安藤寿康『遺伝子の不都合な真実』

掲題の著者がなぜ、遺伝子を学問の対象として研究するようになったのか。それについて、次のようなエピソードを記述する。

鈴木鎮一の教育法は、「母国語の教育法」というものです。頭のいい子も悪い子も、だれでも母国語をりっぱに話せている。母国語を学ぶのと同じ環境で育てれば、同じようにだれでもヴァイオリンを弾けるようになるはずだ。母国語はいつでもまわりでそれが聞こえている。そしてお母さんが話しかけてきてくれる。同じように家ではレコードを繰り返し聞かせ、母親がまずヴァイオリンを手に取って弾いてあげる。するとはじめは弓をもちだけですでに飽きて投げ出していた子どもも、やがて一歩一歩、それを弾く真似を始める。できないからといって叱るのではなく、遊びのようにヴァイオリンを弾いていくうちに、それまでは天才的な少年少女でなければ弾けないといわれていたバッハやヴィヴァルディの名曲を、小学生に上がる前から、ほとんどの子どもが弾けるようになる。鈴木鎮一の教育法はそれを実現しました。

つまり、著者は、むしろ、遺伝主義の逆で、この鈴木鎮一の「環境主義」を信じて大学で心理学を研究していた。つまり、

  • 転向

したと言っているわけである。
みなさんは、この話を聞いて、どう思われたであろうか。
まず、こういった「優等生病」、つまり、いいとこのボンボンが、若い頃に、左翼運動に傾倒していたのが、大人になって

  • 現実

に目覚めて、途端に、転向左翼という「国家主義者」になりはてる、といった、何度も見てきた「大人主義=リアル主義」の、「心理学」ヴァージョンといったところなんでしょうかね。
まずもって、上記の引用の部分に一度でも傾倒するということ自体が、「異様」ではないだろうか。環境さえ、ちゃんとすれば、子どもなら誰でも、バッハを流暢に弾きこなすようになる、と。だったら、まず、そうなった子どもは

  • 幸せ

なのか? もっと、子どもが成長するのに必要なことなんて、いっぱい世の中にはあるんじゃないのか? そこまでして、ヴァイオリンが弾けなきゃいけないのか? そもそも、なんでこんなことに、掲題の著者は、「傾倒」したのだろうか?
しかし、逆に私は思うわけです。
掲題の著者は、その意図をつまびらかに語ることはしていないけれど、ここは重要なポイントなんじゃないか、と。
なぜ、掲題の著者は、わざわざ、自らを「遺伝主義者」と誤解される恐れを犯してまで、ここで、自らが長く「信仰」してきた「環境主義」を否定しようとしているのか。
それは、つまりは、

  • お金持ちの家なら、どんな家であれ、その子どもが「優等生」になるための学習「環境」を用意できる

という「逆の遺伝主義」を、「本来の」遺伝主義が否定するんじゃないのか、つまり、何が「親の七光」を相対化できるのか、を考察するため、なのではないか、と。
(どんな子どもであっても、環境さえ「完璧」にすれば、子どもは必ず、優等生になる、というなら、そういう「環境」を用意できるような、「財力」が全ての「学力」を決める、ということになるであろう。つまり、逆説的だが、「どんな子どもも潜在能力が同じ」と仮定した途端に、あとは、そういった環境を用意できる「財力」の差しかない、ということになるわけで、むしろ、格差社会の「固定」を意味してしまっている(!)というわけである。しかし、ある意味、今の東大生の家庭のほとんどが「裕福」と分類されることを考えると、

  • この影響

もそれなりに大きいことは否めないのであろうが orz...。)
では、遺伝問題の最も「重要」な論点は、果して、なんだということになるであろうか?

メンデルの法則で有名なえんどう豆の形も、丸としわを掛け合わせると、丸さ加減が半分になるのではなく、みんな丸になってしまいました。これを「優性の効果」と呼びましたが、遺伝子にはこのように足し算ではなく、組み合わせいかんによって効果の異なる効き方をするものが少なくないのです。これを「非相加的遺伝効果」と言います。
そうなると親と子はもっと似てきません。なぜなら親のもっていた組み合せは、子どもへ伝わるときには2つに分かれてどちらか一方しか伝わらないので、配偶者が偶然に同じものを受け継がない限り、同じ組み合わせは生じないからです。また図表2-13のように優性の効果を示す形質を3つ(マメの色、形、サヤの色)組み合わせてみると、その組み合わせすべてが自分の親やそのまた親と同じになる確率はきわめて低くなります。ましてポリジーンはもっとずっと多数の遺伝子の組み合わせ関与するものです。
ですから、「遺伝の影響があると親と同じ性質をもった子どもが生まれる」という先入観は捨てなければなりません。親の学歴が低くとも勉強のよくできる子どもが生まれる可能性も、親が有名な大学教授なのにとんでもなくできの悪い子どもが生まれる可能性も、どちらも「遺伝的」にありうるわけです(もちろん大学教授の中にもいくらでもヘンなのがいますので、そのヘンさ加減がそのまま「遺伝」している可能性もありますけれど)。
相加的遺伝の効果、非相加的遺伝の効果を合わせて考えてみると、親とおなじ遺伝的素質をもった子はむしろ非常に現れについことを意味します。むしろ常に古今東西一度も生まれたことのない新しい個体を生み出す仕組みが遺伝子たちにはある、というほうが本質的と言えるかもしれません。ですから逆説的に「遺伝は遺伝しない」とすらいうことができるのです。

