伊藤真『憲法問題』

自民党改憲草案を最後まで読んだ人というのは、どれくらいいるのであろうか?
まさに、

  • 真夏のホラー

である。背筋が寒くなる。

  • ああ、権力者たちに、こういった憲法に変えさせられないために、今の憲法で「権力者たちを縛っている」んだな

ということが、よく分かるんじゃないだろうか。今の日本において、どれだけ今の憲法が重要かが分かるであろう。この憲法があるから、今の権力者たちに、この自民党改憲草案のような日本に

  • させない

で、彼らを「コントロール」しているわけである。こんなものに変えられてしまったら、...考えるだけで身の毛もよだつ、戦前という「悪夢」の再来である orz。
せいぜい、これを読んで、反面教師として、「立憲主義」とはなんなのかを学ぶしかないんだろうなー orz。
しかし、それだけに、自民党改憲草案は、自民党のコアなメンバーがどういった「国家観」をもっているのかを教えてくれる、彼らの

  • 欲望

をよく反映した、「彼らが納得する」ものになっているというところが、ポイントである。この内容を見ると、ようするに、明治憲法に「勝るとも劣らない」と彼らが解釈できるくらいの「トンデモ」であることにポイントがある。

  • だから

彼らは「納得」したわけである。大事なポイントはここである。「明治憲法に戻したい」と日頃から思っているような連中でさえ、「受け入れ可能」な内容だということである。いかに「恐しい」かが分かるのであろう orz。

日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。

ここで、主語が「日本国」になっていることが特徴です。つまり、自民党改憲草案とは、「日本国」という「主体」について、書かれている、ということである。つまり、「主体」が「国民」ではなく、「国家」に移っているわけである。
確かに、改憲草案も「国民主権」を断っていますが、それは、どちらかというと「付け足し」という性格に変わっています。つまり「キメラ」的になっています。むしろ、主張の主題は、

  • 国家主権

に移っています。この憲法は「主体としての日本国が、どういった性格をもっているのか」を、国民に向けて「義務」として、強制しているものへと変わっています。しかし、国家が主体ということは、どういうことでしょうか? 国家は人ではありません。もちろん、意志を持っているわけでもありません。そういった対象を主体とするとは、どういうことでしょう? ここで重要なのが、「天皇を戴」くという表現です。つまり、この改憲草案は、暗に、この憲法の主体は「天皇」であることに人々に気付かせる

  • 反転

させていることが特徴です。つまり、もう一度「天皇主権」であった、明治憲法の理念に戻すことを「宣言」した憲法である、ということです。

もちろん明治以前から天皇は存在していました。しかし武家勢力は天皇を戴いていたのではなく、天皇家とうまくつき合って統治に活かしていました。町民や農民もそうです。たとえば江戸時代の庶民たちは、自分たちが天皇を戴く国家に暮らしているという意識をそんなに強く持っていたでしょうか。

憲法立憲主義、つまり、国民が統治権力を縛るためのものだと考えたとき、こういった記述が、そもそも「邪魔」であることが分からないだろうか。なぜなら、そういった「歴史の解釈」は、国民の主体的活動である歴史学によって、国民それぞれが、いろいろ考えればいいのであって、国民の統治権力のコントロールに関係ないからである。
この改憲草案が、どのように現憲法における立憲主義にもとづいた、天皇の政治的「制限」を

  • 換骨奪胎

しているか。以下に見ていこう。

憲法三条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負う。
四条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。

改憲案五条 天皇は、この憲法に定める国事に関する行為を行い、国政に関する権能を有しない。

ほぼ同じ内容を定めた現憲法四条との違いがわかるでしょうか。現憲法では、天皇が行う行為を「国事に関する行為のみ」としていましたが、改憲案では「のみ」が外れて、「国事に関する行為」になっています。限定の「のみ」を外したことで、天皇は国事行為以外のこともやりやすくなります。つまり天皇の権能が強化されるおそれがあるのです。
続けて改憲案六条4項を見てください。

改憲案六条4 天皇の国事に関する全ての行為には、内閣の進言を必要とし、内閣がその責任を負う。ただし、衆議院の解散については、内閣総理大臣の進言による。

憲法天皇の国事行為に内閣の「助言と承認」を必要とすると規定していましたが、改憲案では、それが内閣の「進言」に変更されています。「進言」とは、目上の人に対して意見を言うことを指す言葉です。つまりこの条項には、天皇が上、内閣が下という構図が隠されています。ここからも、天皇を中心とした国家をつくりたいという自民党の意図が見てとれます。
少々細かな話になりますが、改憲案六条の5項も見逃せません。

