野口雅弘『官僚制批判の論理と心理』

官僚論を考えるときには、どうしても、国家についての考察を避けることはできない。
国家とは何か。国家は、国民と以下のようなトレードオフの関係において、存在する。

  • 税金・国民奉仕:国民 --> 国家
  • 福祉・インフラ・社会的(限定的)秩序:国家 --> 国民

例えば、私たちは子供が産まれたら、役所に名前をつけて、報告する。これは「義務」である。例えば、私たちは税金を払う。これも「義務」である。嫌だったり、面倒くさかったりするかもしれないが、やんなくちゃいけないとなっているからやっている、ということになるであろう。
その他には、義務教育や選挙というのもある。こういったものは、どちらかというと「権利」に近くなる。別に学校に絶対に行かなければならないという「強制」もない。それは、選挙も同じであるが、多くの場合、行く。それは、行くことに、なんらかの利点が行く人にあるからだが、こういったように、国家と国民の関係は、非常に密接になっていくため、なにが権利でなにが義務なのかは、判然としなくなっていく側面もある。
そもそも、なぜ国家が存在するのか、という問いは、むしろ、

  • 近代

における近代国家が、どういったものとして形成されてきたのかを考えることなくはありえない。

聖フランチェスコは、カソリック教会自体は否定することなく、しかしスコラ学的な知の体系や教会の位階秩序をラディカルに、そして軽やかにのりこえながら、原始キリスト教的な信仰を求め、それを「清貧」として実践していく。この結果として、多くの人びとが彼に共鳴して集まることになる。ただ、その結果は悲劇的であり、そして官僚制の問題を考えるうえでとても興味深い。
下村寅太郎は、このあたりの事情について次のように記している。

しかしこの原始教団が日々急激に増大し、大多数の人を擁することになると、彼らを浮浪者の群たらしめず、放恣な異端に奔らしめないためには、戒律によって訓練規正すべき教団とならざるを得なくなる。当初の単純簡素な単なる団体でなく、組織をもった教団とならねばならぬ。改めて「戒律」の制定が必要となる。原始戒律に対して「第二戒律」が要請されざるを得なくなった。[略]フランシスに代ってこの大集団を指導管理に当った代理職は欲すると否とにかかわりなく敢えて原始戒律からの背反を余儀なくされる。しかしこれはフランシスの本来の精神の挫折である。(『下村寅太郎著作集3アッシジのフランシス研究』五二頁)。

近代国家とは、恐しく「近代」を代表した現象だと言えよう。近代を特徴付けるものはなにか。それは、

  • 大量の人の「管理」

が問題になった時代だということである。ある村に30人くらいが住んでいて、その人たちで、自給自足の生活をしている、桃源郷のようなところであれば、こういった近代国家の問題に悩むことはない。みんなで、観察し合いながら、声かけ合って生きていけばいい。
ところが、国家においては、そもそも、相手にしなければならない、人間の数のオーダーが違う。それは、日本であれば、一億五千万人を

  • どうするのか

という世界の話なわけである。こういった大量の人間を扱う学問こそ、統計学だと言えるであろう。そもそも、このオーダーになると、一人一人の顔と名前を一致させることは、人間には不可能になる。つまり、一人一人の事情に合わせた、手当ては望めない。よって、

  • 戒律によって訓練規正

せざるをえない。全員に、一律同じ行動を取らせる。そうすることによって、統治者は、その行動の予測が可能になる。しかし、ほとんどの人がこの行動を行っていたとしても、何人かは、そこから逸脱していくであろう。つまり、そういった「例外」を

することが、国家の「仕事」になるわけである。
しかし、これは具体的には何をすることを意味するのか。

しかしそれでも、彼以前の理論家に比べて、ウェーバーに時代的な優位性があったことはたしかであり、この点は強調されなければならない。ウェーバーが生きた時代は、ベルトコンベヤーを使った大量生産方式(フォーディズム)の開始の時期だっただけでなく、社会主義運動の隆盛と、近代政党、つまりはドイツ社会民主党急成長の時期だった。ビスマルク社会主義鎮圧法が一八九〇年に失効してから、社会民主党は急激な勢いで大衆政党へと変貌した。まさにウェーバーはこの過程を目の当たりにした世代に属するのである。

