二つの「真理」

ちょっと、アホっぽいことを考えてみたい。
民主主義的な多数決による「真理」の確定と、学問における「論理的」プロセスを経ての「真理」の確定の、どちらがより「真理」的であろうか?
なにを言っているのか、と思うかもしれない。
例えば、数学でもいい。物理学でもいい。ある命題が「正しい」のか「間違っている」のかについては、一意に決まる、と私たちは考えている。
数学にしたところで、例えば、自然数を含む公理的集合論ZFC内で、記述される、ある命題が、真か偽のどちらなのか、を考えることには、十分な「意味」がある、と考えられている。つまり、たとえ、今はその命題がどちらなのかは分からなくても、いずれは、どちらかになるか、または、決定不能である(肯定文、否定文のどちらを公理に追加しても、(ZFCが無矛盾と仮定した上での)無矛盾性が示される)ことがわかるか、まあ、いずれにしろ、こういった感じで、その意味するところが、決定に近づく、または、そういった「パターン」の「存在」を仮定することには、意味がある、と。
(別に断るまでもないと思うが、数学においてだって、おそらくは、何百年、何千年たとうが、まず、答の足元にさえおよばないだろうと思われているような、非常に単純な形式で書ける命題もあれば、まあ、だれにとっても「どうでもいい」ような、やたら複雑なだけの命題のそれだって、いくらでもあるわけで(たとえば、百万次元の連立方程式って、なにそれ、であろう)、証明マシーンのようなものが実現されるはずがない、ことを疑っているわけではない。そのことが、第二不完全性定理の意味だとも解釈できるであろうし、証明マシーンとは「フラット革命」みたいな話で、あまり筋のよくない、20世紀の社会主義ユートピアみたいなもの、とも言えるだろう)。
同じように、物理学にしても、「今の物理学の到達点」に制約された「解釈」によってではあるが、上記のような感じの、「一意」性、「決定」性は保証されるのではないか、と。
だとするなら、同様に、人文科学、特に、「歴史」の「一意」性、「決定」性を考えることは、意味があるのではないか、と。
この場合に、よく例にされるのが、いわゆる「南京大虐殺」と呼ばれる「南京事件」である。
日本の右翼寄りの思想をもっている人たちは、認知的不協和もあって、なるべく「南京事件」を、小規模、あわよくば、なかったことくらいに、極小化したいという傾向がある。他方において、中国は自国の被害者であるだけに、なるべく、極大化して国内のナショナリズムオルグしているんじゃないか、と日本人からは受け取られることがある。
もしこの「真実」の「決定」が民主主義的な「多数決」のプロセスによるものであったならば、どうなるか。まず、すぐに考えるのは、その母集団の

  • 分布

であろう。多数決に参加する人の、どれくらいが、どちらに親近感をもっているかで、おおよそ、どちら側に偏った「真実」に至りそうであるか、と。
こういった推論は、一見すると、妥当な感じがするかもしれない。言うまでもなく、「南京事件」は、戦前の、はるか昔の事件であって、当時の中国の戸籍も、それほど、正確なものがない中で、どれくらいの規模のものであったのかを推論することは、一見すると難しそうに思われる。つまり、そうであるからこそ、「多数決」的プロセスでは、参加者の思想的な傾向性にひきづられそう、と考えてしまう、と。
一般的に、この事件のケースでは、外国人の日記などが残っていたりと、それなりに、現場をおそらく見たであろうと思われる人たちの残したメモなどもあり、それなりに事件と言わざるをえない軍事行動はあったのであろう、とは通説として言われている。問題は、その規模がどれくらいか、ということらしい。
しかし、である。もしも、なんらかのテクノロジーの進歩なり、アイデアなりが見つかることで、かなりの「正確」さで、当時の事件の「全貌」が明らかになったとしたら、どうであろうか?
たとえば、上記の場合にしても、質問の方法を変えた場合を考えてみよう。当時の現場にいた人たちの中で、ある人は、この事件の悲惨さを伝える日記を書いていて、これこれ、こういった記述になっています。また、ある人は、同じように、これこれと悲惨な事件に遭遇した内容を記述しています。また、別のある人は、同様に、記述しています。こうやって何人もの人の記述を並べて、ところが彼らには、ほぼ間違いなく、

