児玉龍彦『放射能は取り除ける』

一つ前で紹介した本には、一つ、いいポイントが書いてあると思ったところがある。

「(自然被曝以外に)生涯で通算100ミリシーベルトを被曝すると癌で死亡しるリスク(確率)が0.5パーセント上乗せされる」という「公式の考え」には、被曝した人の年齢や体格といった個人的な要素が入っていないことが気になった人も多いだろう。ICRPの「公式の考え」は、あくまで、職業人のための基準を作ったり、放射線がらみの事故の際の大きな方針を決めたりする際に使うものなので、実在の個人ではなく、多くの人を平均した「標準人」(あるいは、「平均的個人」)の癌のリスクを表わしているのだ。
しかし、実際には、被曝の健康影響には大きな個人差があると考えられている。まず、4.7節で扱うように、一般に子供は大人よりも放射線被曝の影響を受けやすいことが知られている。あるいは、癌の発生にとって重要なDNAの傷を治す能力(4.3節を見よ)は人によってまちまちで、特定の遺伝子が欠損しているためにDNAの傷を治す能力が極端に弱い人たちがいることも知られている。そのような人たちにとっては放射線被曝の影響は標準人よりもずっと大きいはずだ。放射線被曝のリスクを正確に考えるためには、影響に個人差がありうることを意識しなくてはいけない。

やっかいな放射線と向き合って暮らしていくための基礎知識

やっかいな放射線と向き合って暮らしていくための基礎知識

原発推進派がよく言っていたことで、ある非常に高線量の地域に長年住んでいる人たちがいるとして、じゃあ、福島も「同じように安全」なのだろうという主張をしていた。また、同じように、東京からニューヨークに飛行機で片道で、どれくらい被曝する、みたいなことを言って、「福島は、それに比べて、たいしたことがない」みたいなことも言っていた。しかし、上記の引用はそれらについての、強い反論になっている可能性がある。
つまり、もしかしたら、そういった高濃度の場所で長年、住んできた住民は、比較的に放射線被曝に強いDNAを長年にわたって、継承してきた人たちである可能性がある(逆に言えば、「淘汰」されて、放射線被曝に弱い人は、早々に亡くなったのかもしれない)。じゃあ、そういった高濃度の放射線の地域の人が、「それで我慢している」んだから、福島の人も、日本中の人もそのレベルに「合わせなければ不公平」と言い始めるとしたら、それが何を意味しているのか、ということになるであろう。
もしかしたら、ある人は比較的に癌になりやすい人かもしれない。そういった傾向の日本人が、かなりの割合いたとする。今までは、日本はそれほど、放射性物質も少なく、放射能濃度も高くなかった。だから、そういう人たちも比較的に多く、子孫を残せてきたとして、そういった「体の弱い」人間は、死んでもしょうがない、放射性物質を大量に日本社会の環境に出してでも、日本の工業品産業を守らなければならないのか、という話にさえなってくるであろう。
原発は、どこか、戦争に似ている。というのは、原発推進派は、どこか、帝国日本軍の将校クラスに似ている。彼らは、別に、現場で、労働をするわけではない。離れた所で、原発を再稼働しろ、福島第一の復興作業をしろ、と帝国陸軍の将校のように、「命令」しているだけなのだ。自分は、現場で働かないけど、やれ、やれ、と命令だけはする。福島第一の放射能は非常に高い。普通に考えたら、こんな場所で作業をするだけで、すぐに、限界ギリギリの被曝になってしまう。こんな過酷な作業を安月給でやらせる。どうせ、えらそうに、学者だとか、そういう連中は、死んでも、福島第一の現場で、一年くらい働いて、限界ギリギリまでの被曝をする、なんてことはやらない。やらないけど、えらそうに、帝国陸軍の指揮官のように、福島第一をあーしろ、こーしろ、と口をはさんでくる。
自民党政権に戻って、日本の原発関連の審議会などは、また、昔の、原子力ムラの住人に戻っているのだそうです orz。そして、原子力規制委員会の言っていることは、ある意味で、昔の原子力安全神話のとき以上にひどくなっている可能性がある。それは、昔はまだ、絶対安全神話「だから」、原発を動かす、ということであったが、今度は、原発が安全でないことは分かった、