近代国家とは、「機械」の「比喩」である。

  • ベルトコンベヤーを使った大量生産方式

こそ、近代国家における「国民」そのものとなる。つまり、ここにおいて、人間とは「機械の比喩」となった、ということになる。
それでは、もう一度、最初の命題に戻ろう。

  • 税金・国民奉仕:国民 --> 国家
  • 福祉・インフラ・社会的(限定的)秩序:国家 --> 国民

この関係において、では、官僚とは何か。

  • 給料:国家 --> 国民

これが官僚である。つまり、官僚とは国家が雇う国民のことである。官僚は国家から給料なりなんなり、報酬をもらう。つまり、利益相反からは、官僚は国家の「側」となる。
私たちは、国家と国民は対立していると考えがちだ。ところが、上記にあるように、さまざまな形で、国家から報酬をもらうことを期待して生きている人は、利益相反の関係から、容易に、

  • 国家の側(=エア御用)

になりがち、ということである。
しかし、このことは、なかなか、深い問題であるわけである。
例えば、サラリーマンは、一見すると、国家に対立する国民としか思えない。ところが、サラリーマンは会社という組織において、深く「官僚的」な存在である。会社は、そもそも法律に縛られている。つまり、官僚に「代行」して、会社は、その法律の命令を実行する。サラリーマンの税金を国に支払ったり、と。
そう考えると、果して、会社はどこまで、国家と別の存在なのか、という問題になってくる。会社がなぜ会社として、この日本でありえるのかは、その会社が、

  • その国の法の範囲内で秩序付けられている

からにすぎない。つまり、このゲームは、国家によってルール付けられている。私たちは、そのルールの中で、企業というゲームをやっているにすぎない。
つまり、多くの国民は、どこかしら、国家側的な行動慣習をもっているとさえ言えなくはないわけである。
先ほど、官僚を国家側の人と言った。しかし、官僚といっても一枚岩ではない。彼らは、別に仲がいいわけじゃない。さまざまな党派的な関係から、さまざまな利害党派を代表して、行動もする。しかし、その場合でも一貫していることは、

  • 国家にとっては国民は「手段」だ

ということである。国家は、たとえ国民がどうなろうとも、国家が「得」をすればいい。その「得」の内容がなんであれ、国家が国民を「手段」として使うということには変わらない。
こういった関係において、いわゆる「新自由主義」の主張は、その合間をつく、なかなか効果的な理論であった。
新自由主義は、国家の「極小化」を主張する。つまり、国家の役割を減らせ、と言うわけである。しかし、上記の問題を考えてほしい。

  • 税金・国民奉仕
  • 福祉・インフラ・社会的(限定的)秩序

前者が極小化されることは、国民にとって嬉しいことであろう。しかし、どうであろうか。後者が減ることは、喜ばしいことであろうか。もしも、後者を減らすというのであれば、それまで国家が行ってきたサービスを代替するサービスが民間によって提供される必要があるであろう。しかし、その対価は高額になることは避けられないであろう。
新自由主義者たちは、そもそも、国家の縮小を求めているわけではない。彼らが求めているのは、「税金・国民奉仕」の縮小に伴う、国民の自由な活動によるイノベーションを阻害する一切の邪魔の排除だと言える。しかし、それを実現するには、そもそも、強力な官僚組織が必要なのではないか。より強力な「ルール」によって、私たちの民主主義的な福祉要求行為を

より規律や訓練を求められていることが分かるであろう。つまり、新自由主義は、逆に、庶民増税になるし、庶民義務増大化となる。
例えば、企業において、社長は儲けのいくらでも、自分の収入にできるであろう。その代わり、彼らは、大きな「リスク」が伴う。売れなければ、在庫が溜まり、売り上げが経費を上回れず、借金が溜まっていくから。
しかし、この状況を簡単に改善する方法がある。
法人税をゼロにする。社員を、安い給料で働かせる。労働環境が厳しくても法律が取り締らないようにする。
つまりは、できるだけ、企業に有利な労働条件でしか、国民は働けないし、稼げない環境にすればいい。
しかし、企業やお金持ちには、今でも、「合法的」な「脱税」が可能だ。つまり、タックスヘイブンである。
なぜ、タックスヘイブンは今だに、国際的に違法化されていないのか。それは、さまざまなお金持ちたちが、各国政府にロビー活動をしているからであろう。つまり、国際組織は、タックスヘイブンを撲滅する「モチベーション」がない。彼らは、お金持ちの「味方」なので、期待できない、ということである。
しかし、だったら、我々庶民も、タックスヘイブンを使えばいいのではないか。一人一人では、パイが小さくても、それらを集合して、大きなお金にして、タックスヘイブンを使おうというような、