改憲案六条5 第一項及び第二項に掲げるもののほか、天皇は、国又は地方自治体その他の公共団体が主催する式典への出席その他の公的な行為を行う。

ここで規定されているのは、天皇の「公的行為」です。公的行為とは、式典への出席や外国への公式訪問のように、国事行為でも私的行為でもない天皇の仕事を指します。
先ほど指摘したように、憲法上、天皇の仕事は国事行為に限定されています。ただ、現憲法でも天皇は公的行為ができると解釈されています。国事行為に準じて内閣がコントロールする必要がありますが、公的行為そのものは憲法違反ではありません。これまで解釈で行われてきた公的行為を憲法に改めて明記したのが、この改憲案六条5項というわけです。
しかし、この条項には大きな問題があります。条文のどこにも、公的行為に内閣が関与する手続きが書かれていないのです。内閣の関与を明記していないと、公的行為の名の下に天皇が何の制約も受けずにさまざまな行為をすることが可能になってしまいます。天皇の権能強化は、国民主権の後退にもつながります。その意味で非常に危険な条項といえます。
天皇の権能拡大につながるといえば、改憲案百二条2項にも注目です。現憲法九十九条で、天皇国務大臣、国会議員、裁判官やその他の公務員に、憲法尊重擁護義務、つまり憲法を忠実に守る義務を課しています。憲法は国家権力を縛るものですから、当然の規定です。ところが改憲案では、憲法尊重擁護義務から天皇が除外されています。

憲法九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
改憲案百二条2 国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う。

これは、「天皇憲法を尊重しなくてかまいません、お好きにどうぞ」ということに他なりません。天皇自身が憲法から逸脱して暴走することは考えにくいかも知れませんが、天皇を政治利用しようと企む人がいれば、やりたい放題ができてしまいます。これも要注意の改正といえます。

こうして、事実上、天皇を「立憲主義」に基いて「制限」された存在であることから、「解放」することで、この憲法草案上、天皇は、なにものにも縛られない、あらゆる行為が可能な存在となるわけです。
立憲主義の重要なポイントは、憲法に、政治的権力者の「やれること」と「やれないこと」を明確にして、彼らの行為の暴走を止めることにあるわけですが、こうやって、日本人に憲法を作らせると、途端に、天皇を無上の権力者に祀り上げずにはいられない、というところが、よく分かるのではないだろうか。
なぜ、日本において、天皇立憲主義的な「制限」が重要なのか。それは、日本の明治以降の歴史が「玉(ぎょく)」としての歴史だったからです。

問題は、その「玉」を内閣だけでなく軍部も担ぐことができたことであり、またその「玉」は皇族でもよかったことであった。重光葵によると、満洲事変に際して、不拡大方針の幣原喜重郎外相が金谷範蔵参謀総長に電話で連絡したことに関して「外務大臣から電話に呼び出されるような参謀総長では、軍の最高幹部としての威信を維持することは出来ぬという議論が中堅将校から起こり、陸軍は閑院宮元帥を参謀総長に拝することとした。皇族を擁してロボットとなし(中略)政府及び一般を威圧しようというのであった。(中略)海軍もこれに倣って伏見宮を立てて軍令部総長とした」。そのような体制の下、軍の出先は内蒙古工作や北支工作などを進め、「政府の外交方針とは正反対の立場をとり、軍中央部またこれに呼応したため、支那及び列強の世論を沸騰せしめた」のであった(『昭和の動乱』)。

日本の歴史において、なんらかの権力への野望をもった人たちは、「玉」(ぎょく)を担いだわけです。そして、それを「錦の御旗」として、「革命」を行いました。
(言うまでもなく、満洲事変以降の、中国大陸に侵略していた、中央の日本政府の言うことを聞かず、暴走し続けた、日本の軍隊は、

  • 革命集団

だったわけです。)
この憲法草案は、一貫して、天皇を中心とした、「中央集権国家」に日本を、再編することを目指す「革命」憲法になっていることが分かると思います。
そして、自民党憲法草案の最も恐しいところは、徹底した、地方自治の「否定」にあります。

改憲案九十二条 地方自治は、住民の参画を基本とし、住民に身近な行政を自主的、自立的かつ総合的に実施することを旨として行う。
2 住民は、その属する地方自治体の役務の提供を等しく受ける権利を有し、その負担を公平に分担する義務を負う。