  • けれど

原発は動かす、に勝手に変わりやがったわけだ。一体、「建前」が変わったのに、住民の一人一人に許可をとったのか、全然、そういった話になっていない。原発が危険であることが分かりました。普通に考えれば、前提が変わったのだから、じゃあ、住民が原発を動かすのをやめてください、と言ったら、やめなければならない、ということであろう。原子力規制委員会は、

  • 危険だけど動かさせて下さい

と言っているにすぎない。危ないけど、動かしたいので動かさせてくれ、と言っているだけなのだ。原発は、ひとたび崩壊すれば、福島第一のようになることが分かりました。そして、それは「避けられない」ということが分かりました。でも、

  • 動かさせてください

と言っているわけである。

  • 恐しいことに、住民が「ただ」で原発再稼働を許せば、国は「安く」原発を動かせる。そうして、いろいろな「有識者」と呼ばれる連中が、なんとかして、国民をだまくらかして、原発を再稼働させようとする。口さきを使って、国民に「いい印象」をもたせて、いろいろなリスクがあることを気付かせないようにしようとする。

そして、「有識者」連中は、このステルス・マーケティング、国民へのマインド・コントロールによって、「国家へのご奉仕」をして、国民に原発の危険を「ただ」で引き受けさせて、彼らの「自己責任」に気付かないうちに引き受けさせるように、口先でだまして、一筆書かせて、その

  • 功績

によって(国民に無料でリスクを引き受けさせて、政府の補償金を最小化させることで)国民に犠牲の全てを引き受けさせることで、国家の税金の最小化をさせることで、国家を「助ける」というわけである。
原子力規制委員会が、なにをやっていようが、関係ない。関係なく、原発再稼働に反対。これ以外の選択肢などありうるであろうか。本気で原発を再稼働するというのなら、その地域の住民に、

  • いくら

補償するのか。今までのように、原発安全神話などないわけであって、それは彼ら自身が認めているのであろう。危険だという、そのリスクがあることが分かっているなら、それでも動かそうとするということは、

  • 相当の補償

をかなりの広域の人たちに行わなかったら「筋が通らない」であろう。
しかし、である。
たとえ、こういった「連中」によって、福島の住民の汗と涙の努力の毎日が、金の猛者たちの餌食となるとしても、たとえそうであったとしても、住民は生きていなかければならない。
生きるのだ!
それは、どういうことか。
よく、「福島の復興」という言葉が使われる。私は、この言葉を聞くたびに、大きな違和感がこみあげてくる。もちろん、それを福島に住んでいる人が言うのは、当然だから、理解できる。ところが、まったく、東京に住んでいて、他人事で、福島でひと儲けしてやろうと、純朴な福島の人をだまくらそうとしているような連中が、軽々しくこういう言葉を口からこぼれているから、怒りがこみあげてくるのだ。
それはどういうことかというと、3・11以降に、福島第一から、ばらまかれた放射性物質が、どのように「半減期」を迎えて、無毒化していくのかの、その「過程」を無視した表現だからだ。
なぜ、放射性物質は「半減期」を迎えて、いずれ、無毒化するのか。それは、

  • エネルギーを放出する

からにすぎない。例えば、3・11直後に非常に心配された、放射性ヨウ素は、半減期が数日であった。じゃあ、それが過ぎれば「安心」という表現は倫理的に許されないのではないか。というのは、そういった短い間に半減期を迎える、ということは、その短い間に、

  • 大量のエネルギーの放射線を浴びた人たちがいた

ということであろう。つまり、放射性物質半減期を迎え無毒化していく過程とは、

  • その間を生きた人たちが「被曝をしてくれた」

期間ということなのだ。つまり、彼らの「被曝」があったから、こうして、放射性物質半減期を迎え、少しずつ無毒化してきた、ということを意味しているにすぎず、つまりは、「復興」とは、

  • 犠牲の屍

の上に築かれた、「幸福」だということである。
原発問題を考えるときに、私には一つの疑問があった。それは、なぜ「大丈夫」か「大丈夫でない」かで考えるのか、というその姿勢について、である。つまり、

  • 「大丈夫」だから、なんなのだ?
  • 「大丈夫じゃない」だから、なんなのだ?

