還元主義

例えば、「政治」の「本質」は、「哲学」にあると、だれかに言われたとしたら、あなたはどう思うだろうか。正しいと思うであろうか?
哲学はあらゆる学問の根源なのだから、当然、政治は哲学によって、説明され尽せる、と。
そのように考える人は、当然、物理学であろうが、数学であろうが、哲学の

  • 一分野

と解釈する。
こういった態度を、ここで私は「還元主義」と呼ぼう。なにかは別のなにかによって、説明される。そうすることで、私たちは、物事の「本質」へ向かう。全ての事象を「究極的」に説明するなにかを見つけたとき、それを、この世界の根本原因、アンガージュマン(=悟り)の境地に至るというわけである。
しかし、ね。その「究極」は何によって説明されるんですかね。これこそ、カントのアンチノミーですね。
では、私たちは、何かを間違っているのだろうか。なにか、究極の説明媒体を見付けようという態度が、トンチンカンなのだろうか。
これに対しては、一つだけ言えることがある。
それは、そういうことをやっている人たちは、それはそれでいい、ということである。各自で探究されていればいい、と。
この態度には、一つのアジェンダがある。それは、あい対立する、二人の別々の方向に探究されている人同士が、「自分の主張が優れている」と主張し合ったときに、「どちらがより優れている」のかを判定できるのか、ということである。
もし私たちの目指すものが「究極」の理論であるなら、それを判定できても不思議はないであろう。
しかし、ロールズの主張する「政治的リベラリズム」は、こういった「哲学」の前提を共有しない。ということは、どういうことなのだろうか?
ロールズの主張する「政治的リベラリズム」は、そういう意味では、数学における「モデル」に近い印象を受ける。

正義の構想が、特定の哲学的あるいは形而上学的主張に依拠することを拒絶すべき理由について以下のように述べている。

要約して言えば、この考え方は、立憲民主制においては、正義の公共的概念は、可能な限り、論争の余地がある哲学的・宗教的教説から独立しているべき、ということである。そういうわけで、そうした構想を定式化するに際しては、私たちは寛容の原理を哲学自体に適用することになる。正義の公共的構想は、形而上学ではなく、政治的でなければならない。それが本論のタイトルである。

ここから分かるように、この論文のキーワードになっている「政治的」という形容詞は、「立憲民主主義的」というのとほぼ同義に使われている。近代の立憲民主制では、市民たちが、異なった価値観・世界観を持っていることが前提になっている。そうした深いレベルでの一致を無理に目指すことなく、お互いの価値観・世界観に対しては干渉せず、共通の利益に関わる公的事柄に関してのみ一定のルールの下で集団的自己統治を行う、というのが、立憲民主制の大原則である。

いまこそロールズに学べ  「正義」とはなにか?

いまこそロールズに学べ 「正義」とはなにか?

ロールズは、政治的構想としてのリベラリズムは、包括的な理想とは一定の距離を置き、その内のどれかを特権化すべきではないという立場を取る。
特定の包括的な道徳的教説を追求する人々の間で、各人の包括的理想をいったん括弧に入れ、社会的協働のためのリベラルな構想についての公共的合意を成立させるための方策として、ロールズは「重なり合う合意 overlapping consensus」論を提起している。「重なり合う合意」という言葉は、『正義論』の五九節の市民的不服従を論じる文脈で出てくる。この文脈でロールズは、市民たちが抱いている正義の構想に違いがあり、それゆえ考え方の前提が異なっていても、各人の正義感覚に基づいて、(市民的不服従が正当化されるような重大な不正が行われている)当面の状況について同じ結論に至るのであれば、厳密な合意はなくとも、「重なり合う合意」は成立していると言えるのではないか、と示唆している。考え方の筋道はそれぞれ違っても、結論は「重なり合う」わけである。
いまこそロールズに学べ 「正義」とはなにか?