改憲案の九十二条には、「地方自治の本旨」というタイトルがついています。現憲法では、住民自治と団体自治という地方自治の本旨をはっきり示していませんでしたが、改憲案では、「住民の参画を基本とし」で住民自治を、「住民に身近な行政を自主的、自立的かつ総合的に実施する」で団体自治を示しているものと考えられます。
自主的、自立的というのは、地方は中央ら独立し、ときに中央への抑止力として機能しなければならない団体自治の概念にぴったりな表現です。ただ、その前に「住民に身近な行政を」と限定している点は見過せません。つまり自主的にやっていいのは、地域住民に身近な問題に限られるというわけです。
住民に身近な行政に限るのは、地方自治だから当然ではないか、という意見もあるでしょう。しし、いま現在、地方では地方行政にとどまらずにさまざまなテーマについて議論がなされています。たとえば地方議会が消費税について反対の決議を取ることもあります。また、いまなら脱原発について決議を取る地方議会もあるでしょう。消費税や原発は国レベルの政策ですが、地方として反対の意思を表明することは可能なのです。
ところが地方自治を「住民に身近な行政」に限定してしまうと、国民全体にかかわる重要なテーマについて、「うちの自治体は反対だよ」と声をげることが難しくなります。仮に地方議会で中央の政策に対して反対の決議をしても、政府は「その決議は地方自治の本旨でないから、無視します」といえばいい。これでは中央に対して抑止力を発揮するという地方の役割を果たせなくなります。
改憲案が想定している「行政」について、もう少し詳しく見てみましょう。
憲法は、地方自治体の権能(権限を行使できる能力。なし得ること)を次のように規定しています。

憲法九十四条 地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を失効する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。

それに対して、改憲案はこのように文言変わりました。

改憲案九十五条 地方自治体は、その事務を処理する機能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。

二つの違いがわかるでしょうか。現憲法では地方自治体の権能として財産管理、事務処理、行政執行の三つをあげていました。ところが改憲案では、事務処理だけになっています。
これが何を意味するのか。それを探るために、条文をさかのぼって、改憲案九十三条3項を読んでみましょう。

改憲案九十三条3 国及び地方自治体は、法律の定める役割分担を踏まえ、協力しなければならない。地方自治体は、相互に協力しなければならない。

これによると、地方自治体がやることは、「法律に定める役割分担」によって決まることになります。役割分担を決めるのは法律であり、法律を決めるのは国会です。つまり改憲案は、地方自治体は自分では何をするのかを決めてはいけない、国会で決めた役割に従って事務処理だけをやればいいといっているのです。
改憲案のいう「行政」とは、国が決めたことを事務処理することに他なりません。改憲案九十二条に「住民に身近な行政を自主的、自立的かつ総合的に実施する」とありますが、同時に地方自治体を国が決めた役割をこなすだけの事務処理機関におとしめているのですから、「自主的、自立的」という表現も空しく映ります。これでは事実上、国の出先機関です。

こんなものが通ったら、その時点で、地方は、地方自治は死んだも同然でしょう。しかし、そもそも、天皇にしか国家主権を認めたくない人たちが、地方政治の破壊をもくろむのは、自明なのでしょう。
(そのように考えてきた場合、いかに現憲法における、地方自治を定めた項目が、歴史に先がけた「先進的」な、なにものにもかえがたい、傑出したものになっているのかが分かるのではないでしょうか。ようするに、自民党改憲草案と、今の憲法を比べることによって、むしろ、

  • いかに今の憲法が世界の歴史に先駆けた「すばらしい」憲法であるか

を証明していることが分かるわけです。戦後の日本の「繁栄」は、この憲法の歴史的先進的な「使命」がなければ、決して実現していなかったことを、つくづくも、噛み締めさせてくれるし、それをこんな自民党草案のようなものに変えたら、その時点で、日本の終わりだということです orz。)
恐らく、これからの安倍政権の三年間においても、憲法改正は難しいのではないか、と思われています。それは、国民投票過半数というボーダーが、非常に高いからです(そもそも、国民投票で「否決」されたら、それこそ、国民の「民意」が「決定」してしまうのですから、「失敗できない」わけです orz)。
つまり、ほとんど「国民の誰も反対しない」ような、人畜無害な条文の追加でもない限り、そう簡単に国民の過半数の賛成にならない、と(というか、そもそも、大戦以降の、世界の憲法の改正は、どこの国でも、そういったものくらいでないと、改正されていない、ということなんですね)。
そう考えると、麻生副総理が、ナチスに例えた意味が分かってくるのではないでしょうか。国民が「関心」がある限り、そう簡単に、自民党「トンデモ」憲法草案は、憲法にならない。麻生副総理は、国民の関心が高い限り、改正が難しいということを自覚しているわけです。
だとするなら、それでもこの改憲を実現させるためには、なんとかして、国民の関心を低くさせるか、ナチスのように半ば、クーデター気味に、混乱の中で、押し通すか...。

憲法問題 (PHP新書)

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