恋チュンの「多幸感」

AKB48の最新の曲である恋チュンが話題になっている。ユーチューブを見ると、「やってみた」的な動画が多数アップされていて、異様な盛り上がりを示している。
この状況を、宮台さんは「祭(まつり)」と言っている。

見て感動。皆で踊って感動。自分らが踊った動画を見ても感動。社会学的に解釈しよう。祭りは我々意識(の元になる共通前提)を必要とする。そして祭りが我々意識を強化する。祭りと我々意識が互いに前提を与え合うのだ。でも最初に共通前提がない場合どうするか。
集団が同じ振付けで踊ると共同身体性(皆が一つの体を共有した感じ)が生まれる。祭りの本質は共同身体性。だから同じ振付けで踊ること自体が祭りだ。空洞化した地域の再生に地域の祭りが利用されて久しい。この知恵が職場の再生に転用されつつある。
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AKB48を、芸能関係者たちによる「しかけ」として嫌悪する宮台さんが、この恋チュンの「祭」を、

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と言うわけだが、ようするに、祭「だったら」、これは祭として、楽しまなければ嘘だ、と言っているのであろう。
このヒット曲の特徴は、その「凡庸」かつ「単調」なメロディと、まったく、見せ場のない、たんたんと続く踊りの、なんともいえない、素人くささ、ということになるであろうか。歌詞も、普通の、どこにでもある流行歌である。
しかし、大衆は「踊る」。
そこには、「ちょっとやってみた」感が漂っている。やったことに意味があるわけではない。参加したことに意味があるわけではない。しかし、そのことになんの意味がなくても、ひとたび、「祭」になれば、私たちは踊る。
踊ることは、一体、「誰」にとっての踊りなのだろう。踊りを踊る人は、「誰かに向けて」踊るのだろうか? だとするなら、それを「受け取る」人というのは、そのことをどう思うのだろうか?
踊りは「楽しい」から踊るのか? もちろん、やりたくなかったらやらないだろう。しかし、だからといって「やりたい」とまでのものなのか? 運動オンチの人が、でも、踊る。そのとき、そのことが、なにかを意味しているのかに関係なく、その踊りは、全体の中の一つの風景となる。
踊りとは、一つのポーズである。そのポーズに意味があるのだろうか? わからないが、その意味とは、その意味を受けとる人にとっての意味でもある。つまり、踊りは、だれかへの「贈与」なのかもしれない。現代という功利主義の時代において、なにかを「贈与」するということが、非常に「特別」な意味を、どこかしら実感させるのかもしれない。

世界中で旋風を巻き起こしている同曲の魅力を芸能評論家の三杉武氏はこう分析する。
「どこか懐かしさすら感じさせる、老若男女に受け入れられる耳に心地よいメロディーや前向きな歌詞、見ているだけで楽しくなるダンスなど“多幸感”にあふれているのが『恋するフォーチュンクッキー』の最大の魅力でしょう。メロディーラインも、ダンスも、決して複雑なものではないですが、聴いている人や見ている人を魅了する要素が多分に含まれている。近年まれにみる“参加したくなる曲”ですね」
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踊りという「贈与」と、この「多幸感」は、なにか関係しているのかもしれない。
(前回は、幸せと、幸せに値いすることと、義務の関係を考えたが、踊りを一種の「贈与」と考えるなら、踊ることは、他者への「贈与」として、なんらかの人間社会への「寄与」という、一つの「役割」を意識させるのかもしれない。)
宮台さんは、子供と踊っていると書いてあったが、こういったもののおもしろさは、そういった、子供のいるご家庭にこそ、実感されるのかもしれない...。