この社会は「どのようにできているのか」

私たちが考えるべきは、この社会が「どのようにできているのか」ということになるであろう。
それは、人々が、どういった「行動原理」によって生きているのか、ということになります。なぜか。この社会が「どのようにできているのか」に「合わせて」生きていなければ、その人たちは、さまざまな社会との軋轢に会い、生きづらい毎日となっていると考えられるからです。つまり、人々の「行動原理」は、この社会が「どのようにできているのか」に

  • 整合的

であることが予想できます。
この場合に、どういった「構造」が見えてくるでしょうか。一つ言えることは、

  • その人はどのような手段によって「お金儲け」をしているのか

ということです。おそらく、多くの人は、まったく、「固定」した手段がなく、場合たりで、その手段を渡り歩いているという人は少ないでしょう。多くは、一つの手段を実践することで、なんらかの信頼を勝ち取ることで、その業績を「商品価値」のようにして、自らを売って生きている、と言えるのではないでしょうか。
しかし、そうした場合、そういった人間関係と、自らの行動原理に、少なからぬ「依存関係」が生まれてしまうわけです。
なぜ、この問いが「自らの血肉をえぐられる」ような、「苦しさ」を伴うのか、というと、このことと、自分が、

  • 他人には「どういうふうにこの世の中ができている」というふうに、思われたいか

と、多くの場合に、「対立」するからなのです。つまり、こういった「構造」という問いには、自分の「実存の危機」を示唆するメッセージが含まれている場合が多い、というところに、大きな理由があります。
そういった意味からも、思想家には、「マゾヒスティック」な人が向いている、という理由になります。つまり「分析」です。サディスティックは人は、自分が「攻撃」される状況と、真剣に向きあうことを避けようとします。もっと言えば、「他人のせい」にします。そして、常に、他人を「責めている」ことに「快楽」します。つまり、こういった人たちは「分析」をする仕事に向いていません。まずもって、正しい状況の把握をやろうというモチベーションがないからです。
それは、読書という作業に似ているかもしれません。読書は作者の主張を「聞く」作業です。つまり、作者の構築した論理的構築物の構造を理解していく作業です。もしもその中に、自分の実存の根拠をゆるがすような示唆があったとき、普通の人は、目を逸らしたくなるのが、人情というものでしょう。そういう意味で、昔から読書家というのは、それほどの社会のマジョリティにはならないものです。
(貧乏な人の多くが、読書をしないのは、そこに「富裕者」たちの「自慢」が書いてあるからだと考えられます。彼ら「富裕者」たちの

  • 幸せ自慢

が、貧乏な人たちを傷付けているわけです。ところが、社会のマジョリティである富裕者は、自らが無意識に行っている貧乏な人を傷付ける行為の「残酷な差別」に気付いていないわけです。)
私がここで言いたかったことは、多くの場合、上記の「傾向性」を避けようとすることは「自覚」によってなんとかなる種類の話ではない、ということです。それが、認知的不協和ということで、私たちがどれだけ「自分はそういうふうにならない」と寝る前に呪文のように繰り返したとしても、毎日、空気を吸うように、毎日、水を飲むように、

  • 嘘をつく

ということです。なぜなら、自分たちが、そういった「構造」に寄生することで生きている限り、その構造の「危機」を無意識に避けようとすることは、ほとんど「本能」と区別がつかないからです。
東京電力が恵んでくれるお金に依存して、仕事をしている人が、どうして、彼らの言う「安全神話」に抗って反対できるでしょうか。それは、結局は、彼らから仕事をもらいたいと思っている限り、無理なわけです。どうしても、東京電力

  • 擁護

をしてしまいます。彼らは嘘を言っていない。もしそう見えるとするなら、震災の後の「混乱」がもたらした不可抗力だったのだ、と。
しかし問題は、そこに「いくらでも嘘をつける構造」があるのであれば、外部から、その二つは区別できない、ということであるわけです。そうであるなら、「その先」に議論が向かうはずなのです。そうならないということは、「その先に話が向かうことは、自らの利害に抵触する」という無意識の抵抗があって、なんとか議論をそらしている、と理解できるわけです。
こういったことをカール・シュミットは、友敵理論と言いました。もっと言えば、これが「政治」の本質だと言ったわけです。
あらゆる人間関係は、友と敵に構造化されている、と。
ここのところ、繰り返されている、政治家の「失言」において、どういった「利害関係」をもっている人が、どういった反応をしているのか、には、大変に興味深い関係があるのではないでしょうか。
猪瀬都知事や、橋下市長や、麻生副総理らの発言の特徴は、その発言は、はっきり言ってしまえば、「いいわけ」が通用するようなレベルを超えている、ということである。
それに対して、猪瀬都知事は、最終的に謝罪をするまでに、長々と「言い訳」くさい、他者攻撃を繰り返していました。橋下市長は、謝罪を行っているのですが、自分が「言った」ことに対応させて語ることを最後まで、逃げ続けて、マスコミによる「意図的なコントロール」による、自分は「被害者」であるかの反論を続けました。今回の麻生副総理も、その弁明は、まったく、彼が発言した論旨と整合性のない、「意図」を後からでっちあげた印象を受けるものでした。
橋下市長や、麻生副総理がなぜ、自分が発言した「字義通り」の文言に対応して、その「真意」を「解釈学」的に、「論理」的に、説明できないのかは、非常に興味深い問題があります。それは、一言で言ってしまえば、それをやったら

