モーリス・パンゲ『自死の日本史』

3・11以前から、日本の自殺者が、3万人を前後し、その多さにおいて、問題視されてきたわけだが、3・11以降、NGOや政府の取り組みが効いてきたのだろうか、とにかくも、2012年は、3万人を切り、少し明るい傾向を示し始めている。
他方において、日本の特に、子供たちの「自殺」は、大きな社会問題として論議されながら、あいも変わらず、抜本的な対策を行えていない状況が続いている印象を受ける。
自殺の問題が複雑なのは、その行為が「複雑」なのではなくて、その行為に対しての人間社会の受け止め方が、常に、複雑に考えられてきたからではないだろうか。
敗北的敗北を続け、失意の内に、あり続けることを受け入れるくらいなら、

  • 「敗北」的勝利

の内に、自らの最後を自ら選ぶことで、

  • 精神的勝利

のイメージの「至福」感の中で、最後を「選ぶ」方が、「幸福」なのではないか、というわけである。

鎌倉時代以降の日本では、自死にかかわるひとつの伝統が、なすべき決意を人に教え、なすべき所作、表明すべき感情の規範を人に示していた。確かに、この伝統は武士(サムライ)階級だけのものであり、また歴史も浅く、やっと十二世紀に確立されたばかりのものであって、日本史に現われる<意志的な死>のすべての場合をカバーするというわけにはいかない。制度化された方式に従う自殺がある一方で、多くの自殺が伝統の指示するモデルを否認し、時々の状況の命ずるままに即興的に演じられる。しかし重要なことは、日本が死ぬことの自由を、原則としてみずからに禁じたことは一度もないということなのである。
西欧思想の起源、古代ギリシアにおいて、学派は二つの陣営に分かれていた。キニク学派とストア学派の哲人たちは自殺を正当なものであると認めていた。一方、ピュタゴラス学派、プラトン学派、逍遥(アリストテレス)学派の哲学者たちは自殺を不可として、後にアウグスティヌスが自殺を根本的に禁止するために------キリスト教はこの禁止を、連綿と幾世紀を経て現代まで維持することに成功するであろう------用いることになる議論の濫觴をなしていた。

ここで、掲題の著者は、日本における「伝統」を語るときに、わざわざ、鎌倉時代以降と断っていることに注意がいる。つまり、ここで著者が考えようとしているには、いわゆる、「武士」の伝統なのである。
日本の江戸時代における「ハラキリ」の伝統は、言うまでもなく、古代ローマのカトーの「ハラキリ」を思わせる。

彼は言う------「カエサルの恩情にすがって命を全うしたいと私が望むのならば、要するに私が自分で彼のところに行くだけでことは済む。だが私は、不正義に対して、独裁者に感謝しようとも恩義を感じようとも思わない。なぜなら、主人として命令する何の権利もないはずの人間に向かって、生かす殺すなどというのは不正義だからだ」。
カエサルのこの不正の権力を拒否するためにカトーは自殺すると言うのだ。共和国ローマにおいては生殺与奪の権利は法律だけに属している。恩赦をもって命を救うの権利の乱用なのだ。だが共和国ローマも、その法が守っていた自由とともに消えようとしている今、カトーはその自由とともに自分もまた消え去ることを選ぶ。おのれの死を選ぶことで彼は、自由再生の可能性を作り出すのだ。彼の死は決定的な敗北の確認である。だが敗北を完全に引き受けることによって、彼の行為は同時に、未来への呼びかけという意味を持つようになる。

いや。思わせるというより、ほとんど「同じ」行為だと言うべきであって、むしろ、この二つの異文化における、ある「共通項目」と考えなければいけない。
しかし、だとしても、どうしても思わずにいられないのは、それを「日本」と呼ぶことの違和感である。上記の引用にもあるように、確かに、日本の過去の歴史をさかのぼっても、キリスト教のような自殺の「禁止」といった観念はなかったように思われる。しかし、江戸時代における「ハラキリ」と、平安時代以前の貴族たちの、どこか仏教的な「自死」とを、同型のものと語ることには、違和感がある。
この違和感は、つまりは、江戸時代以降の武士階級における「ハラキリ」が、実際には、それ以前の日本の「大衆文化」とまでなった、キリスト教における、「殉教」に対する、カウンターカルチャーとして、その

