仲正昌樹『いまこそロールズに学べ』

ロールズの議論の何が、最もポイントなのだろうと、考えるわけですが、それこそ「功利主義」との対決なのではないか、と思うわけです。
功利主義は、公共政策として考えるなら、比較的に妥当な主張だと思わなくはないのだが、具体的に功利主義が何を含意しているのかについて、深く考えている人は少ない印象がある。
そもそも、なぜ功利主義という考え方があらわれたのか。

「最大多数の最大幸福」を志向する功利主義は、時代遅れになった慣習党派的な論理による恣意的統治を排除して、社会全体にとって有益な政策の立案には有用だが、ミルが指摘していたように、少数派の権利を切り捨てる恐れがある。加えて、その時々の多数派の欲求に従って、全面的な自由放任主義(≒経済的自由主義)、あるいは、徹底した社会統制(≒社会主義)の両極のいずれにも大きく振れる可能性があり、制度的に安定した「正義」の原理を確立しにくい------それは、特に問題でないと考える功利主義者もいる。

なぜ、功利主義は、さまざまな反発をまねくのか。それは、結局のところ、功利主義が「快楽の肯定」だから、というのはあるのであろう。人々が自らの快楽のままに、快楽を追求することを「基本的」に肯定する。つまり、「利己的」にふるまうことを、いったん「正しい」とするわけである。そうして、人々が、「浪費」して、周辺の山や森を切り尽してしまうことを「肯定」する。なぜなら、そういった行為を「やりたい」という私たちの「欲望」を

  • 抑圧することはできない

と考えるからである。抑圧するというのは、現代という「欲望社会」において、不可能であって、まず、そういった人々が「自然」に欲しいと思うものを「肯定」することからしか、なにも始まらない、と考えるわけである。
では、功利主義の何が問題なのであろうか?
それは、功利主義が、例えば、エリート主義とか、パターナリズム

  • 非常に相性がいい

ことを考えてみると、よく分かるのではないだろうか。功利主義は、不思議なことに、「最大多数の最大幸福」という「抽象的」な命題が、一切の有無を言わせず、私たちの前に現れる。ところが、ここで「幸福」とはなんであろうか? 幸福とは、「感情」である。つまり、

  • 結果論

なのだ。つまり、功利主義は、非常に奇妙なことに、この「命題」の中に、「結果」を含めてしまったことによって、ある意味において、

  • なんでもあり

になってしまったわけである。つまり、「結果良ければ全て良し」。なんにせよ、「いい結果さえ生み出してくれさえすれば、非道徳的だろうと、非倫理的だろうと、鬼畜だろうと、いんじゃね?」と「解釈」されてしまった、というわけである。
たとえば、あるエリートが自分には、「例外」として、膨大な福祉が与えられる制度を作ったとする。その場合、一般大衆が「お前だけ儲けやがって、ずるくねーか」と言ったところで、そのエリートが、

  • 俺を「特別視」することで

最大の「幸福」になっているなら、(俺というエリートがたとえ「鬼畜」であり「悪人」であったとしても)大衆は「利益を得ている」んだから、「平和」になっているだから、いーじゃねーか、ということになる。
つまり、功利主義は、どこか「アンモラル」な印象が抜けないわけである。

「二つのルール概念」でロールズが論じているのは、諸ルールの体系としての制度、特に法的制度を、功利主義との関係でどう考えるか、という問題である。何故、功利主義との関係が問題になるかと言えば、結果中心に物事を評価する功利主義は、私たちの行為に制約をかける「ルール」を軽視する、場合によっては、完全に無視するように思われるからである。
通常の意味での「ルール」は、正/不正を判定する安定した基準であり、制度的な「正義」と強く結び付いている。「ルール」を尊守することから帰結する人々の幸福の総和よりも不幸の総和が上回る可能性もあるが、それでもいったん決まった「ルール」は尊守すべきだと考えるのが、ごく普通の「ルール」理解である。それに対して、功利主義は、幸福に繋がらない、むしろ不幸を生みだすことが分かっている「ルール」であれば、その都度の幸福計算に従って、破ってもさしつかえない、という判断をしそうである。
ロールズは、「ルール」という概念を再検討することを通して、、功利主義的な視点からの「ルール」尊守があり得ることを明らかにしている。彼は先ず、法的ルールの違反に対して取られる措置としての「刑罰」の正当化(justidication)に関して、応報的見解(retributive view)と、功利主義的見解(utilitarian view)という二つの見方があることを指摘する。応報的見解というのは、悪業はそれ自体として刑罰に値するものであり、悪事を犯した人間は、自分の悪事に比例して苦痛を受けるべきである、という見方である。それに対して、功利主義的見解では、過去は過去のことであり、刑罰はそれが社会秩序維持の装置として有効に機能し、社会の利益を増大させる場合にのに正当化される。ロールズはこの二つの見方にそれぞれ説得力があるとしたうえで、前者は、個々の事例に対してルールを適用、執行する裁判官の視点に対応し、後者は、社会的利益の増進のためのメカニズムとして刑事法の体系を採用する立法者の視点に対応する、と整理する。二つの視点は時として対立するが、基本的には、相互補完関係にある。個別事例に対する適応可能性、正義の実現を視野に入れることなく、社会の利益を増進するための立法が行われることはありえない。

