ハンナ・アレント『人間の条件』

なぜ、ハンナ・アレントが重要なのか。それは、彼女が、ユダヤ人として、ナチス・ドイツであり、「全体主義」であり、「大衆社会」を考えたから、と言うことができる。
つまり、ある意味で、彼女が「戦後世界」の枠組みを作ったのである。
つまり、どういうことか。
よく、宮台さんが「悲劇の共有」という言葉を使う。ナチスによるユダヤ人の民族浄化は、戦後、繰り返すことの許されない絶対的な「悪」の規範となった。つまり、

は、あらゆることに優先して、まず、回避されなければならない命題となった。つまり、戦後社会とは、なんとかして、全体主義を避けるには、どうしたらいいのかを主題として、営まれた実践だったわけである。
では、なぜ全体主義が、そこまでの現代的な意味をもつのか。まず、確認しておかなければならないことは、全体主義とは、「現代」の問題だということである。つまり、全体主義は、

がもたらす、必然的結果なのである。全体主義とは、大衆が、(ヒットラーを代表とする)独裁者などの人が、ある人たちを

  • 奴隷

として扱うことを、「喝采」をもって、礼賛する社会のことである。つまり、全体主義は、「大衆社会」が「求める」のである。
どうして、こんなことが起きるのか。
それは、大衆社会が、大衆の欲望と離しては、存在できないからだ。
例えば、それは、現代の日本における、在特会の活動にあらわれている。在特会が、在日朝鮮社会に対し、差別発言を繰り返すとき、重要なことは、時の政権が、まったく、その行動に介入しない、ということである。
つまり、「政治」システムが、まったく、機能しない、ということである。
この政治の驚くべき、機能停止に対して、当然のことながら、地方裁判所による人種差別という「違憲」判断が下された。
しかし、私たちが驚くべきことは、「政治」がまったくもって、この事態を
、静観したことである。
つまり、現政権は、人種差別に対して、「黙認」していた、ということになる。
では、なぜ、現政権はそうなったのか。それは、

  • 彼ら在特会が、現政権の強力な「支持」団体だから

ということになる。つまり、大衆政治は、「人種差別」集団の「支持」を集めてでも、なんとかして、選挙に勝とうとする。これが、「大衆社会」である。
大衆は、自らが大衆であるがゆえに、大衆の「奴隷」化を求める。それは、どういった理屈によって主張されるのか。彼らは、自らの「鬱屈」の

  • 対価

を、社会の中に探す。自分が不遇であるのは、どこかに優遇される資格のない、優遇者がいるからに違いない、と考える。そこから、自らの「不遇」が、そういった存在がいることの「証明」になる、と考える。彼らは、

  • 自分を他の大衆に比して優遇しろ

と言わない。なぜなら、それは、「自らを大衆から区別しろ」ということを意味するから。しかし、そう言わないかわりに、

  • 優遇される資格のない優遇者の「特権」を剥奪しろ

と主張する。つまり、ナチス

  • ユダヤ人の「権利」は、「特権」なのだから、奪うし、そのことは、大衆も後押ししている

として、大衆を煽り、正当化したわけである(この延長上に、ユダヤ人のすべての権利の「剥奪」としての「奴隷」化、そして、さらにその延長上に、「奴隷」としての生殺与奪の「自由」としての、アウシュビッツ民族浄化がある)。
だとすれば、どういうことになるか?
その反省をふまえた、戦後の、市民社会は、まずもって、そのシステム内部に、この大衆社会が、「全体主義」化に芋づる式に、なだれこまないための、さまざまな

  • 仕組み

をビルトインすることが、まずもって、なによりも、必要とされ、そのシステムの構築に急いだのである。
こういった意味において、私たちは、ある「勘違い」をしている、と言わざるをえない。
それは、民主主義というのが、なにか積極的な内容があるものなのかを議論することには、なんの意味もない、ことである。
それは、民主主義が不要だとかそういうことではなくて、私たちが民主主義と言うことによって、

  • 何を意味しているのか?

