アイと「もこっち」

ラノベ神さまのいない日曜日」は、現在、第8巻まで進み、そのあとがきによれば、次巻で最終回となると予告されている。
しかし、私はこの「あとがき」なる「慣習」が嫌いだ。それは、作者が作品世界を

  • 自分の意図通り

に「読ませよう」という「メタ」の言説だからである。どうして作者は、自らが書いた作品に「ついて」言及せずにいられないのだろうか。もし、作者が、その作品に「ついて」言及せずにいられないとするなら、

  • 作品+「あとがき」

を「一つの作品」と読者は考えるべきだ。そういう意味で、「蛇足」なのだ。こういう蛇足をしたがる作者ほど、「高学歴」で頭が良く見られたそうというのは、どうしたものですかね orz。
いずれにしろ、作者が次巻が最終回だと言うなら、この作品は、

  • 今回で最終回「だった」

のである。お前はすでに死んでいる、である。つまり、すでに、今までで作品は完成していた、と考えなければならない。ということで、私は、

  • この作品の「感想」

を、今ここで、書かせてもらおう。
第1巻においては、この作品は、アイという13歳の少女と、その母親、父親との関係を、彼女が、どのように受け止めるのか、がその主題であった。
それだけに、それ以降の2巻から8巻までの歩みは、どこか「紆余曲折」を感じさせるものであったことはいなめない。
作品が始まった時点で、アイの母親はいない。8歳で亡くなり、その母親の埋葬の墓守をしたのはアイ自身であったし、第1巻でアイの父親も、アイが埋葬の墓守をすることで亡くなる。
それでも、アイが「生きていく」といったとき、では、「なぜアイは生きるのか」が、よく分からなくなったのである。
アイを13歳まで育ててくれた村の人たちは、「全員」死人であったし、第1巻で、アイは彼ら全員を埋葬の墓守をした。つまり、彼女は、第1巻の最後において、

  • 一切

の「知人」を失った。「みんな」を墓に埋めたところで、第1巻は終わった。
その後のこの作品は、上記のアポリアに最後まで、悩まされ続けたのではないか、という印象が強い。

  • アイは何を求めて生きているのか?
  • アイは何がしたくて生きているのか?
  • アイはなんのために生きているのか?

この作品は、その命題に何か答えを与えられたのだろうか。私には、非常に疑問に感じる。つまり、アイを「なにもの」として描きたかったのかが、まったく見えてこないのだ。

  • アイは何をしているときが楽しいのか?
  • アイは何に関心をもって毎日を生きているのか?
  • アイはどんなことに昨日より今日の方がいい日になったと思っているのか?

しかし、もっと言ってしまうと、そもそも

  • なんでアイは「その答え」を見つけて「いなければならない」のか?

アイはまだ、13歳の子どもではないか。いろいろと、試行錯誤して、悩んでぶつかって、世の中の仕組みをいろいろ学んでいく時期なのではないか。それなのに、作品は、なんとしても、彼女自身にその答えを

  • 語らせたがる
  • 悟らせたがる

しかしそれは、どこか「大人の事情」なんじゃないだろうか。
しかしながら、最新刊において、アイは、それまで自分が目標としてきた、「世界を救う」という願いを「あきらめている」。
なぜなら、すでに世界は「救われてしまっている」ことを彼女が知ったから。もっと言えば、彼女には世界を救えないことを知ったから。彼女は「悟ってしまった」から、「あきらめた」のである。
しかし、そんな彼女の前に、「魔女の娘」があらわれる。その娘は、なんと「世界を救う能力をもっている」。つまり、アイが「あきらめた」世界の救済を、その娘は実現できるのである。
「魔女の娘」とは、言わば、ゲームにおけるラスボスである。最終兵器である。彼女は「あらゆる」人間の夢をかなえる。アイが無理だとあきらめた「全て」の「世界を救う」能力をもつ。つまり、この「魔女の娘」は、アイが昔、その「魔女の娘」と同じ「世界を救いたいという夢」を持っていたことを知っているから、アイを慕い、アイになついてくるわけである。

