「風立ちぬ」の菜穂子

(どうでもいい話だが、最近、ある音楽CDを買ったのだが、それは、まあ、アニメ関係のものなわけで、そこに、カバーアルバムが初回用のオプションとしてついていて、それを、なんとなく聞き流していた頃に、宮崎駿監督のアニメ映画「風立ちぬ」を見たからだろうか、どうも、この二つを、さまざまにリンクさせて、考察してしまっていたようで、それを、以下で、まとめてみたいと思う。)
宮崎駿監督のアニメ映画「風立ちぬ」は、日曜日に選挙に行った後、見たのだが、この映画の特徴は、つまり、子ども向けではない、というところにあるんだろう、と思ったわけである。
作品は、零戦を作った、堀越二郎を主人公にして、彼が子どもの頃から、夢に思っていた、飛行機製造への夢を、かなえていく姿を描いていく形になっている。
しかし、言うまでもないが、この話が物騒なのは、ようするに、その当時の日本は、戦争の真っ只中だということである。堀越二郎がなぜ、日本にとって、特別なのかは、彼が零戦を作ったからである。
零戦は、日本にとって、あまりにも重要なシンボルである。零戦は、敵軍も認める、史上最強の戦闘機であった。はっきり言って、零戦登場の当時、零戦は無敵みたいなものであった。敵の戦闘機も、相手が零戦であったら、まともに、格闘戦をやるなと言われていた、というほどである。
しかし、じゃあ、零戦をもっていた日本がなぜ負けたのかということになるが、そこに、零戦の「欠点」が見えてくるわけである。
映画でもあったが、堀越二郎がなにを飛行機の設計において求められていたのは、日本軍の「経費削減」みたいな「圧力」であったわけであろう。そういう意味で、零戦は徹底して軽量化されている。ということは、いろいろと、「もろい」とも言えるわけだ。
つまり。零戦という「美しい」飛行機は、そもそも、最初から、どこか「カミカゼ」的な印象を受ける。搭乗者に、多分の負荷をかけているんじゃないだろうか。
零戦の「美しさ」は、どこか「空想的」である。それは、日本の太平洋戦争が調子がよかったのは、あくまで、前半だけであって、後半になればなるほど、優秀なパイロットは、ことごとく、戦死していて、泥沼になっていったことを見ても、しょせん

  • 飛行機遊び

の域を出ていなかったんじゃないのか、と皮肉の一つも言ってみたくなる。
つまり、零戦の「美しさ」に魅了され、戦争

  • 全体

の、そのストラテジーにだれも、興味がなかった、ということになるのであろうか。
いくら、零戦が「美しく」飛ぼうが、それによって、最初の何回か、相手を圧倒しようが、そのことが、少しも、

  • この戦争「全体」の最終的な勝利

を意味しない。そういう意味では、美しく飛ぶ飛行機は、「矛盾」なのだ。
なぜ、宮崎駿は、飛行機エンジニアの物語を書いたのか。それは、彼の今までの子ども向けアニメを見れば分かる。つまり、実際にそこには、そういった科学テクノロジーが「おたく」的に描かれていたから。つまり、一方において、戦争反対を主張しながら、他方において、そういった科学テクノロジーを偏執的に描き続けた彼自身

  • そのもの

が、それ、そのものとして描かれなければならない、と考えた、ということであろう。
例えば、アニメ化もされ、大いに話題になっている「進撃の巨人」にしても、一種の「殉教」マンガであろう。そこにおいて、再度、

の「美しさ」が、「反復」される。日本の漫画やアニメは、ずっと、この命題を繰り返してていると言ってもいいであろう。
(私も以前、このブログでとりあげたことがあるが、漫画「ぼくらの」も、いわゆる「カミカゼ的殉教」の世界であったし、また、宮崎監督と同じく、SF的ミリタリーおたくのような所のある作品スタイルだった記憶がありますけどね。

この星の無数の塵のひとつだと/今の僕には理解できない
恐れを知らない戦士のように/振る舞うしかない
僕の代わりがいないなら/普通に流れていたあの日常を
この手で終わらせたくなる/なにも悪いことじゃない
石川智晶「アンインストール」)


日本の明治以降から、敗戦までの日本の雰囲気を見てみると、敗戦直前までは、比較的、大衆は「楽天的」だったのではないか、と思わえる。本当に、国民が苦労し、悲惨な日常となったのは、ある意味、

  • 太平洋戦争の後半の何年か、だけだったとさえ言ってもいいのではないか、とさえ思われる

わけである。もちろん、このことは、それまでの日本が、近代として「完成」されていた、ということではない。やはり、労働環境は、厳しい下層階級は圧倒的多数であったし、人権意識も、今以上に「野蛮」であったであろう。
なんといっても、明治以前は「江戸時代」である。大衆は、江戸時代の慣習をかなり、ひきずっていたであろうことは、理解できるであろう。
ここのところ、ホワイトヘッドを紹介した本を読んでいたわけだが、

こうして自然は、もろもろの進化する過程の組織だ。実在とは、過程なのである。赤という色が実在するどうかを問うことは、無意味だ。赤という色は、実在の過程にふくまれた成分だから。自然のもろもろの実在は、自然におけるさまざまな抱握、すなわち自然のなかのもろもろの出来事である。(中略)しかし、出来事ということばは、まさに時空の統一体のひとつを意味する。したがって、このことばは、抱握された事物を意味するものとして、「抱握」ということばの代わりにもちいてもいいだろう。(『科学と近代世界』九七--九八頁)

ホワイトヘッドの哲学 (講談社選書メチエ)

ホワイトヘッドの哲学 (講談社選書メチエ)

