これは近代政治の組織原則、つまりは社会契約論の原型ともいうべきものです。

驚くべきことに、ロックの信仰は、キリスト教徒以外の人たちの信仰を認めるところにまで行ってしまっていたわけである。この時代にすでに。
それも、彼自身が、当時の、カトリックプロテスタントキリスト教徒同士の勢力争いであり、正統と異端の間で考えた政治家だったから、と言うことはできるのかもしれません。
ロックのアイデアを一言で言えば、

  • 聖書

に全ての「正統性」の根源を見出そうとしたとき、聖書の中の神は、ようするに、

  • 一人一人の人間に対して、それぞれに、「生きろ」と命じている

というふうに彼には読めた、ということなんですね。特別な、国王とか、そういった、やんごとない、数えるほどしかいない人にだけ、神が語りかけているわけじゃないんだ、っていう、

  • 最も根源的な「からくり」

に気付いちゃった、ということなんでしょうね。
だから、王権神授説が、国王という一人への神の権利の授与という考えの否定が、

  • 地球上の人間の全員に「神への権利の授与」がある

という「反転」が起きてしまった。だから、その神が与えた自然権を実現するために、人々は、各自の所有権を守る組織をつくって、お互いの所有権を守ろうとするし、その神の与えた権利を守ることが、その組織で実現できないなら、革命などの反乱を「権利」として、認めて、また別の組織を目指すことを一人一人に要求する。
つまり、徹底的にキリスト教徒として考え生きようとしたら、どこか、汎神論的な社会システムを構想する方に、いつのまにか梶を切ってしまっていた、という感じなんですよね。うーん。
掲題の著者も言うように、このロックの社会契約の観点からいうと、ホッブズの主張は、社会契約論とは認められなくなるわけですし(そもそも、ホッブズの場合は、リバイアサンの誕生と共に人々の自然権を「譲渡」しちゃいますからね orz)、また、ルソーの主張の方は、こっちはこっちで、抽象的でほとんどフランス革命くらいしか影響を与えていない、フランス・ローカルのものであったわけだし、なによりも、ロックの主張がイギリスでありアメリカの近代政治システムの誕生の礎石となったことを考えても、現在のアメリカを中心とした世界秩序を考えても、

  • 現代社会は、ほとんど、ロックが作った

と言いたくさえなってきますねー。うーん...。

社会契約論がなぜ大事か知っていますか

社会契約論がなぜ大事か知っていますか