ということなのである。民主主義を「積極的な意味」において考えて、こんなものは危険なポピュリズムであり、不要であると言うことを、いっぱしの大人が真顔で言っているのを見ると、こいつ、頭が狂っているんじゃないのか、と思わざるをえない。
つまり、民主主義なんてものは最初からないのである。じゃあ、何があるのか?

である。あるのは、これだけである。つまり、最も重要なことは、これであって、これが成立しているから「始めて」、民主主義は必要か不要か、なんていう牧歌的なこともつぶやけるのである。
民主主義とは何か?
民主主義とは、

ということである。これが「定義」である。それ以上でも、それ以下でもない。
さて。
では、現代における、必然的結果としての、大衆社会でありながら、それを全体社会に陥らせないための、さまざまな、「からくり」とは、どのようなものであると、構想すればいいのか。
ここでは、アレントが、どのように「人間の条件」を考えていたのか、という線に沿って考えていく。

活動 action とか、物るいは事柄の介入なしに直接人と人との間で行なわれる唯一の活動力であり、多数性という人間の条件、すなわち、地球上に生き世界に住むのが一人の人間 man ではなく、多数の人間 men であるという事実に対応している。たしかに、人間の条件のすべての側面が多少とも政治に係わってはいる。しかしこの多数性こそ、全政治生活の条件であり、その必要条件であるばかりか、最大の条件である。

もし、人間というものが、同じモデルを再現なく繰り返してできる再生産物にすぎず、その本性と本質はすべて同一で、他の物の本性や本質と同じように予見可能なものであるとするなら、どうだろう。その場合、活動は不必要な贅沢であり、行動(ビヘイビア)の一般法則を破る決まぐれな介入にすぎないだろう。多数性が人間活動の条件であるというのは、私たちが人間であるという点ですべて同一でありながら、だれ一人として、過去に生きた他人、現に生きている他人、将来生きるであろう他人と、けっして同一ではないからである。

アレントにとって、重要なことは、ここにある「多様性」である。つまり、この多様性を満さない、あらゆる「主張」は、全体主義であり、ファシズムである、ということになる。人種差別は、人種ゆえに「差別」すること(=相手を奴隷にすること)が正当化される、と考えることを意味し、つまり、「多様性」の拒否を意味するため、アレントの政治思想からは、絶対に容認されない。
つまり、戦後政治は、「なんとしても」多様性を保持しなければならない。多様でなければ、「間違っている」のである!
しかし、である。
一体、どのような状態にあることが、多様性の「担保」となるのであろうか。この問題を、アレントは、一見すると、二つのあい矛盾するように思われる概念によって、定式化する。

  • パブリックであること(=奴隷として扱わないこと)
  • プライベートであること(=自由な存在として扱うこと)

さて。なぜ、人間の条件として、「パブリック」であることが求められるのか。それは、私たちが

  • 他人を「奴隷」として扱わない

ためである。

たとえば、奴隷であることが呪われたのは、奴隷がただ、自由と可視性を奪われていたからだけではない。むしろ、奴隷は「無名状態にあるために、自分たちが存在していたという痕跡をなに一つ残すことなく去らなければならない」ことを恐れた。奴隷状態が呪われたのは、これら無名の人びと自身のこのような恐怖にもあったのである。

私たちが、どのようであることが、私たちが他人を奴隷として扱っていない、ということを証明するか。それは、奴隷が

  • だれからも見えない

存在として、闇やら闇に葬られる存在である、ということを意味している。アウシュビッツ収容所の最も重大な特徴は、だれも、この中で、何が行われているのかを知らなかった、ということである。つまり、ユダヤ人たちは、この収容所の中に、「隠される」ことによって、

