山川賢一『エ/ヱヴァ考』

そもそも、エヴァンゲリオンって、どうして、あんなに「気持ち悪い」のかと考えると、ようするに、主人公の碇シンジの上司が、碇ゲンドウという、「父親」だから、なんですよね。
つまり、父親が子供を「部下」として「命令」しているわけ。
もうその時点で、うんざりでしょう。
たいていの現場では、こういう親子関係のある人たちを、同じ場所で共存させないものではないか。
(もちろん、そんなことを言ったら、そもそも、子供が仕事をしている時点でおかしいのだが。「設定」で、子供しかエヴァに乗れないし、その中でも、主人公が、飛び抜けてシンクロ率がいい、となっているわけだし、そもそも、その子供が「戦争」をしないと、地球が滅びる、というわけなのだから、やれやれなわけだが。)
たとえば、上司のミサトがシンジを自分のアパートの同居人にするのも、一見すると「優しさ」のように思われるが、上司とそういった「プライベートの依存関係」を作ってしまうと、「逃げ場」がなくなってしまう。一般に、ビジネスの関係が、そのまま、プライベートの場所にまで、侵食されないように、プライベート空間は、まったく別の人間関係の場所にするのが

  • 礼儀

であり、そういう「自制」をするものであろう。
上司とは、ドラッカーの意味で、マネージャーということであるが、もっと言えば、「経営者」側に近い存在ということである。当然、労働者に払う金額も彼らが決める。つまり、そういった雇い主と被雇い主の間には、金銭的な緊張関係がある。
もしも、お互いがその条件に不満であったり、実際に労働行為を行っているときに、その条件に合わない事態が起きるなら、契約は、途中であっても破棄される場合がある。
つまり、そういったビジネスライクの関係であってこそ、この資本主義社会においては、あらゆる「関係」が、「契約」として成立していることになる。
だとするなら、私たちは、もう少し違った視点から、この作品を、考えてみる必要がある、ということになるであろう。
この物語をシンジの側から考えたとき、第一話は、母親のいない彼が、仕事人間で自分を捨てたはずの父親が、もう一度、自分を呼び戻したところから始まっている。つまり、シンジの側からすると、たんに、その命令に従順に従ったということだけでなく、なんらかの父親への

  • 期待

があって、わざわざ、父親のところに戻ってきていることがわかる。しかし、それに対する父親の反応は、いわば「条件付き」であったことが特徴的だ。

しかし興味深いことに、シンジの件についてだけは、ネルフには妙に詰めが甘いところがある。エヴァに乗れと迫っておきながら、最終的な判断を、つねにシンジ自身に委ねてしまうのだ。たとえば今の引用箇所に続けて、ゲンドウはいう。

乗るなら早くしろ、でなければ帰れ!
(『新世紀エヴァンゲリオン』第壱話「使徒、襲来」)

口調は高圧的だが、シンジが乗るか乗らないかを判断する自由を与えていることがわかるだろう。じっさい彼がなおも搭乗を拒むと、ゲンドウは歩くことも難しいほどの重傷を負ったレイを、かわりに初号機へ乗せようとするのだ。

このことは、ネルフという父親が所属している組織の問題として考えるべきではない。これは、シンジの父親が、ジンジの行動を「自由」だ、と言っているわけである。
つまり、好きに選ばせてくれているわけである。
しかし、である。
最初に言ったように、シンジがなぜ、この街に来たのかを考えたとき、彼が何を期待していたのか、を理解しなければならない。シンジは父親に何を期待していたのか(だから、この街に来たのであって)。つまり、そのインプリケーションは、

  • 受け入れるならば、父親としての「役割」をまっとうする(少なくとも、その関係の継続を約束する)。
  • 受け入れないならば、今まで通り、父親としての関係は放棄する。

このように受けとったはずなのである。つまり、シンジは、なんらかの父親との関係を「取り戻し」たくて、この街に来たはずなのである。
しかし、それに対しての父親の態度は、両義的である。子供に選ばせている、という意味では、一見、「自由」を許しているように見える。最初に話した、ビジネスライクと考えるなら、この扱いは「フェア」ということになる。しかし、シンジの側から見たとき、むしろ、この答えは、シンジへの「承認」を与えない、回答であることが分かるであろう。
シンジは、なんらかの父親からの「和解」を求めて、この街に来ている。今まで完全に他人として父親に捨てられてきた(=捨て置かれていた)シンジに対して、父親が、今度は、それを「反省」して、父親的な役割を「回復」する契機になると、「期待」して来ているわけである。
そういったシンジが上記の言葉を聞いたとき、どう思うであろうか。まず、上記の言葉を聞いても、父親が本当に自分と父親的な関係を作りたいと思っているのかが分からないであろう。なぜなら、それが、