「ね、アイの願いってなに?」
ついに来たか、と思った。
来るべき質問が来たのだ。
アイはうっすらと瞳を開けた。
「私の願いですか?」
「うん」
蒲団の下をもぞもぞと泳いで、ナインがひょっこりと顔を出してくる。
「まだ、アイには聞いてなかったでしょ? だから、言って。あなたの願いを。なにがいい? お父さんを蘇らせる?」
まるで生まれたての悪魔のような笑顔だった。
「それともお母さん? 村の人たち? あ、全員でもいいよ」
「......まってください」
そもそもなぜ、そんなことを知っているのか? そう聞こうとして、止めた。アイはもう、この小さな生き物を、”そういうもの”として受け入れ始めていた。
まなじりすら動かずに、アイは聞いた。
「......願ったら。どうなるのですか」
「全部かなうよ」
簡単に言ってくれる。
「願えば、かなる......」
「そう。だから言って、アイ。あなたは何を願うの?」
「......」
再び目を閉じて、アイは心の奥底に聞いてみた。自分はなにを、願うのか。
------記憶の中で父が嗤っている。
その手で頭を撫でられたなら、どれだけ心は救われるだろう。
------記憶の中で母が笑っている。
その声で名前を呼ばれたら、どれだけ魂は安らぐだろう。
過ぎ去ってしまった幸福な日々を、アイは思った。二度とは覆せないと思っていた古傷の数々が胸の億でうずいた。
「アイ?」
「.........」
「わ、わ! アイ。どうしたの! なんで泣いてるの!?」
「泣いてないか、いませんよ......」
事実だった。アイは一滴たりとも涙を零してなんかいない。

「魔女の娘」は、究極のラスボスである。彼女はすべての人のすべての望みを叶えることができる。もちろん、アイが自分でお墓に埋めた、父親と母親、そして、彼女を幼少の頃から育ててくれた、田舎の村の人々

  • 全員を生き返らせる

ことができる。今まで、死んだ、すべての人を生き返らせることができる。
ここで、上記の引用個所は非常に重要である。なぜなら、これはアイの「夢」だからだ。アイは「世界を救いたい」と言った。ということは、その中に自分が含まれているはずである。だとするなら、アイは

  • アイ自身の夢を叶えなければならない

ということなのである。ここに皮肉がある。アイは「世界を救う」ことを、あきらめた。それは、無理であることを理解したから、あきらめた。ところが、アイがあきらめた途端に、アイの前に、「魔女の娘」という、「アイがあきらめた夢を叶えることが可能」な存在があらわれる。
もちろん、それは偶然ではない。「魔女の娘」がなぜ、アイの前にあらわれたのか。それは、アイが「自分の夢をあきらめた」からである。だから、「魔女の娘」はアイの前にあらわれた。
ここは、大事なポイントである。もしアイの「夢」がかなったなら、それは「魔女の娘」が今行っているような、死者を生者に変えるだけでなく、過去の人を再び生者にすることでもあるし、だれも死なない不老不死の世界でもあるし、昔のように子どもを産める世界でもあるし、そういった

  • アイの夢の世界

が実現したとするなら、こういう世界なのか? ということなのである。
よく考えてください。
このことは、一つの比喩でもあるわけです。例えば、福島第一事故によって、福島県は、多くの放射性物質が舞い降りて、今も高線量の地帯を多く抱えている大変な事態が続いています。
この場合、アイの言う「世界を救う」とは、何を意味しているのでしょうか?

ということでしょうか。

ということでしょうか。

  • 絶対に事故が起きない原発を作る

ということでしょうか。

ということでしょうか。

  • 無限のエネルギーを安全に生みだす「錬金術」を開発する

ということでしょうか。

  • 福島県の人全員が癌にかからない

ということでしょうか。

  • 福島県民の過去の死者が全員よみがえって不老不死になる

ということでしょうか。
よく言われたのは、3・11以降、専門家が大衆の「バッシング」が嫌で、公の場で、発言を控えた、ということでした。つまり、専門家が「安全」を強調すると、大衆にバッシングをされるので、なにかを言ったら、その後、苦労するから、何も言わない方が得策だ、と考えた、というわけである。
そこから、なんとか専門家の方々に活躍してもらう必要があった、ポピュリズムのバッシングが過激になって、専門家の知見が活用できなかったのは、無益であった、と。
これは、ようするに「専門家なら大衆を救えた」「その専門家の<能力>をバッシングによって有効に使うことのできなかった大衆は無能だ」というわけで、一種の