数学においては、まったく、なんの関係もない理論の間で、まるで、「コピペ」したかのように、次々と似たような「証明」が並ぶことがある。つまり、関係のない分野の間にも、「似た構造」がある。つまり、それら二つを共通する「モデル」がある、ということになる。というか、その「モデル」自体においてさえ、同じことが言える。
あるモデルは、幾つかの公理群から導かれる命題群として定義されたとしても、一見すると、まったく違う公理群から始めても、同じ命題群となる(同型となる)、同じ「モデル」となることは、往々にして起きうる。
しかし、こういった「個々」の「モデル」について考えることと、そういった「全てのモデルを含む」数学全体を考えることは、ひとまずは、異質なことだと言えるであろう。
上記の本が興味深いのは、さまざまな「哲学者」が、次々と、ロールズを「批判」するのだが、それに対するロールズの応答は、ほとんど、上記の「自分がやっていることは哲学ではない」(一般的な意味での哲学から「政治」を「証明」するような営みではない)という一言に尽きていることである。
こういった、一連の「哲学者」の反応のうち、最もその反応の典型例伝わるケースとして、ノージックの批判が分かりやすいであろう。

各人が個別に働くよりも協働した方が大きな利益が得られるのであれば、人々の間に協働することに関する合意が成立すると考えられる。格差原理は、合意を成立させるための、利益の分配に関する条件を規定したものと見ることができる。共同事業を進めるために、利益の分配を予め決めておくのは、普通の契約でも行われていることであるが、ロールズの[社会的協働 --> 正義]論では、そうした個別の契約を規制する法律やルールを含む、社会の「基礎構造」全体が”契約”の対象となる。
ノージックは、生産のための「社会的協働」から分配における正義をめぐる問題が生じうることを一応認めたうえで、どうして最も恵まれない人々の集団に有利な分配方式に人々が自発的に同意することになるのか、とそもそもの疑問を投げかける。
いまこそロールズに学べ 「正義」とはなにか?

上記の例は、ノージックロールズの「土俵」に降りてきて質問しようとしているところが、特徴である。つまり、ノージックの主張を延長したとしても、上記のような「おかしな」ことが起きるのではないか、と聞いているのである。
ところが、これに対する、ロールズの反応がおもしろい。というのは、ロールズは、そもそも、ノージックが主張する

  • 土俵

を共有しないわけである。つまり、ノージックは自分の哲学「で」、ロールズを批判している。それに対して、ロールズはそのノージックの「哲学」が、自分の哲学と対立するからダメと言っているのではなくて、たんに

  • 今ここで考えている「モデル」と両立しない

と言っているにすぎない。つまり、ノージックの問題提起は、「自分の哲学を受け入れろ」と言っているだけであって、ロールズ内部のこの正義論の「ロジック」の延長で考察しようとしていない。つまり、ノージックは、ロールズの立場を、ろくに考慮していない、ということである。

社会の「基礎構造」こそが、正義論が論ずべき第一の主題であるという自らの立場を再確認しているこの論文でロールズは、リバタリアン理論は、「基礎構造」を視野に入れていないことを指摘している。保有物に関する三つの正義の組み合わせとしてノージック最小国家論のような議論では、人々に基本的権利を付与し、市民としての活動に際してのルールを体系的に規定する「基礎構造」の問題は出てこようがなく、全ての正統な社会的協力は、自発的に合意する人々の創作物以上のものではなくなる。
国家は、私的結社=協会(private association)の一種と理解され、政治的忠誠は、私的契約に下づく責務と同様のものと見なされる。万人に適用される単一的な公法の体系はなく、私法のネットワークがあるだけである。ロールズに言わせてば、全てを私的契約関係に還元しようとするリバタリアンの理論は「社会契約論」ではない。

というのも社会契約論は、原初契約を、政治的権威を定義、制御し、市民としての全ての人に適用される共通の公法の体系を確立するものとして描き出すからである。政治的権威とシティズンシップの双方が、社会契約という概念それ自体を通して理解されることになる。国家を私的結社と見なすことでリバタリアンの教説は、社会契約論の根本的な理想を拒絶する。したがって、極めて自然なこととして、基礎構造の正義についての固有の理論の余地を残さない。