として、実践されてきた、というのが実際なのではないか。つまり、このあまりにも「過激」な、江戸時代の武士階級の「ハラキリ」は、そもそも、彼ら西欧のキリスト教宣教師たちによる「実践」がなかったら、あそこまでの過激化は、ありえなかったのではないか。
むしろ、キリスト教における過剰なまでの「殉教」の原理主義化が、江戸時代の武士の「ハラキリ」を自らに「正当化」した、とさえ言いたくなる。

キリスト紀元二世紀までは、大逆罪を犯した者でも、自殺すれば少なくとも相続財産の没収を免れていた。この特権はやがて国庫の貪欲の前に姿を消す。

この制度は、完全に、江戸時代の武士のハラキリ「制度」と同型である。つまり、江戸時代における、武士の「身分」化は、武士階級の「消滅」を恐れる側面をもっていた。つまり、全員が「ハラキリ」をして、だれもいなくなる、ということを避ける必要があった。
ところが、実際のところ、古代ローマにおける、奴隷化は、より「厳罰」化の方向に向かう。つまり、自殺の禁止である。

皇帝ディオクレティヌスの法官たちの目から見れば、自分から進んで死ぬなどということは、「なんらかの狂乱にとりつかれた」(aliqua furoris rabie constrictus)狂人の所業以外の何者でもなかった。そいてその百五十年後、アルルの公会議が自殺者について語る言葉、「悪魔の狂乱にとりつかれた者」(diabolico persecutus furore)というその言葉は、ディオクレティアヌスの名において発布された勅令の文句をただくりかえしているにすぎない。この皇帝は、しかしながら、キリスト教の不倶戴天の敵であったのだ。

西欧文明において、自殺は、

  • ヒステリー

となる。つまり、精神病である。頭が狂ったから、自殺をするのであって、自殺者に「人権」はいらない、ということになる。精神病院に「隔離」するのと同じ意味で、自殺者の「主張」は、闇に葬られる。カトーの不正義の訴えは、権力者たちに握り潰される。
ここに、自殺の禁止には、両義的な意味があることがわかる。なぜ、権力者は、庶民が自殺することを嫌がるのか。それは、

  • 奴隷が被奴隷の「財産」だから

なのである。

プラトンは、さらに一層重苦しいイメージを選ぶことで、人間に求められている服従の義務を重くする。「われわれ人間の生は、なにものかの見張りにおいてあるのであり、その見張りからわれわれはみずからを解き放ってはならず、逃げ出すことも許されない」。このように『パイドン』のなかで、ソクラテスは毒杯をあおる少し前に語っている。だがこの文句はオルフェウスの秘儀の最中に言われる決まり文句をくりかえしたものに過ぎない。この「なにものかの見張り」のもとにある場所というのは一種の奴隷置場、あるいは家畜小屋と考えるべきものであろう。ソクラテスはさらにつけ加えて言う------「(われわれを配慮したまうのは、)神々であり、われわれ人間というのは、神々にとっての所有物(もちもの)(牧畜)のひとつにすぎない」と。
このようにして、かつて救済を求める秘教的信仰やオルフェウス教団が用いていた言葉を借りて、今日に至るまで西欧世界を支配することになる自殺の形而上学的断罪を確立されるのである。「それでは君にしても、自分の牧畜のうちで、君がそのものの死をのぞむという意志も示さないというのに、勝手に、自分で自分を殺害するものがいたら、それにはきっと腹をたてるだろうね。そしてなにか懲罰の手段でもあれば、罰しはしないだろうか」。この罰のしるしとして、おのれ自身を殺した者は人里離れた荒れ地に埋められるべし、ということになる。「その者たちが名もなき者として埋葬されるべき場所は、一二の地区の境界にある、荒れ果てて名前もないところでなければならない。さらに、墓石もたてず、名前も刻まないで、その墓が誰のものか分からないようにすべきである」とプラトンは『法律』のなかに書く。こうして彼は、あらゆる文明に古くから見られる自殺への民衆的な恐怖心------この恐怖心は恐らく現代文明においえもほとんど変わっていない------に哲学の衣をかぶせるのである。
それ以来のあらゆる自殺は、形而上学的、また宗教的思想によって、主人を裏切る反逆奴隷の行為と同一視されるようになる。自殺をする者は、自分の主人に絶望し、主人の所有する財産を破損する反逆奴隷なのだ。神の人間に対する権利は、プラトンが生きていたその社会で一家の主人が家内奴隷に対して行使していた所有権になぞらえて考えられる。