功利主義は、諸ルールの体系としての制度が正当化されうるのはそれが社会の善を効果的に促進することが証明されうる場合のみであると強調することによって、制度の運用の仕方に制約を課そうとしているのである。歴史的にみれば、それは刑事法の気まぐれで効率の悪い運用方法に対する抗議である。それは、道徳的に卑劣な行動に苦痛を対応させるという不適切な------罰当たりではないとしても------任務を刑罰諸制度にあてがうことを思いとどらせようとするものである。他の人々と同じく功利主義者達も、人間の能力の範囲で可能なかぎり、法を破る人々のみが法の手によって裁かれるように刑罰諸制度を工夫しようとしている。

先に延べたように、裁判官の裁量による法の恣意的運用を排し、民衆の利益に適う法制度を構築することがベンサムの原点であった。ロールズはそこに立ち返ることで、制度における「正義」に焦点を当てる功利主義が、必ずしも、ルール軽視に繋がるものではなく、むしろ、法を始めとするルールの体系(制度)とその運用をより正義に適った(just)ものにすることを目指していることを強調する。「約束は守るべきか?」という問題についても、ロールズは、人々の行動に制約を課し、相互に調整して、お互いに将来の見通しを得やすくする、「約束」の社会的機能に鑑みて、功利主義が「約束を守る」というルールを重視する可能性が高いことを示唆している。

ここでのロールズの論点は、そもそもの、功利主義の「立法精神」に帰って考えているところにポイントがあるだろう。つまり、ロールズは、功利主義を主張しだしたベンサムがなぜ、功利主義を唱えたのかの、その「原点」に帰って考えたとき、「裁判官の恣意的な裁量」、裁判官がもっている「善」の、恣意性を、なんとかして、民衆の利益に対応させたい、という動機があった、とするわけである。
つまり、この「立法精神」に立ち返ることで、功利主義を「本来あるべきもの」に戻させよう、とするわけである。

このように具体的な問題に即して、功利主義が必ずしも「ルール」一般に敵対的ではないことを示したうえで、ロールズは、「ルール」観の違いによって、功利主義とルールの関係についての見方が異なることを指摘する。大きく分けて、「要約的見方 summary view」と「実践的見方 practice view」がある。両者は、「ルール」という言葉に含まれる二つの異なった意味に対応する。
「要約的見方」は、「ルール」を、人々がこれからどう行為すべきか決定するか決定する際に援用する。過去の経験に基づく指針や補助物と見なす。過去において成された類似の諸事例における合理的諸決定のエッセンスを抽出し、定式化しておくことで、迅速に決定できるようにしておくわけである。そうした経験則に基づく格率としての「ルール」に従うことは、功利主義の原理と合致する可能性が高いが、そうでない場合もある。そこで行為者は、当該のルールに従うことが、真に功利主義の原理に適っているか自ら判断することになる。
「実践的見方」は、「ルール」を、「実践」を明確にし、特徴付けるものと捉える----この場合の「実践」とは、「職務、役割、処置、弁明等を明確に規定し、活動に構造を与える諸ルールの体系によって細かに規定された活動のあらゆる形態」という意味である。野球などスポーツのゲームの「実践」と、それを支える「ルール」の関係で考えると分かりやすい。「ルール」によって割り当てられた役割に従って、各人がプレーするという前提がないと、スポーツ自体が成り立たない。スポーツに参加する大前提として、「ルール」に従わねばならない。参加していながら、個々のプレーにおいて、気またルールに従うか否かをいちいち考えて決める、ということはありえない。法律や道徳のように、その社会に属する人一般を拘束する「ルール」も、その延長で、社会生活の中の各種の道徳的あるいは法的実践を輪郭付け、制度的に成り立たしめる役割を果たしているものと見ることができる。
ロールズによれば、哲学者が功利主義と「ルール」の関係について考える時、二つの「ルール」観が混同され、そのせいで両者が敵対関係にあるかのような外観を与える、間違った問題設定が成されてきた。はっきりと制度化された形での「実践」が営まれているわけではなく、みんな「要約」的な意味での「ルール」を参考に行為しているだけでれば、個々の場面でその「ルール」に従うべきか否か功利主義的に判断することに意味はある。それに対して、はっきりと制度化された「実践」が成されている場合、少なくとも、個別の行為について、「実践」的な意味での「ルール」に従うべきか否かを功利主義的に判断することは許されない、両者を混同すれば、おかしなことになる。