  • アイ流「世界を救う」系

の発想なんですよね。
専門家というのは、裕福な家庭に生まれて、なに不自由することなく、義務教育過程を充実した教育を受けられて、お医者さんのような

  • (他の大衆とは比べものにならない)たくさんの給料

を稼ぐ職業について、都会に大きな家を建てて、セレブな生活のできる、なに不自由のない生活をしていて、そこそこ、儲かってもいる。

  • そんなインテリジェントな才能のあるセレブな人たちの能力を生かせない無能な大衆の「愚かさ」は根深い

と言っているわけであろう。これが「アイ流世界を救う」である。セレブな裕福なリア充が、

  • 貧乏人のために「やってあげる」

というわけである。そう思ったけど、貧乏人の嫉妬がウザいから、やる気がなくなった。俺のような「才能」にあふれた人材を使いこなせない大衆社会にあきれはてて、もう関わりたくねー、というわけである orz。
私はこの「神ない」を見ていて、根本的な疑問は「どうしてアイの迷いは<答え>に辿り着かなきゃいけないのか」というものに尽きる。とにかく、アイを、悟りすました、もう何百年も生きた「仙人」のような姿で描きたがる、作者が私には気持ち悪いわけである。
こういった私の疑問に、作品で「答え」を返してくれている作品はないかなと思ったとき、間違いなく、その一つの候補は、アニメ「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!」の主人公の「もこっち」ではないだろうか。
もこっちは、クラスで友達もできないし、相手にもされない。本当に、まったく、相手にされない。ここまで無視されるのか、というくらいに無視される。
もこっちは、クラスの奴らに、ぜんぜん言い返せない。ばかにされても、笑われても、下を向いて、ぼそぼそ相手に聞こえないような、か細い声で、もにょることしかできない。
でも、どうだろう?
私には「優等生」のアイの何倍も、もこっちは「人間らしい」と思うのである。
もこっちは、本当はクラスのみんなと仲良くしたい。リア充の仲間に入りたい。でも、相手にされないから、心の中では、嫉妬をしている。冷たくあしらわれるたびに、心の中では、どす黒い悪態をついている。

  • 人間らしいではないか!

もこっちの「嫉妬」や「自己中」は、たとえそれが醜いものだとしても、彼女自身があがいているし、なにより向上しようとしている。そういう意味で、前向きに生きようとしている。
想像してみようではないか。もこっちの役をアイにやらせるのである。アイに教室のすみっこで、いつも窓の外を見ていて、クラスのだれからも相手にされていない。夏休みのずっと、部屋にこもって、横になって寝ている。
一見すると、あまりにもグロテスクに思うかもしれないが、私には、

  • こっちの「アイ」の方が「ずっと」「何倍も」幸せそうに見える

わけである。
もこっちとは、私たちなのだ!
アイは「世界を救う」だとか、そんなリア充仲間でしか通じないジャーゴンでしゃべってるんじゃなくて、アイの目の前にいる「もこっち」と、たんに友達になってやればいい。
もこっちは「グローバル・スタンダード」だ。本当は、東京オリンピックを象徴するのはアイのような優等生よりも、もこっちの方がふさわしいはずなのだ(なぜなら、もこっちの姿は間違いなく、世界中にいる「もこっち」の姿だから)。しかし、間違いなく、東京オリンピックは、アイが代表するような「世界を救う」系の富裕層のリア充たちによってアイコン化され、消費されるのだろう...。
(私の上記の問題についての私なりの回答は、だいたい予測がつくであろう。アイが「魔女の娘」に、アイの父親、母親、村の人全員をよみがえらせてもらって、アイに日本の高校に通わせる。そこで、アイをコミュ障っぽい「もこっち」状態にする。高校に通うんだけど、友達もできない。毎日、リア充を心の中では馬鹿にしている。ドロドロしたものをもっている。おそらく、そうなったアイは、ずっと「充実」した「人間らしい」彼女の姿を見れるんじゃないかと思うし、私は、そういう「最終回」が見たいのだが、まあ、間違っても、そんな展開にはならないでしょうから、心配するだけ無駄ってものですが orz)。