  • 無名の存在

とされることによって、だれからも知られない間に、民族浄化させられたのであって、これは、現代社会における、「シカト」という最も一般的な「いじめ」の方法と対応している。
古代ギリシアにおいて、パブリック、つまり、市民であるということは、例えば、オリンピック競技で、「卓越」して、勝者になることであったりと、つまり、「誉れ」ある存在として、市民全体から、「見られる」、認知されていることを意味したが、このことは、上記の「隠されている」奴隷の存在形態に、対立して対応していると考えられる。
つまり、私たちは、現代社会に生きる存在として、人々を、「奴隷」として扱わないためには、彼らを「見なければならない」のである。つまり、彼らの「多様性」を、それそのものとして、肯定しなければならない。
こういった態度を拒否する、あらゆるエリート主義者(=大衆を、無名の「どうでもいい」「くだらない」「あってもなくても関係ない」「邪魔な」存在と考える連中)は、そのこと自体において、人間の「多様性」という条件を拒否する、「全体主義者」であると定義できるであろう。
しかし、他方において、なぜ奴隷は、奴隷と呼ばれるのかを考えると、つまりは、

  • 自由を所有していない

ということになる。つまり、奴隷は、「私的所有」をしていない、だから、自由でない、とも言えるのである。

しかし、ひるがえって、奴隷のように、自分自身の私的な場所をもたないことは、もはや人間でないことを意味したのである。

奴隷がなぜ、問題なのか。それは、奴隷が「プライベート」をもっていないから、である。

私生活の第二の顕著な非欠如的特徴は次の点でる。すなわち、私有財産の四つの壁は、共通の公的世界から身を隠すのに頼れる唯一の場所である。実際、私有財産は、共通世界で行なわれる一切の事柄から身を隠すだけでなく、公に見られたい、聞かれたりすることから身を隠すための唯一の場所である。すべて他人のいる公的な場所で送られる生活は、よくいうように、浅薄なものになる。こういう生活は、たしかに、他人から見られ、聞かれるという長所をもっている。しかし、非常に現実的かつ客観的意味で生活の深さを失うまいとすれば、ある暗い場所を隠したままにしておかなければならない。ところが、完全に公的な場所で送られる生活は、このような暗い場所から人目に触れる場所で現われたというふうには見えない。公示の光から隠しておく必要のあるものに暗闇を保証する唯一の効果的方法は、私有財産であり、身を隠すべく私的に所有された場所である。

このことは、非常に重要である。私たちは、最初に言ったように、一方において、人々を「パブリック」な存在として扱わなければならない、ということを確認した。しかし、他方において、私たちは、私たちそれぞれを、「プライベート」な対象として、接しなければならない、と言うのだ。
プライベートとは、どういうことか。それは、相手を、

  • むきだしの「本当」

として、見てはならない、ということである。つまり、必ず、相手を

  • 仮の姿

として「しか」、扱ってはならない、ということなのだ。私たちは「なんとしても」相手をそのような「仮面」として扱わなければならない。つまり、どんな手段を使ってでも、そうしなければならない。これが、現代社会の「福祉」を正当化する理由であることが分かるであろう。
私たちは、あらゆる人の「プライベート」を守らなければならない。そして、その唯一の手段が、「私的所有」である。つまり、どんな人にも、最低限の所得がなければ、この理念は実現できないのだ。だとするなら、国家が無理矢理でも、貧乏人にお金を握らせてでも、この理念を実現しなければならない。
しかし、それは、貧乏人の「たんに食べて寝る」といった、生命を維持させるため「だけ」に行うのでないのである(それだったら、家畜も奴隷も許される、となる)。つまり、たんに「それだけ」では、不十分なのである。彼らの「私的所有」を行わせることが、彼らの

  • プライベート

を実現するから、だから、彼らを私たちは「奴隷」として扱っていない、ということを証明するから、なのである。
さて。もう一度、アレントの構想を整理しておこう。

  1. 大衆社会は、必然的に全体主義(=大衆による大衆の奴隷化)を引き寄せる(それは、20世紀のファシズムが証明している)。
  2. よって、大衆社会でありながら、全体主義をまぬがれるための、「<方法>としての政治」が、戦後の最も重要な課題となった(悲劇の共有として、受け入れたれた)。
  3. この場合に、アレントが最も重要視することが、人々の「多様性」(人々を多様な存在として扱うこと)である。
  4. その「多様性」を実現するために、私たちは人々を「パブリック」な存在として扱わなければならない。
  5. 他方において、私たちは人々を「プライベート」をもった存在としても扱わなければならない。
  6. つまり、アレントの政治構想は、この一見矛盾した、「パブリック」と「プライベート」の二つを「内包」したものとして構想されなければならない、ということを意味する。つまり、どちらかを軽視し、どちらかを廃棄した、「あらゆる」政治構想は、たとえどんなに耳ざわりのいい言葉が並ぼうが「全体主義」として廃棄されなければならない。