私たちは、「時間的存在」である。つまり、私は、

  • 反省をしなくても

時間は過ぎていく。つまり、勝手に自分は変わっていく。いや。それだけじゃない。自分が変わっていくだけじゃなく、自分の回りの「全て」が、変わっていく。

  • 自分がなんの反省もしなくても
  • 自分がなんの内省もしなくても

である。もちろん、戦争だってそうである。いつのまにか、戦争が始まり、いつのまにか、戦局は悲惨を極め、いつのまにか、多くの国民が死に、いつのまにか、徴兵できる成人男子がほとんど、戦死して、いなくなって、

  • いつのまにか

日本は降伏した、というわけである。
このことを、作者は、ヒロインの里見菜穂子(さとみなおこ)の、「結核」という病気によって、示唆しようとしている、とも読めるであろう。菜穂子の姿は、今までの宮崎作品のヒロインと比べても、非常に分かりにくい描かれ方をされている。というのは、宮崎駿は、今まで、徹底して、女性を中心に作品を作ってきた。ところが、この作品で、菜穂子とは、結局なんだったのかを、あえて

  • 描かない

わけである。しかし、ここで「描かない」とは、何を意味しているのであろうか?
この作品の、ヒロインの菜穂子は、今までの宮崎作品のように、丁寧に「内面」が「説明」されていない。私たちは、どこか、「部外者」として、彼女の「細切れ」の、不連続の「シーン」の集積を、映画という手法によって、見せられている。こういった描き方は、なかなか、見る側に、菜穂子の

  • 連続した実像

を、「理解させない」ような、作者の意図が読みとれるわけである。
では、なぜ、作者はそのような描き方を、あえて選んでいるのか。
一つは、言うまでもなく、菜穂子自身の病気の深刻さがある。当時、結核とは、非常にありふれた病気でありながら、ほとんど、「死」とイコールに考えられていた。当然、彼女自身も「覚悟」をしながら生きている。つまり、「真剣」に生きている。そのことを示唆するためにも、あえて、こういった間接的な手法を選ばざるをえなかった、ということになるであろう。
しかし、私は、もう一つ、ここには、作者の意図がある、というふうに思えるわけである。
それは、二郎と菜穂子の二人の間は、徹底して、

  • 個人的な世界

だということである。作者は、この二人の間にある「個人的」ななにかを、徹底して「説明」的に描かない。あくまでも、そこに、

  • なにかがあることを示唆する「レベル」

で描くだけである。しかし、言うまでもなく、この映画を見る視聴者は、この二人の間にある、濃密な

  • 極私的

な関係を、その描写の行間を、補い、読まずにはいられないわけである。

背中に耳をぴっとつけて 抱きしめた
境界線みたいな身体じゃまだね どっかいっちゃいそうなのさ
黙ってると ちぎれそうだから こんな気持ち
半径3メートル以内の世界でもっと もっと ひっついてたいのさ
川本真琴「1/2」)
エウアル (初回限定盤)(CD+Blu-ray)

この、何年か前のヒット曲の特徴は、カップルの女性の方が、どこか「偏執的」なまでに、スキンシップを「快楽」しているところであろう。しかし、どうであろうか。長い人生で、そういう時期だってあるんじゃないだろうか。一つだけはっきりしていることは、どうせ

  • 個人的なこと

だということである。プライベートな話であって、他人がどうこう言うことじゃない。カップルの間が、どんなに、偏執的だろうが、はたから見て、異常だろうが、どうだろうが、「二人の間のこと」であって、そこは、いわば、プライバシーの

  • 聖域

なのだ。これは、どんなに時代をさかのぼっても、未来に至っても変わらない。だから、二郎と菜穂子の間も、だれにも、なににも、干渉できない「プライベート」な空間だということである。
こういった「偏執的」、かつ、どこか「狂気」すら感じさせるような、女性の描き方は、ある意味、日本の漫画やアニメの世界においては、さまざまに「支持」されてきたように思われる。
例えば、アニメ「とある科学の超電磁砲」において、おそらく、最も「愛されている」キャラクターは、白井黒子(しらいくろこ)であろう。彼女の、異常なまでの、お姉さまへの「愛」は、見る方は、いつもの「キャラ立ち」なのだと思いつつも、どこか、一本、筋が通ったような「愛し方」に、好感をもつんじゃないか、とも思うわけである。
西尾維新という、ミステリ作家については、このブログでも何度もとりあげているが、彼の作品に、物語シリーズというものがある。その中のヒロインたちの中で、上記の系統に入る一人をあげるとすると、千石撫子(せんごくなでこ)ではないだろうか。

彼女がとりつかれた怪異が「蛇(へび)」であることもさることながら、あの、ぶっとんだ「暦お兄ちゃん」愛は、まさに、ラスボスにふさわしい。

私の中のあなたほど
あなたの中の私の存在は
まだまだ 大きくないことも
わかってるけれど
今この同じ 瞬間
共有してる 実感
ちりもつもればやまとなでしこ!
略して?ちりつもやまとなでこ!
花澤香菜恋愛サーキュレーション」)
エウアル (初回限定盤)(CD+Blu-ray)

どうも話が、ぶっ飛びキャラの方に向かってしまったが、言いたかったのは、映画「風立ちぬ」の菜穂子の「極私」的な、プライベートな世界を、宮崎駿は十全に描かなかった。そうではあるんだけど、それなりには、「示唆」するレベルでは、そのお互いの関係を描いてはいる。そして、その関係に、どこか、「狂気」や「偏執的」なものが含まれていたとしても、結局それは、

  • プライベート

なものなのだから(だからこそ、宮崎駿も、それを示唆するレベルに留めたのであろうから)、たとえそれが「行儀の悪い」「非道徳的」なものを含んでいたとしても、好意的に、そっとしておいてやる、というのが、「大人の作法」なんじゃないかな、みたいなことを考えた、ということです...。