このようにロールズは、全ての権利関係を私的な合意に還元する形で捉えようとするノージックの議論は、「基礎構造」における正義の原理、公法の体系を生みだす原理を求める自らのそれとはそもそも土俵が違うという立場をとることで、批判をかわしている。土俵が違う以上、同じ主題をめぐって議論することはできない、というわけだ。
この点を確認したうえで、ロールズは、「正義の結果状態原理またはパタン付き分配原理(endstate principle or distributional ptterned principle of justice)はどんなものでも、人々の生活に対する不断の干渉なしには継続的に実現されえない」、というノージックの主張が、少なくとも、正義の二原理には当てはまらないことを示唆している。
ノージックの見方では、移転の正義に基づく取引を繰り返す内に、結果的に非常に裕福になる人や貧しくなる人が出てくる可能性があるので、「正義の結果状態原理もしくはパタン付き分配原理」に基づく政府が、格差を縮小しようとすれば、私人間の取引に干渉せざるをえなくなる。彼は、ロールズの格差原理も、そうした分配の原理の一種と見なしている。それに対してロールズは、格差原理は、「基礎構造」に関わる原理であることを再度強調すう形で応じている。

正義の諸原理、とりわけ格差原理は、社会的・経済的不平等を制御する主要な公共の原理や政策に適用される。これらは、権原や報酬のシステムを調整し、このシステムの運用のために使われている。慣れ親しまれた日常の基準や規則のバランスをお取るために使われている。例えば、格差原理は、所得や財産に対する税制、財政・経済政策に関係する。それは、告知された公法のシステムに適用されるのであって、特定の取引や分配、個人や結社の決定に適用されるのではない。むしろ、これらの取引や決定が生じる制度的背景に適用されるのである。告知なしに、予測不可能な形で、市民の期待や獲得に干渉することなどない。権原は、ルールの公的システムが宣言するところに従って、獲得され、敬意を払われる。税と制約は、全て原理において予見可能であり、保有物は、一定の移転と再分配が行われるであろうという、周知の条件の下で獲得される。格差原理は、個別の分配の継続的な矯正や、私的取引への決まぐれな干渉を命じるという反論は、誤解に基づいている。

格差原理は、「基礎構造」とそれに基づく「公法のシステム」に関わる原理であって、個人の財産形成や私人間の契約関係に直接介入することはないのである。この点を強調することでロールズは、所有権を中心とする私人間の権利関係を管轄すべき権原理論とのすみ分けを図ると共に、格差原理は----ある意味、社会主義と同様に----個人の基本的自由を侵害する、というありがちな批判を避けようとしているわけである。
これは、伝統的な法理論における「公法 / 私法」の区分を準用した常識的な論法であるが、たとえ間接的にせよ国家が、不正の矯正という範囲を超えて私的所有関係に介入することをそもそも認めないノージックには、受け入れられない議論だろう。
いまこそロールズに学べ 「正義」とはなにか?

ノージックは、リバタリアニズムとして、国家のような公的組織が、私的な領域に介入する一切を認めない。ところが、ノージックがそのように言うとき、一つの「欺瞞」がある。それは、警察などの「ルール保全」を目的とした、公的な介入は「必要悪」として認めているからである。このことがどこか嘲笑的なのは、そもそも、そういった警察組織を求めているのは、「富者」だからだ。なぜなら、貧乏人はそもそも、守らなければならない財産がないわけで、というか、どうせそういった警察組織ができても、こういった公的機関が、ワイロのためのお金ももっていない貧乏人を助けないことは、経験上知っているからだ。
リバタリアニズムは、どこか、「優等生」的なのだ。一方において、優等生の「偽善」、つまり、ルール保全を行う警察的公的組織が、「なぜか」富者と貧者を「平等」に扱う、と「仮定」しておきながら、他方において、優等生の「露悪」、つまり、頭の悪い貧者を、だまくらかして、骨の髄まで、しゃぶりつくしてやる、と(高学歴の東京人が、福島の純朴な人たちを、よってたかって、自分の商売の道具に利用している、ような話だ)。
もしも、そんなふうな「品性下劣」な高学歴エリートの、リバタリアニズム的「功利主義」に、うんざりしているなら、いっそのこと、

