貧困と思想

いつの頃からは、人々は貧困、つまり、自らが「飢えて死ぬ」ということを考えなくなった。それは、日本の高度経済成長の「成果」なのか、私には分からない。しかし、そもそも貧困について考えない思想など、いらないのではないかとさえ、言いたくなる。
人類の歴史は、多くの「飢えて死んだ」人の歴史だ。多くの屍(しかばね)を重ね、今の私たちがいるのであって、そういった過去の人たちを無視して自分が今、いると考えることは傲慢であろう。
私たちは、いつ、どんな理由であっても、「飢えて死ぬ」最後に辿り着く可能性を生きている。
どこの家でも、親は子供が飢えないように必死に生きている。彼らに食事をさせるために。だとするなら、私たちは、この問題をもう少し、本気で考える必要があるのではないか。
戦前の柔道界の英雄、木村政彦は、軍に入隊し、部隊の隊長たちの傍若無人を経験した後、中途で、体調不良などの理由で、故郷の熊本にひきこもる。そして、その場で、戦後を迎える。彼ほどの英雄でも、戦後すぐは、なにもない、家族も養えない、混乱し、貧しい時期である。

だが、木村の石炭事業とは、極道すれすれの押し売りのようなものだった。
トラックの荷台に石炭を満載して四人で鉄工所や銭湯をまわる。
そして相手がOKと言わなくとも勝手に石炭貯蔵室に石炭をどんどん押し込むのだ。一週間くらいたった頃に木村が代金を取りに行く。相手が嫌がっても木村怖さに払うという算段だ。しかし相手が衆を頼んでくることもある。そういうときはしかたなく腕力沙汰となった。食うのにみな必死だった。木村も家族を食わせるために必死になっていた。

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

私たちは食べていかなければならない。家族を養わなければならない。なんとしても、食べさせていかなければならない。
しかし、それはどんな「知性」によって可能になるのか。

ただ、重要なのは、柳田がそれをたんに輸入したのではなく、同様の試みを日本や中国の近代以前の社会に見ようとしたことである。その中でも重要なのは、「三倉」、すなわち、義倉、社倉、常平倉である。これらは中国で、飢饉に備えた救恤策として産まれた。常平倉は飢饉の際に、国家が買い上げて、穀物の価格を一定に保つようにするやり方である。義倉は、国家が飢饉に備えて貯穀するものであり、社倉は、それを公共団体が行うものである。この中で柳田が重視したのは、社倉である。社倉は、義倉や常平倉のように国家あるいは地方行政にもとづくものではなく、自治的な相互扶助システムである。それは、協同組合・信用組合の原型である。
柳田はつぎのようにいう。《あるいは諸君には維新前には全然信用組合的の機関を欠いて、よく小市街や村落にあれだけまでの経済を発達させて行ったものだというお考えがあるかも知れまえんが、それに代るべき制度としては、保護と服従との聯絡は不完全ながらも必要を充たすだけの程度には付いていたのであります。現在の組合に代わべき制度というものはとにかく昔にも存在しておったのであります》(『時代ト農政』)。このように、柳田の農政学は舶来の制度や理論を説くことではなく、むしろ、従来った労働組織(ユイ)や金融組織(頼母子講)に、新たな意義を与えることであった。その意味で、彼の農政学は最初から、史学的・民俗学的であった。
先に述べたように、柳田農政学を研究し農商務省に入った動機は、飢饉を絶滅しちということである。柳田が早くから「社倉」について考えたのも、そのためであった。飢饉の記憶は柳田の脳裏を離れなかった。たとえば、彼は法制局で特赦選考のために調査していたとき、次のような事件を知って深い感銘を受けた、という。
かつて非常な飢饉の年に、西美濃の山の中で炭を焼く男が、子供二人を、まさかりできり殺したことがあった。子供は一二、三歳になる男の子と女の子であった。男は里に行っても、炭が売れず一合の米も手に入らない。最後の日にも手ぶらで、帰ってきて、飢えきっている子供の顔を見るのがつらくて、小屋の奥へ行って昼寝をしてしまった。

眼がさめてみると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りの処にしゃがんで、(中略)一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨いていた。阿爺(おとう)、これでわたしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢に入れられた。
(「山に埋もれたる人生ある事」)

これは飢饉によって起こった事件である。しかし、このような事件が起こるのは、飢えた者らが絶望的に孤立しているかだ。柳田の前にはいつも「貧しい農村」という現実があり、それを解決することが彼の終生の課題であった。が、彼にとって、「貧しさ」はたんに物質的なものではなかった。農村の貧しさ、むしろ、人と人の関係の貧しさにある。それを豊かにするには、どうすればよいのか。柳田が協同組合について考えたのは、そのためである。
柄谷行人「遊動論----山人と柳田国男」)

文学界 2013年 10月号 [雑誌]

文学界 2013年 10月号 [雑誌]

グローバリズムとは一種の「ロマンティシズム」である。それは、

  • 一人で生きられる

という「幻想」である。一人で生きられるという観念は、一人で食糧を確保できる、という「リア充」幻想であり、一人で食糧を確保できない「コミュ力」のない奴は死ねばいい、という「非倫理性」である。
そもそも、そんなことは不可能なのだ。
私たちが飢えて死なない手段は、私たちが飢えて死なない関係性を目指すこと以外にありえない。その場合、私たちに問われているのは、

  • 一人で生きられない人は「死んでもしょうがない」

という「ロマンティシズム」を捨てることなんじゃないか。つまり、グローバリズムは、そもそものその「動機」が問われているわけである。なんとしてでも、「飢えて死なせない」という「動機」と、グローバリズムは、どういう関係にあるのか。飢えて死なせない社会を目指すことと、グローバリズムをロマンティックに(=マッチョに)礼賛することには、どういう関係があるのか。
しかし、である。「飢えて死なない」社会を、本当の意味で目指すことは、どのような形によって可能なのだろうか。というか、そもそも、私たちは、そういったことを目指して生きているのだろうか。他人を蹴落して、自分一人で、儲けを独り占めしたいと行動しているのではないか。それは、イコール、自分との競争に負けた相手を、

  • 飢えて死なせる

ための行動だとも言えないだろうか。上記の柳田国男が感心したという逸話は、グローバリズムから言えば、男が売る炭をだれも買ってくれなかったという「普通に起こりうる事実」に関係している。つまり、だれでもが飢えて死ぬ可能性がある、ということを示しているにすぎない。
私が疑わしいのは、この関係をなんとか釣り合わせられる「均衡点」が存在するというロマンティシズムなのだ。だとするなら、私たちの

  • 知性

が考えるべきは、このグローバリズム関係と距離をとって、「飢えて死なない」社会の存在可能性について考察することではないのか...。