プラトンにとって、人間とは、「神の家畜」である。つまり、神によって、死ぬまで、

  • 監視

される対象である。しかし、ここで「神」と呼んでいるのは、畢竟、この地上の世界においては、「哲人王によって支配される」国家のことである。スパルタの専制政治を理想国家とした、プラトンの哲人王政治とは、「哲学者という王の家畜」である国民という「資産」を、

  • 自殺させない(=資産をゴミにしない)

ためのなにかだ、ということになるであろう。
プラトンにとって、大事なことは、人間(=奴隷)を「見張り」続けることである。ずっと、生まれてから死ぬまで、見張る。それは、人間が「家畜」に対して行っている「逃げないように見張る」のと、同じだと考えていい。なぜ、見張るのか。それは、奴隷である人間が、

  • 危険

な存在となって、歯向かってこないようにするためであろう。つまり、「見張る」、「ずっと見ている」ことが、奴隷である「資産」の

  • 維持

を意味するのであろう。奴隷が「資産」であることを担保するわけである。
しかし、そのように考えると、日本における「差異」が際立つ。
江戸時代における、身分制。つまり、サムライと、百姓の違いは、そもそものお互いの関係を、

  • 天災

のレベルの関係において、規定した、ということにあるのかもしれない。サムライによって、百姓が殺されたとき、その百姓の行動の「野蛮」さは、

  • しょうがない

と考えられた。つまり、百姓は「動物」と考えられた。百姓は、幼い頃から、教育されていない、という理由で、「礼儀を知らないのは当たり前」だったわけである。
この場合、問題はサムライの側の行為において、考えられた。つまり、

  • 無闇に、百姓を殺生するサムライは、サムライとして「ふさわしい行為なのか」

という命題として受け入れられた。つまり、サムライは、百姓の殺生を、「無闇な動物の殺生が人間の行動として、大人げない、という<レベル>において、受容された」というわけである。
江戸時代の武士は、「奴隷」なのだろうか? 彼らは、ある意味において、独立自尊を旨とした。彼らは、あらゆる行動を「自分で選んだ」。そういう意味においては、尊敬すべき存在であった。どんな不名誉によって、死を強制されざるをえないときでも、結果として、自分で死を選ぶという「自律的な行動」が

  • 許された

ということである。
ところが、明治革命以降、武士階級の消滅と共に、百姓の「武士化」が喫緊の課題とされた。百姓は、教育によって、武士にされるのである。つまり、徴兵制である。
これが、「大衆社会」である。
大衆社会とは、なにか。大衆社会は、いわば、「奴隷のいない」社会である(奴隷がいれば、それは「大衆」ではないから)。しかし、そのことが、大衆が自らを「奴隷にしてくれ」と求めないことを意味するわけではない。
そういう意味で、大衆は「宙吊り」の状態だと言える。大衆とは、自らが何者なのかを「定義」していない人たちのことを言う。彼らは、自らを自己定義することなく、

  • たんに生きる

人たちである。大衆が、もし自らを「奴隷」にしてくれ、と要求する場合、または、大衆内の被差別集団を「奴隷」として扱うことを求めるとき。それが、全体主義となる。
つまり、重要なポイントは、「自由」である。もしも、大衆が国家の「資産」ならば、大衆に「自由」がある、という表現は矛盾である。なぜなら、大衆がその国家の「資産」的価値に反する行為をするなら(例えば、自殺をするなら)、それは「資産」ではない、ということになってしまうから。だとするなら、自殺は「禁止」されるべき、と言うことが、何を言っていることになるのか、ということになる。
つまり、ここで問われていることは、「自由」とは何か、なのである。