  • 庶民の味方

のNGOが、どんどん生まれればいいであろう。なぜ、そういったものが生まれないのかは、ようするに、貧乏人たちが、「真面目」「正義感が強い」から、ということになるであろう。つまり、彼らは、そんな悪の道を走ってまで、蓄財に熱心じゃない、ということだろうか。
おそらく、こういった問題に、一番「合理的」な行動は、買う商品を、

  • その製品を作っている企業が、ちゃんと日本国内で税金を払っているか?

を「基準」にして、国民が商品を買うようになればいい、ということになるであろう。すると、まったく違った「価値観」が現れてくる。

  • 日本企業なのに、まったく儲けに応じた税金を国内で払っていない企業
  • 日本企業なのに、まったく日本国民を雇用していない企業

は、もはや、売国奴企業であって、SNSなどで、こういった情報が人口に膾炙するようになれば、どんなに比較的安く品質の良いものを売っていても、その企業に私たちが払う代金がまったく、国の福祉に貢献していないなら、

  • なんで買うの?

ということになるであろう。逆に、外国の企業でも、その比率として、日本に多くの税金で貢献していたり、多くの割合で日本人を雇用してくれているなら、もはや、その企業は「日本企業」と呼ばずして、なんなのか、ということになるであろう。
こうやって、より社会が、

  • 社会にとって「益」になる活動をしている個人や企業

の存在を「正当化」していくような行動を人々が、SNSなどを通じてモチベーションを与えられる社会となったとき、より「比較的まし」な、社会になっているんじゃないのか、とは思うんですけどね。
そのためには、

  • 国民の利益と対立し国家の「利益相反」で動くエア御用たちの「マインドコントロール」にだまされることない状態(ある意味、エア御用たちを社会的に「コントロール」している社会)
  • 自分たち「の」ことは自分たちで決めているような、ローカルな自治が多くの関係で「普通」になっている状態
  • 比較的に社会において「つらい」毎日を生きている人たちの生活が少しでも楽になるような方向に社会が改革されることを人々が求めて政治がその方向に動いている(ことを強いられている)ような状態

では、こういった「善」性を、こういった国家活動において、一人一人が求めている社会であれば、それなりに、いい方向に向かっていくんじゃないかと。
しかし、そう思われてきた今までを、何が不安化させているのか、なんですよね。
上記で指摘したように、国家にとって、人間とは機械の比喩である。つまり、なぜ少人数の官僚機構が国民をコントロールできると思うかは、国民に

  • 機械のように振る舞え

と命令しているから、である。しかし、だれもが思うように、人間は機械ではない。絶対に、官僚たちが従わせようとしても、それに抗う人たちが現れる。
しかし、である。
近年の機械テクノロジーの発展は、その不可能を可能にするのではないか、という「予感」を人々に不安にさせているわけである。SNSの顕名化、ビッグデータ名寄せ化が、個人という「情報」を、国家が「管理」するという形で、

になるのではないか、と。そういった「不安」が広がっている、ということであろう。
こういった不安には、確かに根拠があるのであろう。しかし、今までの歴史が示していることは、だとするなら、当然、

  • 逆の運動

もまた、ここから始まるだろう、ということである。おそらく、個人の情報を徹底して

  • ノイズ化

させようとする暗号化テクノロジーは、今後さらに、徹底され高度化していくであろうし、名寄せされないためのテクノロジーも発展する。
おそらくここには、ある政治思想の対決が、存在しているのであろう。私たちは、マイケル・サンデルのように、社会の徳性を目指していくことに「楽天的」になれるのか。それとも、国家や国家に利益相反なエア御用集団と官僚のコングロマリットによって、国民はマインドコントロールされ続け、社会の徳性を目指す運動は遅々として進まないのか...。

官僚制批判の論理と心理 - デモクラシーの友と敵 (2011-09-25T00:00:00.000)

官僚制批判の論理と心理 - デモクラシーの友と敵 (2011-09-25T00:00:00.000)