つまり、彼らは結局のところ、何が言いたいのだろう、という疑問であった。大丈夫だったら「幸せ」だとでも言いたのだろうか? 大丈夫じゃなかったら「悲劇」だとでも言いたいのだろうか?
一つ前の記事の最後で、私が、あの本に不満を思ったということは、そういうことである。
それに対して、掲題の本は、本当の意味で、福島に今住んでいる人に、「実践」的な「やる気」をださせてくれるようなことが書いてあるんじゃないのか、と少し思ったわけである。
私は、今、最も重要なことの一つが、「食品の検査体制」だと思っている。なぜか。徹底的に「食品の検査体制」を強化することで、

  • 国民の福島県の食品への「信頼」が回復する

のである。

食物連鎖のやや変わった例も出てきた。2011年7月には、南相馬からの牛肉が汚染されていることが、東京の食肉市場で発見された。原因は、えさとして与えられた稲藁だった。牧草地などに積まれていた稲藁に、降下したセシウムがうっついてしまったのだ。稲藁のセシウムは、岩手、秋田、宮城、栃木、茨城と広い地域でみつかり、それを食べた牛が汚染された。
このときの農水省の対応が、その後の食品への対策を大きく変えることになった。農水省は、牛肉の全頭検査の体制をつくったのである。実は、かつてBSE(狂牛病)への対応にあたり、農水省は、全頭検査をしない限り国民の信頼は得られない、ということを経験していた。
文科省経産省をはじめとして、多くの官庁は、「風評被害」や「個人情報」を楯に、情報開示に消極的だった。
しかしそれでは、消費者は納得しない。牛肉について、原産地・生産者を明らかにし、顔のみえる生産者が品質を保証するという、トレーサビリエィーの仕組みができている。そこで牛肉では全頭検査が行われ、不信感は急速に薄れていった。あとで述べるコメも、全袋検査が鍵であった。全袋検査が行われるようにんったことで、コメへの不安感は一気に消えていく。
現在、作付けや収穫の制限は、野菜6種類、果物11種類、穀類6種類に上る。これについても、結局は全品検査を基本としていくことになる。

上記の引用は非常に重要である。というのは、福島の風評被害に対して、いわば、「農家の人たちの努力」によって、その「風評被害」という「デマ」を、実際に「くつがえせる」という手段を確立し、その「実績」をつくりあげたことを示唆しているからだ。
福島の農家の人たちは、こういう「手段」を経ることによって、

  • 国民の信頼をかち取ることができる

ということを学習したのである。このことは、大きな「自信」になったはずである。結局のところ、どんなに「風評被害」や「デマ」があったとしても、実際にこういった手法を行うことによって、確実に、国民は「信頼」してくれる、ということなのである。もちろん、農家の人も、いろいろな努力をして、その規制の範囲で「努力」する「目標」ができたということなのだから、さまざまな「工夫」のしがいもあるだろうし、結果として、自分が売る商品の品質も確かめられるのだから、誇りも生まれるし、「やりがい」もでてくるであろう。
さて。この本で書かれている、もう一つの、いや、最も重要なポイントが「除染」である。