近代政治システムは、いわば、こういったアレントが、引いた線の延長で考えられている。また、こういった、アレントの問題意識は、非常に「方法」的であることに注意がいる。
例えば、利益相反という言葉がある。なぜ、この概念が重要かといえば、ある判断において、もしもステークホルダーにのみ、決定権が与えられていた場合、その「多様性」が「担保」されないからだ。つまり、これは「全体主義」なのである。
では、この利益相反を回避するためには、どのような方策が必要であろうか。そういった視点から、アカウンタビリティの重要性も分かるであろう。アカウンタビリティとは、エリートの大衆に対する「応答義務(=リスポンシビリティ)」ではない。アカウンタビリティとは、このシステムが、「奴隷を容認しているシステムになっていないか」などを、

  • そのシステムをチェックすることによって、証明し「担保」する

セキュリティ・システムのことを意味する。つまり、このチェックを通過できないものは、どんなエリートが、わざわざ、時間のないところを時間をさいて、大衆に貢献しようと、「応答(=リスポンシビリティ)」しようとも、アカウンタビリティを果していない、とされる(=処罰される)ということである。
さて。どんなセキュリティ・システムによって、現代政治が、人々の「多様性」や「パブリックネス」「プライベートネス」を担保していると判断すればいいのか。
例えば、最近、秘密保護法の問題点が指摘されている。恣意的な運用によって、ときの政権が、未来永劫、隠したい「秘密」があったとき、この適用対象とすれば、私たちは、

  • それが秘密にすべき内容なのかを確認する手段がない

ということになる。こういう場合、一般的に行われるのが、「時限立法」化であろう。例えば、20年たったら、その秘密は公開しなければならない、とする。そうすれば、完全ではないが、一定の抑止効果が生まれる、と。
大事なことは、こういった「バランス」である。ある極端が表れたとき、その弊害を「弱体化」させることによって、全体主義への著しい傾斜を防ぐ。近代政治は、この「技術」によって、体系化されている。つまりは、この「バランス」に自覚的であることが、近代市民社会の一員として、

  • 非常に重要

だということである。
ところが、自民党公明党も、この議論をやらない。あえて、避けている。つまり、「演技」をしている。しかし、彼らが、こういった「演技」をするのは、彼らが、国会の過半数を占めているから、国民に関係なく、自分たちだけで、自分たちが好きなように法律を通せるから、である。
このことは、消費税の5%から8%への増税を、国民の大きな反対運動のうねりもなく、許してしまった状況とも対応しているのであろう。
消費税を増税するということは、国民にお金を使うな、という暗黙のメッセージであるわけである。つまり、お金を使うことは「罪」なんだ、と。だから、使えば使うほど、国に賠償しなければならない、と。
つまり、国民は物を買ってはいけないのである。つまり、どうなるか。国民は、物を買わずに、物々交換を行うようになる。近所から、木を切ってきて、日曜大工で、必要なものを組み立てるようになる。つまり、国家が「そうしろ」と言うのだから、私たちは、そうふるまう。
しかし、それでいいのだろうか。
物つくり国家としての日本は、これによって、さらに衰退に向かうであろう。日本人は物を買わなくなる。国内市場の一定の大きさによって、なんとか維持してきた、国内ガラパゴス産業は、どんどんとなくなり、さらにパイは小さくなる。
国家が物を買うな、と言うということは、どういうことか? 国家は、国民の「私的所有」を認めない方向に向かっている、ということも意味するであろう。つまりは、上記の議論に対応して考えるなら、それは、

  • 国民の漸近的な「奴隷」化

の一歩だということになる。消費税の増税が、どれだけ、国家の骨格をボロボロにするか。日本の産業構造を、今までと、まったく違った様相にするか。私たちは、よくよく考えて、消費税増税の暴走と戦っていかなければならないであろう...。

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

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