  • 本当に言い逃れができないくらいに政治的に「ヤバイ」

内容の失言だから、ということになるのではないでしょうか。それが、失言という意味なのでしょう。だから、彼らは死ぬまで、このことを「すらとぼけ」続けるわけです。
上記の三人は、言わば、権力者です。権力を今、持っている人たちです。
ここで、上記の議論が関係してきます。
彼ら三人から、仕事をもらう関係にある人たちは、果して、彼らに「批判的」態度を維持できるのでしょうか。
例えば、大手マスコミの番記者は、彼ら三人から、情報をもらうことで、毎日の新聞の記事を書いています。つまり、彼らが、ある日を境に、「もうお前には情報をやらない」と言い始めたら、彼らは仕事を続けられなくなります。つまり、彼らは、絶対に、彼ら三人を

  • 全否定

することはない。つまり、たとえ彼ら三人に非があることを認めたとしても、

  • 彼ら以上にダメな人間がいる

ということを「強調」せずにはいられない。彼ら三人の失言を、非難する大衆のポピュリズムや、左翼や市民活動家の絶望的な醜態を何倍にも強調して、dis ることで、彼ら三人の失言以上に

  • 社会には絶望的な勢力がいる

という話に変えることで、一種の失言の「擁護」をするわけである。
彼らにとって大事なことは、そういった権力集団に対して、継続的に

  • 取材

ができる「友好的な関係」を続けることにあるわけです。つまり、彼らにとって、そもそも、政治家の失言が社会にとっての「危機」であるという自覚がない。つまり、こういった政治家の危機を

  • 利用

して、自分がその政治家を「擁護」することで、その政治家に気に入られることで、自分の将来の「食い扶持」に、この関係をしていきたい、と考えるわけです。
私が、原発推進派に懐疑的なのは、ここにあります。彼らは、そのパフォーマンスが「権力者に気に入られる」のであれば、死ぬまで続けるでしょう。しかし、それは少しも、技術的な裏付けがされていません。たんに、東電の側の主張を、オウムのように繰り返しているにすぎません。つまり、そういった利害当事者の自己弁護をいくら聞いていても、それは、

と変わらない、ということなのです(科学者が愚かなのは、それが真実かどうかが問われているんじゃない、ということです。そもそも、利害当事者は、真実かどうかがばれないような嘘は、死ぬまで、隠そうとする、と言っているわけです。つまり、利害当事者がどんなに真実を言っても、そのことがなんの、社会の安定の担保にもなっていない、ということです。そういう意味で、原発推進派は、一種の「抵抗勢力」だと言えるでしょう。原発推進ということは、既存の市民向け売電を、地域独占でしかやらせない「自由化反対」論者だということです。むしろ、そうでありながら、なお原発推進だというところに、彼らの、

  • 人間的な恐しさ

があるわけです。私は彼らが「人間的に恐い」から、闘っている、となるわけです...)。
では、社会は、どのように、構成されていなければならない、ということになるでしょうか。

  • 発言の非論理性に対して社会は徹底したサンクションを与えなけれならない ... ここが「消極的正義論」の重要なポイントで、今回の、橋下大阪市長従軍慰安婦「必要」発言に対しては、それまでの維新の会の「勢い」が完全にそがれたという意味では、大きなサンクションを社会的に彼に与えたと言うことはできるのではないでしょうか。いずれにしろ、失言に非論理的な弁明しかできなかった時点で、社会はその人に、一定の「社会的排除」を与えられなければ、その社会の健全性を保てない、ということになるのではないでしょうか。
  • 東電のような巨大利権集団が、「嘘」で国民を騙そうとしてくるのであれば、私たちの社会の健全性を維持するためには、そういった「嘘つき集団」に、対抗する「彼らに利害関係で依存せずに批判的に監視する集団」を社会の側が生み出さなければならない ... なんとかして、東電内の非常に専門的な技術に精通した東電を退社した人たちに協力してもらうなどして、彼らの「お金」に依存していない人たちで、彼らの「事実隠し」に対抗できる監視組織を対抗的に生み出さなければならない。

エア御用たちが、どんなに左翼や市民活動家を dis ろうとも、どうしても、そういった詭弁が嘘くさく聞こえるのは、結局のところ、あらゆる、利権には、

  • 対抗組織

がなければ、腐敗する、ということを意味するからなのである。つまり、こういった監視組織は、組織の腐敗、つまり、

  • 事実を隠す

その嘘を「あばく」ことを使命にしているわけである。ここは、大事なポイントです。
「なにもかもが、パブリックになっている」という言い方には、「嘘」があります。というのは、どんな利権集団も、自らが「損」になる、社内情報を外部にリークしたいと思うでしょうか。つまり、「パブリック」というのは、一種の

  • 規制

なのです。パブリックにさせることを喜ぶのは、警察であり、権力者です。彼らは、人々の弱みが欲しい。なぜなら、そういったものを得られれば、彼らを脅せるから、です。だから、あらゆるパブリックは、

との相克になります。公式発表は、真実なのではなく、言えること、言っても問題のないもの、とのギリギリのかけひきの対象だということになります。
もしも、私たちが、この社会を持続可能、かつ、比較的に腐敗度が少なく健全に維持していきたいと思うのであれば、そういった、

をする対抗権力を育てていなければなりません。そういったもののない権力者に対する監視勢力の存在しない社会を「ユートピア」として描いている未来は、ことごとく、ディストピアだということです...。