主人は労働もしないし、思想もしない。彼が言葉を口にすることがあるとすれば、それは行動のためだ。だが奴隷は夢想する。都市国家は彼を遠ざけているが、彼が言葉を口にすることがあるとすれば、それは行動のためだ。だが奴隷は夢想する。都市国家は彼を遠ざけているが、まさにこの隔たりゆえに、彼は都市国家ありさまを全体的に見渡すことができる。現実が彼に拒む満足を与えてくれるような幻影を彼は思い描くことができる。このようにして、観念のロゴスとしてのイデオロギーの織物が織られてゆく。夢のように多くの意味を孕むこの思想の織物は、ひとつの社会が内包する緊張関係に象徴的な表現を与え、水面下の矛盾に想像世界での解決を与えることによっ、その社会の安らかな眠りを守る。
人間の条件は身分の区別を超えてただひとつなのだと考える哲学者という者は、結局、奴隷の観点でものを考えているのである。奴隷とは、だか、インテリゲンチアの遠い先駆者んおだ。主人階級の享受する特権、多くの人間たちら奪われている特権に思想の対象としての名誉を与えることによって、思想はそれから世間的な名誉を奪う。自分が所有しないもの、そして沢山の人間が所有しないがゆえに自分もまた所有しようとは思わないもの、それを軽蔑することの何と心に甘く感じられることだろう。遺恨こそ、ニーチェに言わせれば、思想がおのれの理想を鍛えあげる営みに、その必要とするエネルギーを提供するものではなかったか。
都市国家自由民の自由を単に虚妄として思想は描きだすだろう。真実の自由は生まれの貴賤というような偶然事に左右されるものであろうはずがない。真実の自由とは、欲するときに欲するだけ誰もが持つことのできる、人間の意志のうちにこそ存するものなのだ。ある者はさらに進んで、どんな人間でも自分が絶対的に自由であると自己を意識するだけで完全な自由を手にすることができるとさえ主張する。いかにもストア派好みのパラドクスだ。王であろうと奴隷であろうと、人間は自己たるかぎりで自由な存在なのだ、というわけである。外的強制はなるほど肉体を拘束し、恐怖と誘惑は明晰ならざる精神を困惑させることがあるかも知れない。だが、自己を意識した自己は、もはや何をもってしても拘束し困惑させることはできない。

さて。西欧文明のように、自殺は「禁止」されるべきであろうか?
例えば、この問題を、この前の山本太郎議員による、直訴騒動において考えてみることは可能だろうか。
結果として、参議院による山本議員への「処罰」というものは、ほとんどなにもないに等しいものになりそうであるが、だとするなら、それまでの自民党議員による、過激な厳罰化の主張は、なんだったのか、ということにならないのであろうか。なぜなら、それほどの厳罰を「なぜ行えないのか」と考えるなら、そういった厳罰を主張した人の、「バランスの悪さ」が際立つわけであろう。
なぜ山本議員を厳罰にできないのか。それは、もしも、極右政治家が同じ直訴をやったとき、「仲間」なのに、同じ厳罰のルールを適用せざるをえなくなることを、十分に分かっているから、である。
おそらく、私はこれから、山本議員が直訴した「内容」が、少なからず、実現されていく方向になると思っている。なぜなら、もしそうでなければ、いつか極右勢力が、天皇に直訴したときに、

  • 同じように軽視される

正当性を与えてしまうから、である。
ある意味において、山本議員の直訴は、「自殺」に似ている。「殉教」に似ている。世が世なら、山本議員は、その場で、切り殺されていても不思議ではない(そういう意味で、右翼が言っていることは、山本議員は「ハラキリ」しろ、ということであろう)。そういう意味では、「野蛮」である。しかし、

  • そうであっても行う人が現れた場合

その社会は、「熟考」を迫られるわけである。だから、次々と自殺者が生まれる社会は、むしろ、社会にとって、「この社会システムでいいのか」という問いを迫られているわけであり、ある意味において、社会変革の「正当性」をその「自殺」が与えている、とも考えられるわけである。
つまり、自殺はあってはならない、と言ってしまうのではなく、自殺が生まれる社会は「変えなければいけない」のではないか、ということである...。

自死の日本史 (講談社学術文庫)

自死の日本史 (講談社学術文庫)