奥村宏『東電解体』

3・11以降の、安全厨たちの、ヒステリックな反応に対して、私が一番違和感を覚えたのは、そもそも、彼らは、東電をどう考えているのか、という疑問であった。
つまり、低線量放射性物質が、どのくらいの危険なのか、という話の前に、この日本における、巨大株式会社である、東京電力という会社をどう考えているのか、という、そもそも論が、彼らの反応から伺えなかったことに、私の、根底的な<疑い>が始まった、と言っていい。
今後の原発をどうしていくのかとか、低線量放射性物質がどのくらいの危険なのか、とかの話の前に、なぜ彼らは、東京電力という

  • 日本における、あまりにも巨大な株式会社

に違和感をもたないのだろうか。私には、むしろ、そのことに、なにか

  • 異常

な<狂気>のようなものを感じなくもない。
つまり、彼らは、そもそも、こういった日本における、巨大株式会社の存在形態について、なんの疑いももったことがない、ということなのではないか。
つまり、彼らの「スコープ」には、

  • 株式会社論

が、どうも「ない」ようなのだ。
私が不思議だったのは、どうも彼らは、東電の社員が「悪人」だと、世間に非難されていることに対しての「反発」という動機で動いていたのではないか、という印象である。
つまり、なんとかして、「しょうがなかった」という部分を証明したかったのではないか。または、言われているほど、ひどい被害を負わせていない、と、その罪の軽減を主張したかったのではないか。
つまり、東電の人たちは、必死でがんばったのであって、お前だって、3・11以前は、原発の危険性について、それほど意識が高かったわけじゃないだろ、と(そこまで意識が高かった人として、評価可能な人なんて、京大の小出さんくらいなものでしょうが)。だったら、人のことを責められないんじゃないのか。一億総懺悔というやつで、みんな悪かった。全部チャラで、明日から、一から始めようぜ、と。
こうして、原発再稼働のなにが悪い、というわけですが、しかし、それでいいんでしょうか?
というのは、そもそも、ここで問われているのは、3・11のとき、福島県にいて、多くの被曝をされた人であり、今もって、避難を続けていて、故郷に帰れない、また、帰るという選択肢を捨てて、新天地に移住した人たちが、

  • なぜ故郷を捨てるという「財産の放棄」を強いられなければならなかったのか

という、一種の「不当」な強制であったわけでしょう。
つまり、問われていたのは、なぜ、福島の方々は、このような責め苦を受けなければならなかったのか。そして、その責め苦に見合う

  • 代償

を果して、この社会から受けることが可能なのか、ということだったわけでしょう。

もし東京電力だけが”悪者”であるのなら、それを国有化するか、あるいは経営陣を交替させればよい。「会社が悪い」と言っても、会社は人間ではない。それを改良していくためには経営者を変えるしかない。
しかし、かりに東京電力の経営者を総入れ替えしたとしても、それでこの会社は良くなるのだろうか。だいいち、経営者を総入れ替えするといっても、取締役の改選は株主総会で決めることであり、現状ではそれは実現不可能である。

もしも、問題が、東京電力という会社が、「悪い」から、ということならば、この会社を「良く」すればいい、ということになる。しかし、そうだろうか?
もし、あなたが、そう思っているとするなら、この問題の本質的な意味を分かっていない。
今回の事態の何が問題なのか。それは、福島の人たちの苦しみが、それに見合うだけの代償によって、「報われていない」ことにあるのである。

