政治の「定義」

そもそも、政治において、なにが「争点」なのであろうか。
つまり、「政治」とは、なんなのだろうか。
「政治」は、何を「目的」にするのだろうか。
「政治」は、なにがどうなればそれを「政治」と呼ぶのだろうか。
「政治」とは、人間にとって、どんな「営み」なのだろうか。
もしも、人間が生まれてから死ぬまでのそれを、「政治的」と呼ぶとするなら、それは、どのような「条件」によって定義されるのであろうか。

六五節で、「アリストテレス的原理」について述べられている。「アリストテレス的 Aristotelisan」という言い方をしているのは、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』の七巻及び十巻にこの考え方の原型を見ることができるからである。これは、(正義の原理と適合する)様々な「合理的人生計画」の内、どれが自分にとて最も臨ましいか選択する際、各人が従うであろう動機付けの原理であり、以下のように定式化することができる。

他の条件が等しいならば、人間は自らの実現された能力(先天的、もしく訓練によって習得された才能)の行使を楽しみ、そしてこの楽しみはその能力が実現れればされるほど、その組み合わせが不屈になればなるほど増大する。

抽象的な言い回しになっているので分かりにくいが、要は、他人や社会から一方的に「財」を与えられるだけでなく、自らが一定の能力を身に付け、それを実地で十分に使いこなせるようになることに喜びを覚える、ということである。また、ごくわずかな能力しか必要とされない単純な活動よりも、いくつかの能力を組み合わせて取り組む必要がある複雑な活動で発揮する方が、喜びは大きくなる傾向がある。あるスポーツの種目の得意な人が、より複雑で難易度の高い技を習得しようとすることや、数学の得意な人がより複雑で難易度の高い問題に取り組もうとすることを念頭におけば、分かりやすくなるだろう。

いまこそロールズに学べ  「正義」とはなにか?

いまこそロールズに学べ 「正義」とはなにか?

六七節では、最も重要な「基本善」である「自尊」について説明されている。「自尊」には、二つの側面がある。一つは、自分自身に価値があるのだという感覚、言い換えると、自らの善の構想、人生計画は遂行するだけの価値があるのだという信念である。この第一の側面には更に、1合理的な人生計画、特にアリストテレス的原理を満たす計画を有していること、2私たちの人格と行動が、私たちと同様に尊重されている他の人びとによって評価され、確証されていること、そして、彼らとの交流を享受していること------という二つの要素がある。もう一つの側面は、事故の意図を実現する能力に対する自信である。
この二つの側面を含む自尊心を持てない時、私たちは、自分の人生計画を遂行することができない。そのため、原初状態にいる当事者たちは、自尊を害するような社会的条件を回避したいと願うと考えられる。その意味で、「公正としての正義」は、各人の自尊を第一に考える。
自尊を重視する立場からロールズは、政治的原理として「卓越主義」を採用すべきでないことを改めて強調する。「完全性」の標準を定めれば、特定の人の才能の達成水準が高く評価されるのに対し、他の人々は低く評価されることになるからでる。そうなると、人々の自尊心が傷付けられ、恥辱(shame)の感情を抱くことになる。多様性を志向するアリストテレス的原理も満たされなくなる可能性が高い。市民としての公共的生活においては、お互いの生き方の相対的価値について評価することは避けるべきである。
いまこそロールズに学べ 「正義」とはなにか?

政治において、最も大事なことはなんだろうか?

  • 平等(=フェア)に扱ってもらった(=だれとも差別することなく「対等」に扱ってくれた)という対等待遇意識
  • 自分が日々努力し、結果として技術が身に付いていっている「進歩」感
  • そういった自分が行っている日々の努力の結果の技術への社会的な尊敬であり良い評価

つまり、こういった感覚を「国民の全員が持つことになる」ような、「人倫的関係」だということになるであろう。
戦中における、戦時配給が、あれほど物資不足になっても、栄養失調に近くなってまで、人々が「我慢」したのは、ようするに、みんなを

  • 平等

に扱ったからである。だから、「自分が差別された」と思わなかった。あいつとも同じだし、こいつとも同じだった。だから、文句が言えなかった。文句を言う大義名分がなかった。
カントの有名な格率である「他者をたんに手段としてでなく目的として扱え」も、言ってみれば、「平等原理」なんですよね。もちろん、ロールズの「無知のヴェール」論も、平等原理ですよね。
だから、人間は実際のところは、さまざまな差があることは、生い立ちも違うわけですし、すごしてきた環境も違うのですから、しょうがないわけですけど、それでも、そういった一人一人を

  • 「あえて」平等として扱う

場合に、どういったポイントにおいて、そのように言うのか、といったことなんですね。
例えば、たしかに、見た目は学力も違うし、体格も違うし、なんらかの「優劣」が「ある」と言うことは常識的なんじゃないか、と思ってしまうところで、じゃあ、どっちが「進化論的」に優位なのか、と言ったときに、そんなに「外見上の差異」だけで、決定できない、と考えることだってできるわけであろう。
たまたま、ある遺伝病に強い抗体をもった家系かもしれないし、変わった特技をもった家系かもしれない。
そのように考えたときに、「そう簡単に人の上下(うえした)を決めるような言説は、政治的に筋が悪い」というふうに考えられる、というわけである。
上記のように、みんなが自律的に自分で考え、勝手に行動しているんだけど、それによって、お互いがお互いの役に立っていて、支え合っていて、お互いがお互いに「助かっていて」、認めあっていて、各自、自信をもっていて、プライドのある誇り高い士気を感じられている、そういった状態のことを

と言っていいんじゃないんですかね...。
(一見、功利主義からして、非効率にみえても、人々に満足感が残るんですね。平等に扱った、というのは「その人を他の人と比較して、先に見捨てなかった。一人前に扱った」という態度なんですよね。だから、人々の求人力をもつようになる。平等に扱ってくれたという「贈与」が、共同体に、なにかお返しをしたい、という感情を植えつける。いざというときに、「自分が」共同体のためになにかをするんだ、という「落とし前」の感情を引き起こしやすくする。つまり、自律的な感情や行為、つまり、自治の「感情」を人々にとらせるんですね...。)