  • 社会契約論

から始めればいい。そういった、ロールズが言っているくらいの「公平としての正義」さえ、受け入れられない連中は、さっさと日本から出ていって、シンガポール辺りで、脱税対策でもやってろ。二度と日本に入ってくるな。二度と日本語をしゃべるな。日本語でお金儲けをすんじゃない。勝手に、シンガポールで、グローバリズムとやらで、しこたま、稼いでればいいだろ。
こういった「優等生」は、自分が日本という国で、さんざん義務教育を受けて、自分を「育ててくれた」のが、この日本だという「恩」も忘れて、全て自分の「実力」で、ここまで上りつめたんだと、本気で思っている、おめでたい連中なわけで、新卒で会社に入って、3年で、その会社に、なんの恩返しもする前に、技術だけ盗んで辞める連中みたいなものだ。
「優等生」とは、「優れた」功利主義者だと言えるのではないだろうか。つまり、うまく、功利主義的計算をやって、生きてきた連中だというわけである。ロールズの上記の政治的リベラリズムが、いわば、

  • 公理としての正義「モデル」

だとするなら、彼らは、功利主義「哲学者」ということで、彼らは、こういったロールズの「政治的リベラリズム」が、「哲学に値しない」という理由で、

  • 嘲笑

する。これに代えて、彼らが主張する「リベラリズム」こそ、

である。ここにおける、「リベラリズム」とは、「功利主義リベラリズム」と呼んでもいいであろう。さて。哲学に「善悪」があるだろうか? この宇宙に「善悪」がないように、哲学にそんなものはない。ニーチェが言ったように、善悪とは、キリスト教徒が「弱者」のくせに、その弱さを認められずに、「神という弱者の味方」を仮構することで、「強者」をハブにした、弱者道徳にすぎない、と。だから、徹底して「善悪」を否定した、善悪の彼岸こそ、真の哲学が存在する地平なんだ、と。
さて。ここにおける「リベラリズム」とは、なんだろう? いわば、どんな悪党でも、品性下劣なことを言っても、

  • いい

という、究極の「言論の自由」世界である。貧乏人をボロクソに嘲笑して「良い」社会。それは、「正直」だから、「礼賛」される。お金持ちが、お金自慢をして、貧乏人の顔を札束で、ひっぱたくことが「良い」社会。なぜなら、それは「正直」だから、「本当の姿」だから。彼らは貧乏人が貧しくてお金がなくて、ひもじい思いをしているのを見て、

  • 自分が今そうでなくてよかった

と本気で、「快楽」しているわけである。みんなが、やりたいことをやっている「自由な社会」。
言わば、「いじめ」自由社会。「差別」自由社会。リバタリアニズムは、個々人の間に、富者と貧者を、「あっという間」に生み出す。すると、何が起きるか。ニーチェ的な意味で、

  • 力(ちから)の差

が生まれる。経済的なパワーの差が、「権力」差として、あらわれる。札束使って、ワイロで、いろんな勢力を「買収」できる方が、この社会の中で、

していく。ワイロで警察を買収して、裁判所を買収して、次々と、自分達に有利な判決を出させる、というわけである。
しかし、である。
たとえ、「こういった」哲学的リベラリズムも、ロールズ的な「政治リベラリズム」において、「その居場所を与えられる」というわけである。
彼らも、彼らの真理探究を進めるその内容を否定されるわけではない。それは、彼ら以外の真理探究に対しても、その内容を否定されないことと同様である。
つまり、ロールズ的な「リベラリズム」は、そういったさまざまな宗教なり形而上学なりが、さまざまな主義主張の出発点から、暗中模索を続けることを、それぞれに対して「肯定」しておきながら、それでも、

  • 「政治」的な、その一点において

そういった真理探究のどの理論も、最終的な到達点においては、ロールズが主張しているくらいの基本的な原理(=モデル)は、どの学説も認めざるをえないだろう、と。それくらいに、「<政治>だったら当たり前」と言えるような、基本的な「モデル」として、同意されるだろう、というものについての、<政治>的考察、ということなんですね(思想なんて、その程度の、ひかえめで、抑制的なことが言えたら、おんのじ、くらいなものなんでしょうね...)。
まあ、それに対して、哲学的リベラリズムの「脳内世界」では、ロールズ的「政治リベラリズム」なんて、安っぽいニセ哲学として、さっさと「乗り越える」対象にしか思っていないんでしょうけどね。いいですね、哲学って無敵で orz。