新聞紙上で、環境省主導の除染で手抜き工事が多いということが問題になった。家を洗って出た新聞紙が垂れ流しになっていたり、集めた落ち葉が川に投げこまれていたりしたという。
だが、この問題の根っこは、個々の作業員が「手抜き」をしているかどうかにあるのではない。そもそも環境省が、ある地点の「空間線量を下げること」を目的としていることが、「放射性物質を環境中から隔離して保管するという除染の基本から外れているのである。
チェルノブイリ甲状腺がんの教訓は、内部被曝を避けることが第一ということである。住民が除染にまずもとめているのも、環境中の放射性セシウムなどを隔離して保管し、住民の口に入らないようにすること、間違っても子どもが食べたりしないようにすることである。
今の政府の方針では、外部被曝しか考えられていない。内部被曝を考えると、ガンマ線よりもアルファ線ベータ線が第一の問題になる。そして口に入ることを何よりも避けなくてはいけない。そのためには、住民と相談し、住民の生活のパターンを考えながらでなくては、有効な除染ができない。
ガンマ線は空気中を60メートル程度飛ぶ。だから、目の前の住宅の1坪を除染しても、効果はほとんど変わらない。それこそ1000坪、60メートル四方を除染して、初めて線量が下がる。コストもかかりゴミも膨大になる一方で、やっている当事者には達成感がもたらされない。
住宅の除染においては、それよりもまず、放射性物質を何ベクレル取り除けたかを重視するほうが効果が高い。ガンマカメラなどのイメージング機器を用いて、どこに放射性物質がたくさんあるかを確かめ、最も高いところから除染すれば、少ないゴミの量で、最も効率よく被曝する可能性を減らしていける。ポイントは、人工の放射性物質の総量をどれだけ減らすかということである。
特に、子どもや住民が触れそうなところを重点的に除染する。遊び場や、上りたがる木があれば、そこが問題になる。家の中に持ちこまれる土ぼこりのもとになる、道路の除染も大事である。家の中の空気からは、放射性のほこりはなるべく減らしたい。
こうしたことが終わったあとで、外部被曝を考えての除染である。住宅で、1日のうちに最も長くいる場所は寝室である。外部被曝の予防に、寝る場所に入ってくる放射線源の除染が大事になる。それには、室内だけでなく、屋根や窓の外、雨樋も含まれる。子どもの外部被曝は学校の教室と、寝室の線量を減らすことがまず大事である。これを徹底することで、ガラスバッジで計測される外部被曝は大きく減る。
そして、こうしたマニュアル的な考えもいいが、実際にはしっかり相談しながら除染を進めるのが大事である。例えば複雑な構造の家が、高い濃度で汚染されていたら、そのまま除染するのはかなり難しい。部材を替える、例えば屋根を替えるとか、そこまでいかなくとも、雨樋を替える、芝生を剥ぐ、ウッドッキを取り除くなど、かなりの交換をしないと線量が下がらない場合も多い。さらに深刻なのは、家のまわりのアスファルトやコンクリートに汚染がしみこんでいる場合である。
このような場合には住民の生活スタイルをかなり知って、住民との相談が優先されるべきである。細かく測定し、有効性が高く、住民にとって切実なところを湯煎させる、それにより本当に意味のある除染ができる。

熱力学の第二法則は、現代物理学のアトキンソンのいうように、「混沌」から「秩序」を生みだす法則である。この法則をうまく使うには、情報がきちんと住民に伝えられることが鍵となる。
一見、除染は不可能である、ということを立証するかにみえた熱力学の第二法則が、放射性物質が環境の中で流されていくメカニズムが明らかになるにつれて、逆に、最小のエネルギーでエントロピーを低下させる手段を教えてくれているのだ。

なぜ、除染が重要か。それは、除染という行為が、「前より後の方がリスクが小さくなる」と確実に言えることだからだ。
私には、除染には意味がないとか、無駄だ、とか言っている連中は

  • 悪魔

だと思っている。むしろ、除染は、なんとしても、成功させなければならない。除染のためなら、いくら使っても許される、と思っているくらいだ。
自然科学者たちは、あらゆる、物理現象の性質を研究して、最も、住民にとって、「効率的」な除染の方法を見つけなければならない。
除染は福島の人にとっての、希望の光だ。除染をすることによって、「昨日より今日、リスクが減る」ということなのだから、昨日より今日の方が「安全」になった、ということである。これを毎日、放射性物質に負けることなく、根気よく続けることで、

  • 少なくとも自分たちが毎日使う、子どもが遊ぶ場所

だけは、少しのセシウムも近づけないくらいに、毎日、徹底的に掃除をすることで、彼らの「リスク」が減る。
福島県の今の姿は、どうしても、映画「風の谷のナウシカ」を思い出さずにはいられない。あの腐海と呼ばれる、汚染の進んだ世界で、ナウシカは希望を捨てず生きている。しかし、それこそが生きるということなのであろう。ナウシカの世界はどこか、私たちのこの地球の未来の姿を予見しているようにも思われる。)
こういった「お互いのリスクを減らすために、みんなで、リスクの高い所を除染して、みんなのリスクを低く保つ」実践が、まさに、生きるということであり、正しき人倫の世界を生きることの意味なのであろう...。