上記の指摘は非常に重要なことを言っている。つまり、ある意味、当たり前のように思わなくもないわけだが、

  • 優秀な人の子どもは「凡庸」だ

というわけである。遺伝子の重要な特徴は、どのようにして、「多様」な組み合わせを後世に残すか、にある。もし、親と「同じ」であった場合、どういった問題があるか。親と同じということは、親の「欠点」を同じく継承していることを意味する。つまり、この親から連続する子孫たちは、未来永劫その「欠点」を

  • 十字架

として背負うことを意味する。しかし、もし親から生まれる子どもが(ある意味、半分の遺伝子の鎖を、組み合わせると考えるなら)、

  • 一カ所として「同じでない」

つまり、「まったく違う」存在こそ、親にとっての子どもだということである。しかし、そうであることによって、逆に、「親の欠点」を、この子どもは継承しないですんでいる可能性があるわけである。
そういう意味で、遺伝子は「進化」する。だから、人類は、この地球上で今まで生きてこれた、とも考えられる、というわけである。
しかし、かといって、優秀な親の子どもが、「その親の功績」と比較したときに見劣りを感じるからといって、その子ども、その人を独立して考えるなら、それはそれで、また、「別の分野」における、違った才能を発揮している場合が、往々にある、ということは言えるわけである。
掲題の著者が、ここで「遺伝子」と言っているのは、もちろん、遺伝子とは、私たちの「生」そのものに関係するくらいに、広範囲な影響をもつものだったとしても、上記の最初の引用にあるように、ここで掲題の著者が一貫して関心を寄せているのが、

  • 学習(=教育)

に関係した、いわば、「学力」とでも言ったものであることがわかるであろう。では、そういったものについての「遺伝子」なるものについての研究は、どういった段階なのであろうか?

遺伝子レベルでも、不安定ながらみつかったとされる認知能力の遺伝子は、多かれ少なかれさまざまな能力にかかわりをもち、どれかが特定の能力のみに関わって、他の能力には関わらないという「○○力の遺伝子」などということはできないとされています。このことをプロミンたちはジェネラリスト遺伝子と呼んでいるくらいです。しかし少なくともいのところ、能力の遺伝子検査が、こうした研究のレベルの理論的背景をふまえた情報提供はしてくれず、いきなり診断のレベルへと行っています。
このように能力の遺伝子検査サービスがいま行おうとしていることには疑念を抱かざるを得ません。こんにち、このように特定の行動に関連する特定の遺伝子をみつけた、いや追試したらみつからなかったという報告が、それこそ雨後の竹の子のようになされるようになり、とうとうある遺伝学系の学術雑誌では、特定の行動・精神疾患遺伝子の報告論文は記載しないという方針を決めたところもあるくらいです。

もしも、「優秀」かどうかを決定する遺伝子が発見されたなら、どういうことになるであろうか?
国家主義者は、「教育の不経済」の「改善」を提案するであろう。大量の福祉にかかるお金を「削減」するには、

  • 優秀な(=国家に益する)人材だけ

に、国のお金を投資すれば、「安上り」に国を運営できる、というわけである。どうせ、投資しても、遺伝的に「劣等」な子供を教育しても、彼らがいずれ落ちこぼれるのは分かっているのだから、無駄なことはやめろ、と。
それで、必死になって、そういった遺伝子を「探している」というわけである。なぜなら、彼ら、学力優秀者たちは、「自分たちという証拠」があるだけに、どうしても「ある」としか思えない。自分が特別視さればければならない「理由」が、どうしてもなければならない、発見されなければならない、としか思えない、というわけである。
しかしね。
こうやって、私たちが、義務教育過程を経て、大人になってみると、話はそんなに簡単ではないことが分かってくる。集合知の話がそうだけど、むしろ、集団には、

  • 愚者

が必要だ、ということである。愚者とは、「その人以外の人がもっている共通のコードを共有していない」人ということ「以上」の何かを意味しているわけではない。むしろ、そういった部外者の、まったく違った文脈からの視点によってなされる、指摘が、さまざまな困難のブレークスルーになったりするもので、ようするに、能力だなんだというのは、非常に小さな「一要素」の一つにすぎない、ということなんじゃないですかね。

本来ならば、一般知能だけでない膨大な遺伝的なバリエーションによって、学習経験の中で時々刻々表現しているはずの遺伝的才能を教師がみつけて評価し(まともな教師なら日々していることですが)、本人も徐々にそれに気がついて、それらを利用して学習者ひとりひとりにとって夢のある人生、そしてその夢を現実に追うことが他の人の果たせない夢をかなえることにもつながる人生の物語を作ることのできる文化的知識の蓄積がなされなければならないでしょう。

掲題の著者は、こういった点においても、

  • 転向左翼

そっくりなんじゃないだろうか orz。つまり、環境主義者であろうと、遺伝主義者であろうと、その中間であろうと、どれにしろ、

  • 教育という「技術」への「無限の可能性」

を強調せずにはいられない、ということなのである。しかし、そういった「教育」という考え方自体が、どこか、「傲慢」なんじゃないのか。そんなものの「方法論」が、果して、あと何世紀後になったら「完成」するのか。だれかを「教育してやる」という姿勢自体が、なにかを、根本のところで、間違っているんじゃないだろうか。
私には、「バッハやヴィヴァルディの名曲を、小学生に上がる前から、ほとんどの子どもが弾けるようになる」ということの、

  • 普遍的な法則

を発見しようとする、心理学だとか教育学という学問自体が

  • 狂っている

ようにしか見えないわけである...。

遺伝子の不都合な真実―すべての能力は遺伝である (ちくま新書)

遺伝子の不都合な真実―すべての能力は遺伝である (ちくま新書)