  • なんの接点もなく独立に(=確率的独立事象)、上記のようなその時期のメモを残していた

ということを伝えるわけです。そうした場合、その多数決に参加する人は、まず、

  • こういったメモの「真理」性の「推論」

を強いられることが分かるでしょう。これだけの状況証拠が、同時平行に大量にあるのに、それでも、否認できるか。これを否認するには、どういった状況にあれば、それらを「説明」できるのか、の

  • 反証

を考えざるをえなくなるでしょう。つまり、

  • 最も「基本的」な事実確認

から、多数決参加者に「判断」させるわけです。そうすると、

  • あまりにも基本的な「物事の筋道」

を、人はそう簡単に否定できないものであることが分かってくるのではないでしょうか。
ここで重要なポイントは、

  • 私の意見は、これこれこうです

と「言わせない」ことです。そうではなく、

  • まず、これらの「証拠物件」が、それぞれ独立した「事象」でありながら、ここまでの、「相似」性が認められるのには、どういった説明が可能であるか?

と、あくまで「細部」から「組み立て」て、多数決参加者に、「推論」を「強いる」わけです。
頭の悪い人は、日本国民全員に、「あなたは南京大虐殺があったと思いますか」と問うた「多数決」に

  • 意味がある

と考えるわけです。つまり、

  • 自分は南京事件は、あったと思っているけど、規模が中国が言っているほどではないと思う。

といった「判断」が、なにか「真理」と関係している、と考える、と。そこには一定の「真理」がある、と。
ところが、この問いを、細部の「証拠物件ごとの整合性を、あなたは、どう解釈しますか」というふうに、

  • 組み立て

で、推論を強いると、今度は、

で、個々具体的な場面で、自分がどのように推論することが「常識的」な、常識を疑われるような「アホ」な、手続きを恥ずかしくてやれない、という

  • 科学的推論

へと、人々を導くことになる、というわけです(これが、ソクラテス弁証法です)。
科学の本質は、その「分節」化にあります。デカルト以降、科学は、まずもって、「分ける」ことから始まります。そのことによって、

  • 細部での説明と全体の説明を矛盾のままにできない

という基本定理が示されるわけです。例えば、人間は細胞から構成されています。ということは、この細胞がある性質をもっているなら、その性質と矛盾したことが、人間全体の体に対して、示されるわけがない、ということになります。人間のあらゆる細胞のどこにも、魂がないなら、人間の体全体にだって魂はない、と言わざるえをえない、というような。
もっと言えば、量子力学のレベルでの、非常に小さい世界で起きていることと「矛盾」したことが、マクロのレベルの、力学的世界で起きうるはずがない、ということです。
では、少し違った問題について、考えてみましょう。在特会のメンバーがデモで、「韓国人を殺せ」と言っていた、とされています。それも、一回や二回ではなく。だとするなら、私たち市民は、これは、在特会の「主張」だと考えざるをえないでしょう。なぜなら、もしそうでないなら、彼らなりに、そういったことを繰り返さないように、なんらかの、対策をほどこす、と考えられるから、と。たとえば、そういった次には起きないようにするにはどうすればいいかのアイデアが見つかるまでは、デモをしない、というような。
しかし、人によっては、次のように考えるかもしれません。彼らの主張の緊急性から考えるなら、一部のメンバーが暴走するのは、やむをえないんだ、と。そういった暴走が起きるのは、在特会としては、本意ではないけど、

  • 昔の右翼の暴走のように

あまりにも、思いが強すぎて、そういった発言を思わずしてしまうことは、「理解できる」と。認めるわけではないが、そういった瑣末な暴走にまで、手が回らない、と。
ナチス・ドイツは、ユダヤ人を殺すことを目指した集団でしたが、彼らが、そういった思想を醸成していく「プロセス」があったことを無視することはできません。なにも、最初から、ユダヤ人を殺すことしか考えていなかった集団とまでは言えないでしょう。場合によっては、初期のナチスがそうであるように、まだ「静観」の状態を「こういう状況もありうる」くらいには考えていたかもしれないわけです。
同じことは、在特会が、韓国人を殺せ、と言う場合についても言えるかもしれない。つまり、彼らの思考過程においては、「今すぐ殺すべきだ」という時期もあれば、「別に殺さなくても、今の状態が、続いていることも、状況によっては問題ない」と考えている時期もありうるかもしれない。
ナチスが「ユダヤ人を殺せ」と言っている「事件」と、在特会が「韓国人を殺せ」と言っている「事件」は、同じように、犯罪を構成するならば、少なくとも、そういった発言をした人の「犯罪」に、けじめをつけられない間は、彼らに主張の場を果して与えられるのだろうか、とは問えないだろうか。
一つ目の問いは、そもそも、日本では「韓国人を殺せ」と言うこと自体が、犯罪を構成するのかしないのか、という法律論があるのかもしれない。
もう一つは、そもそも、「韓国人を殺せ」と言ったのは、たとえ、デモでみんなでシュプレッヒコールをしていた人の中の何人かなのだから、全員ではないのかもしれないのだから、だとするなら、在特会という組織の罪を問われることに正当性はないんじゃないか、という問いがある、と(たしか、オウム真理教には、団体に対して法が適用されたと思われるが)。
つまり、