ロールズの正義論が、何を争点にしているのかを考えるとき、日本の戦時中において、どうして、あれだけの物資の不足がありながら、人々は「整然」と「おとなしく」その状態を受け入れていたのか、といった話が対応するように思われる。
なぜ、日本人はそのように振る舞ったのか。それは、政府が徹底して、配給を「平等」にしたから、なんですね。全員を「公平」に扱ったわけです。だから、だれからも文句が出なかった。みんな同じだから、自分だけえこひいきしてくれ、と言えなくなるわけです。
ロールズの正義論には、こういった「公平」の論理がある。もっと言えば、功利主義は、「公平でなくても、最大多数の最大幸福になるように設計さえすれば良い」という含意が読みとれる。そういう意味で、功利主義は、一部の特権階級の「特別扱い」を許容するロジックがある。
功利主義にとっては、なににおいても、「正しい」という「知=権威」が重要になる。そのため、まず求められることは、「専門家」である。専門知識によって、徹底して理論武装されることによって、その主張の説得力が担保される。
そのため、常に「どこに専門家がいるのか」のアポリアに悩まされ続けることになる。功利主義者は、そもそも、「正しい判断」を自分ができない、ということを自覚するところから始めざるをえない。つまり、どうやったら、「功利的正義」を達成できるのかが、かいもく検討もつかない。よって、どこか「はったり」にも似た主張が横行するようになる。自分が何を言っているのかさえ分からないが、「自分が言っているんだから正しい」というトートロジーに近くなる。
他方、ロールズの正義論において、そういった「正しさ」の担保について、そもそも、争わない。そういった「超越的」な議論を、避けるわけです。

ロールズは、人々社会的実践を通して享受する利益に関わる問題を、第二原理として、第一原理の後に置いたうえ、「幸福の増大」それ自体よりも「不平等の許容」に焦点を当てることで、功利主義的な道徳・政治に伴う危険を取り除こうとしたと見ることができる。

お互いに自由で対等な関係にある人々が、共同の活動(ゲーム)に従事る時、大事にするのが「フェアである」という感覚である。正統(legitemate)であると思えない要求、簡単に言えば、理不尽な要求に屈するよう強いられることなくゲームを続けることができる時、私たちは「フェア」であると感じる。私たちの多くが共有しちえるこの感覚を基盤として、「正義」の原理について合意が形成される。

なぜ、功利主義は不十分なのか。それは、功利主義が、そもそもの上記にあるような「フェア」の感覚を「破壊」して進む可能性があるからである。そういう意味で、功利主義者は、どこか、「恐しい」。彼らは、一見すると、リベラルで「いい人」に見えるが、その主張していることは、

  • 人間的に恐しい

わけである。

奴隷制について考えてみよう。功利主義は、奴隷と主人の幸福の総量の計算や効率性の観点から奴隷制を否定するかもしれない。しかし、それは奴隷性を”不正義”として絶対的に排除する議論ではない。

つまり、功利主義者は、もしその「幸福計算」が、あらぬ方向に向かうなら、アウシュビッツでさえ肯定しかねない、「危険思想」なのである。
以前、「集合知」の本を読んでいたとき、そこで言う「集合」と「知」という言葉の相性の悪さを感じたことがある。
つまり、そもそも知とは、「ある人のもっている知識」とかいう場合に使うものであって、そういう一人一人が残した文献をまとめてアーカイブしてあるものの「集合」を、「知」と呼ぶことには飛躍があるように思えるわけです。なぜなら、たとえ、そういったアーカイブがあったとしても、そのアーカイブを読み解き「解釈」するのは、また、それぞれの人であるから。
集合知」という場合は、なんらかの、さまざまな人々が「つぶやいた」ものの集合を分析する、という意図がある。この場合に、

