信仰と近代法

例えば、キリスト教における「信仰」と、近代法の、最も決定的な違いはどこにあると言えるだろうか。

棄教を迫られたとき、神を否定することは重罪である。表向き棄教するだけでも、心から棄教する者と同罪である。迫害の短い苦しみの中で、快く殉教を受け入れることが必要だった。

殉教 日本人は何を信仰したか (光文社新書)

殉教 日本人は何を信仰したか (光文社新書)

ここで、「表向き棄教するだけでも、心から棄教する者と同罪である」としている所が、私はポイントだと思っている。
近代法においては、そもそも罪とは、犯罪を取り締る警察や裁判官といったような

  • 刑罰システム

との相互作用によって、必要十分になっている。つまり、警察や裁判官との関係に対応してしか、「犯罪」というものを定義していない。つまり、その行為が罪であると言うことには、それに「対応」して、警察や裁判官による「犯罪」に対応した「刑罰システム」の実行過程が発動している、ということと同義に考えられる。
つまり、このことを逆に言えば、「刑罰システム」が稼働していない限り、それを「罪」として扱っていない、というざっくばらんな関係になっている、ということである。
他方において、「表向き棄教するだけでも、心から棄教する者と同罪である」というのは、いわば、各信者のプライベートな行動、内面の心理状態と、

を一対一に対応させている、わけである。言わば、

な、メタ・レベルの「行動」というのを「認めていない」ということである。
例えば、ある信者が「神を馬鹿にする」行為を、「ためし」にやってみた、とする。その信者にしてみれば、それは「嘘」の行為なのであって、俳優がドラマでその役を演じるように行動してみた(思考実験してみた)ということなのであって、全然マジじゃないんだ、と言い訳をするであろう。
しかし、キリスト教においては、その二つを区別しない。だって、「本当に神がいて、ばちがあたるのか、確かめてやろうと、人を何人か殺してみました」と言われても、それこそ「神を試す」行為であって、どうせ「神」なんて、俺の考えていることも分からないで、適当に罪だとか言っているんだろう、と考えているということなのだから、それこそ信仰がない、ということなのだから。
つまり、キリスト教における「罪」というのは、徹底して「倫理」的な位相において定められているわけである。ある信者が、ある行動をする。人を殺したり、盗みをしたり、嘘を言ったり、そして、神を裏切ったり。そうした場合に、

  • でも本当はそうじゃないんだ

と言い訳をしたくなるであろう。これは自分の本意ではないんだ。本気をこういうことをやりたいと思ってやったわけではないんだ。ちょっと試してみた、というか、とにかく、自分が「覚悟を決めて意図してやった行動ではない」、だから、自分には罪がない、と。
「表向き」と「心から」を区別しない、というのは、そういうことなのであろう。
そういう意味では、信仰というのは「他人」には分からない。イエス・キリストに仕えていたユダが、イエスを裏切ったとき、私たちはその「罪」を近代法のような意味で「これは罪だ」、と言えるから罪なんだ、と考えてはならない。もしかしたら、そもそもその罪は、他人には証明できないかもしれない。しかし、たとえそうだとしても、信仰者であるなら、本人にはそれが罪だと分かるだろうし、そもそも、神はそれを罪と言うわけである。
キリスト教における「罪」は、そういう意味で、徹底して「内面」なのであろう。私たちは他人が何を考えているのか分からない。そういう意味で、何が真実なのか分からない。しかし、自分が産まれてから今に至るまで、どう考え、それをどう蓄積してきたのかの、一連の経験の系列が「何」なのかは、実感として自分の内面にあると思っている。そして、それを

  • パブリック

なものにする作業が「告白」ということになるのであろう。教会において、信者は牧師に、自らの罪を語る。その罪は、近代法の意味では、こうして本人が「自白」をしなければ、存在しえなかったものかもしれない。しかし、信仰においては、信仰を「生きる」という意味においては、この罪は、

において、「逃げられない」形の深い繋がりにある、ということである。
前回書いた「切腹」と「殉教」をつなぐ、興味深い話がある。

加兵衛は家康と非常に親しく、また戦いにおいては非常に勇敢であった。弾圧が始まる二ヶ月前、加兵衛は、八歳の長男とほかの数人の武士と洗礼を受けた。しかし、追放の処罰を受けたとき、身内の者に説得され、俸禄を保つために信仰を捨てることを表明した。おそらくは自分の地位を守るというより、家を存続させようとしたのだろう。
役人たちは、このことを家康に告げれば加兵衛は大いに褒められるろうと考え、家康に報告した。すると、意外にも家康は、加兵衛を「臆病で卑怯な者」だとした。こうして加兵衛は信仰も俸禄も失い、名声も絶えて人前に姿を見せることもできなくなった。
俸禄を保つため、あるいは命が惜しいために自分の考えを曲げるような者は、武士の風上にも置けない者だというのである。家康自身が信仰を捨てるよう命じておきながら、周囲の説得に応じて信仰を棄てた者を非難したことは、キリスト教の信仰においても武士の倫理が無縁ではなかったことを示している。
ある肥後国の主立った裕福な武士は、友人の勧告に対し、「私は一度得た教えを、理由はどうあれ棄てるような人間ではない。そうした争いになら、喜んで家財をも生命をも犠牲にしよう」と答えている。
こう考えてくると、キリシタンになった武士に対しては、いかなる説得も脅しも無意味だったことがわかる。彼らにとって信仰を棄てることは、武士を棄てることとほぼ同義だったからである。
先に見た権之丞が弟にノヴァエスパーニャ行きを止めたように、キリシタンとしての行動にも通常の武士社会の世間の目が考慮されているのである。キリスト教を禁じた家康でさえ、心の中では武士ならばどんな苦難にあっても信仰を守り通すべきと考えていた。だからこそ家康は、武士としては立派な彼らを殺すことには忍びず、追放するけで許したのろう。
殉教 日本人は何を信仰したか (光文社新書)

家康は自分で、キリシタンに対して「棄教しろ」と命令しておきながら、いざ棄教した信者に対して、「棄教するとはなにごとだ」と、武士の風上にもおけん、と俸禄をとりあげる。
いわゆる「ダブル・バインド」である。
このことは、私たちの日常においては、よくあることだが、近代法においては、許されない規律なのかもしれない。
このように考えてくると、家康は本当に「棄教しろ」と命令しているのか、という問題になってくるのかもしれない。ここで家康がこだわっているのは、近代法のような「ルール」の適用ではなく、

  • 信仰

の問題だと考えるべきなのであろう。信仰は結局のところは、その個人の「内面」の話であって、究極的には他人には分からない。分からないが、「表向き」と「心から」を区別しない、と考えるなら、あからさまに、外向きを「矛盾」に生きる人間は、たんに信用されないし、信仰もないのだろう、ということなわけである。
武士とは「例外状況」を生きた人たちである。そこにおいては、近代法という「ルール」を守ったからといって、戦争に勝つわけではない。家康は、たんに戦争に勝ったから、天下を統一できたにすぎず、一歩間違っていたら、自分が敗者の側にいたことを、十分に理解しているわけである。常時戦場と考える武士にとって、信仰とは、家康の側につき、関ヶ原を最後まで家康の側で戦う、ということだと分かるであろう。そういう意味で、彼は「家」の存続のために、主義主張や自分の信仰先をコロコロと変えた人間が、たんに嫌いだったのであろう...。