近代株式会社制度が確立するのは一九世紀なかばになってからで、イギリスでは一八五六年の株式会社法で確立されたとされている。これは法律に従っていれば誰でも株式会社を設立できるというもので、これを「準則主義」という。
この株式会社法ができるに当たってイギリス議会で大論争が闘わされた。というのは、すべての個人は債務に対して無限責任を負わされており、それまでにあった合名会社(パートナーシップ)などでも出資者は無限責任を負われていた。
もし借金が払えなくなったら、その人が持っている家や土地などの財産は差し押さえられ、それでも足りなければ破産宣告を受ける。
にもかかわらず株式会社ではすべての株主が有限責任で、会社が債務を払えないために倒産しても、株主は持っている株式がタダになるだけで、それ以上の責任を負わなくてもよいということになっている。
これが近代株式会社法の原理としての「株主有限責任」であるが、無限責任であれば、会社が危険な事業に手を出すことに株主は反対する。それが有限責任ということになれば、そのたががはずれて、会社は危険な事業に投資していくようになる。そのような無責任なものを認めることはできないと議会で反対の声が起こった。
そえに対してJ・S・ミルはこう主張した。
株式会社は株主が出資し、その資本金を元にして事業を営むが、会社には株主が出資した資金=資本金に見合う資産がある。そこで会社と取引する者は相手の株式会社の資本金に見合った資産を一種の担保と考えて取引すればよい。そうすれば、もし会社が倒産した時にはその資産を売却して株主に分配すえばよい。そして会社にはその資産の状態を外部に正確に公開させておけばよい。
このJ・S・ミルのような主張が議会で認められて株式会社法が成立し、そしてイギリスはもちろん世界中でそれが普及するようになったのである。
ところが、その株式会社が資本金以上の借金をして倒産したらどうなるか。その場合、株主は有限責任だから、株式はタダの紙切れになるが、それ以上の損はしない。そこでその株式会社にカネを貸していた銀行は損する、あるいは社債を持っている人も損する。
そこでアメリカでは破産法を作ってそれに対処しようとし、日本でもそれを輸入して会社更正法や民事再生法ができた。
そかしその場合でも株主有限責任の下痢はあくまでも貫いているのだが、それによって債権者が大きな損害を売るということは、そのこと自体が株式会社制度の矛盾をあらわしている。
そのうえ、その会社の債務を国家が肩代りし、国民の税金でそれを負担するというのであれば、それはまさに株式会社という制度の死を意味する。
かつて一九世紀のイギリス議会で主張されたように、そのように無責任なものを認めることはできないということになる。
アメリカでもリーマン・ショックで銀行や保険会社に対して巨額の国民の税金が投入されたが、それに対して激しい反対があった。イギリスやヨーロッパでもそうだが、このことはまさに株式会社の危機を意味している。
ところが日本ではバブル崩壊で巨額の公的資金が銀行や証券会社などに投入されたが、これを株式会社の危機ととらえる人はほとんどいなかった。

なぜ「会社」という存在が、社会的に、認められているのか。
それは、たんに、ゲームのルールだから、ではない。この「会社」という形態が、現実社会の

  • 倫理

に反しない、と考えられているからである。だから、現実社会は、会社の存在を「認めている」のである(ロールズの「正義論」がなぜ重要なのかは、そもそもの、こういった発想の延長上に、あるからでしょう!)。
ところが、一九世紀に始まった、株式会社は、その会社の持ち主である、株主の「有限責任」に限定することを認めている。しかし、これは、おかしな話ではないか。なぜなら、責任の量が、最初から、「有限」というボーダーで抑えられているなどという存在は、「倫理」に反していないか?
どんな存在も、その存在の行為の罪に見合った、裁きであり、返礼を要求されるのは、当然ではないか? そうでなかったら、どういうことになる? まさに、こういうのを

  • 泣き寝入り

と言うんじゃないのか?
自分のやったことに責任をとるから「自由」な活動が認められるんじゃないのか?
この社会を、滅茶苦茶に壊しておいて、後は、国民のお金である、国家の税金で、尻拭いしてくれ、って、お前が好きにできたのは、私企業だったからじゃないのか、今ごろ、国に助けてくれ、って、そんなお金がどうして、国にあると思ってるのか。
そんな、悪ふざけをする私企業の散財の尻拭いをするために、国家があるんじゃないでしょう(そんなことのために国家があるとするなら、どれだけ、税金が必要になる、ってものでしょう)。
こういう、

を起こさないようにするには、どうすればいいのか?
さっきから言っているように、経営陣の刷新のような、東京電力という会社に「良い」会社になってもらう、なんていう、付け焼き刃を何度繰り返したって、同じことになるわけです。
じゃあ、どうするのか?
掲題の著者が言っているように、もう一つしか、ないわけです。
一つ一つの株式会社が、「あまりにも大きくなりすぎない」ようにする。つまり、日本にある、巨大株式会社を、なんとかして、

  • 自らの「責任」を自らによって、尻拭いができる範囲で解体(=完全分社化)してもらう。

そうすることによって、この日本にある株式会社それぞれが「倫理」的に許容範囲のレベルの図体となってもらう。
自分のことは、自分で落とし前をつけられるような、

の倫理的な法人の範囲で、留まることを、自ら抑制する自制心を、この社会にビルトインしていくしかない、ということです...。

東電解体―巨大株式会社の終焉

東電解体―巨大株式会社の終焉