  • その中から、ランダム・サンプリングして、それを「大衆の意見」として、整理するなら、それは集合知とは呼べない可能性がある

むしろ、集合知というのは

  • 進化論

に似ているのかもしれない。それぞれの意見は、ある意味、「他者」として「突然」、私たちの目の前に現れる。つまり、私たちを「驚かせる」わけである。まるで、ツイッター上で何人もの人にRTされるように、その「意見」は、ミームとして、集合に「感染拡大」をしていくのだ。
ここで、「知」とはなんなのかを考えておきたい。私がここで「知」と呼んでいるのは、あくまでも、

  • ある人

が吐き出した「つぶやき」のことにすぎない。私は、そもそも、知が、「その人」性を「超えて」語れる、という立場をとらない。つまり、言葉の意味を確定することはできない(なぜなら、言葉の意味は「その人」の中で閉じるから)。しかし、だとしても「困らない」(その差異を多くの場合、気にしない)、という立場に立つ。
ここで大事なことは、ある知(=解釈)が、ある人から「つぶやかれる」ためには、この場合の、その人の「問題」系が重要になる、ということである。
なぜ、その人は、そのようなことを言うのか。それは、その人が、この世界を「どのように見ているか」に関係してくる。
ある東電から仕事をもらって、一生、東電がくれるお金で生きていきたいと思っている人がいるとして、その人にしてみれば、東電が倒産してもらっては困るということになるであろう。だとすると、途端に、その人の言うことは、「どのようになれば東電は倒産しないでその勢力を維持できるのか」の観点から、あらゆる事象を解釈していくであろう。そして、当然、その「視点」から、解決策を模索していくことになる。
では、「集合知」の場合に、どういった事態になるか。上記の人にとって、自分の「問題」意識から「想定」される、他者の意見は、ある意味、「想定内」ということになる。それらは、いわば「利害当事者内の問題系」によって、拘束されている人たちの意見と考えられるであろう。しかし「集合知」という場合、ここに、

  • まったく関係のない問題系

が入りこんでくる余地があるわけである。そもそも、東電がどうのこうのなんて、生まれてから一度も考えたことのない人から、まったく今ある問題系と、なんの連続性もない意見がまぎれこんでくる。

  • そもそも(原発がどういうものかなどどうでもよく、たんに)原発が嫌だから、生理的に不快だから、理屈抜きで、日本列島から今すぐ、なくしてほしい。
  • 東電という会社は嘘ばっかり言っているから、こういう嘘つき会社は日本からなくしてほしい。
  • たんに、東電という会社が嫌いなので、東電という会社から電気を買わなくてもいいようにしてほしい。原発で発電された電気を買わなくてもすむようにしてほしい。

このように考えたとき、上記の東電から一生食べさせてもらう「ために」、いろいろ考えて、護教的に問題系を設定していた人たちの

をこういった意見は、完全に、違った所から、つぶやかれていることが分かるのではないだろうか(ようするに、原発問題は「抵抗勢力」問題なのである)。
(おそらく、集合知において大事なことは、そういった「斬新な意見」は、

  • 進化力が強い

ということなんですね。どんなにマイノリティから発せられた意見であっても、そこに義があれば、あっという間に、人々の「ミーム」に感染して、RTされる。)
つまり、知とは、「その人」の「問題」系、に依存する。
マルクスが分析したように、私たちが「資本主義的存在」である限り、私たち一人一人の「問題系」は、資本主義によって「構造化」されている。私たちは決して、この構造を超えられないわけです。
ポール・ド・マンだったかに、「盲目と明視」だったかの本がありましたが、私たち一人一人の視点には、なんらかの「盲点」がある。いや。盲点があるから、「明視」する、とも言える。そして、この問題を「見える化」したものが、集合知だと言えるのではないか。
功利主義者は「ルール」が嫌いだ。それは、幸福計算に「制限」があるように思われるからであろう。しかし、ロールズの正義論を

  • たくさんの功利主義者による「幸福計算」を集合知的に「進化論的」競争にかけたときの「フェア」

の問題を考えている、と考えることもできるのかもしれない。しかし、こういった議論さえ功利主義者は嫌うのであろう。なぜなら、功利主義者は自分を

  • 正義=エリート=ヒーロー

と考えたい人たちなのであって、

には興味がないからなのであろう...。

いまこそロールズに学べ  「正義」とはなにか?

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