  • 思想信条の自由を、法で裁くことは可能か?

ある人が、オウム真理教のように、地球の人々全員を殺すことを目指して、残りの人生を生きよう、と考えたとして、そう考えた人を取り締ることは、可能か?
ここにおいても、上記での例と同じようなことが、考えられるように思われる。もし、ある人が「韓国人を殺せ」と言ったとする。これを聞いた別のある人が「もし自分がこの人の、<この命令>に従わなかったら、仕返しをされる」というふうに、受け取り、実際に韓国人を殺した場合、殺人を命令した人に罪はあるのか?
このように考えてきたとき、そもそも、その人の「思想」とはなんなのか、という話にまで戻っているように思われるわけである。ある人が、ある時、「韓国人は殺した方がいいんじゃないか」と考えた。しかし、もっと、さまざまなケースも考慮して、思慮を深めっていったら、「やっぱまずいんじゃないか」と考えるようになった。しかし、もっと考えてみたら、「やっぱ殺した方がいいような気もしてきたなー」みたいな。

  • 私は「韓国人を殺せ」なんて言うことは、まったくもって、ひどい話と思う。

と自分が言うことに意味がある、という考えが、「多数決」的な民主主義的な真理の側と、いえるでしょう。
他方において、「韓国人を殺せ」と言っても、また、そのことを主要な活動目的としている政治団体があっても、なんのお咎めもないような、今の社会はどうかしている、という考えは、具体的に、そのように「命令」されて、それを、「脅し」として受け取った人が、実際に、殺人を行った場合の、「責任の所在」という「解釈」まで考える、慣習法的な態度だと言えるであろう。
オウム真理教において、麻原がサリンで「地下鉄利用者を殺せ」「ポアしろ」、と言ったのを聞いた信者が、それを「脅し」ととらえて、実際に、多くの死傷者がでたが、それを、麻原が「おれはおれの思想を言っただけで、信者が勝手にやったことだ」と「高尚」なご高説を述べたとするなら、麻原は「無罪」ということになるのだろうか。
あらゆる集団は常に、鉄砲玉は、末端の信者である。どんなヤクザでも、実際に暴力をふるうのは、末端であって、トップは、いつでも、なにも言わない。言わないでも、「察する」のが、取り巻きの役割である、というわけだ。そうして、「信者が勝手にやった」と言い訳をする限り、その組織そのものの「悪」が追求されることはない、と。トカゲのシッポ切りというやつで、組織はどんなに末端がボロボロになっても、「替えはいくらでもいる」と切り捨てる。どんなに末端にカミカゼ特攻隊をやらせても、リーダー陣が、前線で、一緒にカミカゼをやることは決してない。彼らは、たとえ、日本中の全員が、カミカゼで死んでも、生き残る。
なんというかな。
これが、「エリート」なわけだ。
少し話をまとめると、多数決的「真理」においては、全員が「韓国人を殺せ」という意見になったら、韓国と戦争をすることになる。そうだからこそ、「私はそれは嫌だ」と言うことが重要だ、ということになる。他方、推論的「真理」においては、一人一人がそのことの「好き嫌い」を言うことそのものを重要視しない。そうではなく、そもそも、人前で「韓国人を殺せ」と言う(=脅迫する)社会が、人々が考えている社会の構成要件を破壊するんじゃないのか、というそういった「条件」(=論理的帰結)を重要視し、その場合の、

  • 小さな自明性

からの論理的な積み上げが、どこまで、「自明」なまでに説得的か、を問う、というソクラテス弁証法になる。
さて、あなたは、どちらの「真理」に、より「説得力」を感じますかね...。