  • 条件付き

となっているからだ。「丸丸ならば愛する」と言われて、あなたは、その人の「愛」を感じるだろうか?
つまり、これを聞いたシンジの反応は、いわゆる「逆ギレ」なのである。彼は、意味不明だから、ブチキレているわけである。

たとえば第拾弐話。シンジはシンクロ率(エヴァによる戦闘能力を表す数値)のテストで成績をあげたことにより、プライドの高いアスカに嫉妬される。「よかったわねぇ、おほめの言葉をいただいて」とイヤミをいうアスカ。シンジはそれに愛想笑いで答え、火に油を注ぐ結果になってしまう。「なにが悪かったんだろう......」と困惑するシンジに、ミサトは「そうして、人の顔色ばかり気にしているからよ」と厳しい口調でいう。

シンジ:叱らないんですね、家出のこと。当然ですよね、ミサトさんは他人なんだから。もしぼくが乗らないっていったら、初号機はどうするんですか。
ミサト:レイが乗るでしょうね......。乗らないの?
シンジ:そんなことができるわけないじゃないですか。彼女に全部押し付けるなんて。大丈夫ですよ。乗りますよ。
ミサト:乗りたくないの。
シンジ:そりゃそうでしょ。第一ぼくには向いてませんよそういうの。だけど、綾波ミサトさんやリツコさ......
ミサト:いいかげんにしなさいよ! 人のことなんか関係ないでしょう!
(『新世紀エヴァンゲリオン』第四話「雨、逃げ出した後」)

しかし、こういった態度は、いわば、子供の「本音」であって、むしろ、これこそが子供の特徴なのである。これに対し対照的なのが、ミサトであろう。ミサトは大人の労働者として、自分の仕事を自分で決めている。つまり、独立自尊で生きている。
他方、子供は、親の「顔色」を見て生きている存在だと言える。子供は、親が喜ぶことを「予想」して、親の喜びそうなことをすることで、親を喜ばせて生きることを「生きがい」にして生きる存在である。なぜなら、子供は親に「寄生」して生きているからだ。親から愛情を受けられなければ、生きていけないからだ。つまり、親に「気に入られる」ことは、死活問題なのである。
上記で、わざわざ名前を挙げられている「綾波」「ミサト」「リツコ」は、たんに、シンジの回りの人ではない。彼らは全員、父親との関係がある人たちである。つまり、そういう意味では、彼らは

  • 父親

なのである。つまり、彼らの反応は父親に関係している。区別できないわけである。
子供は、必死になって、親の

  • 顔色

を見ている。子供にとって、親の顔色は死活問題である。親の顔色が変わったとき、自らの「死」を意味する可能性だってある。子供の生き死には親に握られている。
こういった視点で見たとき、第3話は重要である。
ここで、シンジは始めて自分の意志で、使徒を「殺す」。練習段階においては、まるで、テレビゲームのような画面上の使徒の模型に向かって拳銃を打っていた彼は、実践で、活動限界の残り30秒で、上司の撤退の命令を無視して、キレて、半狂乱となり嬌声をあげて叫びながら、

  • ナイフ

を脇から取り出し、使徒を刺し殺す。メッタ刺しにして、エヴァの活動限界を迎えるまで、それを続ける。
これは、言うまでもなく、中学、高校で多発した、学生による、ナイフによる「刺殺」事件のアナロジーである。キレた学生が、注意した教師を、懐に隠していたナイフで、何度も何度もメッタ刺しにした事件だが、それを再現することによって、シンジの

  • 活動のエネルギー

がどこにあるのか(なぜ14歳の子供にしかエヴァを運転できないのか)、を示唆しているわけである。
確かに、一見すると、このシンジの半狂乱は唐突な印象を受ける。しかし、そう考えるべきではない。第1話で、父親の条件付き「承認」に対して、彼は、それを受け入れる方を、なりゆき上であったとしても選ぶ。しかし、その結果は、使徒による、シンジ君への

  • ふるぼっこ

の暴力という結果であった。つまり、父親はシンジを殺したのである。ところが、そうして、シンジが恐怖の中、意識を失った後、エヴァはシンジの意志を無視して、使徒を「ふるぼっこ」にして、

  • 勝手に

地球を救う。そして、ある意味において、父親はこうなることを知っていた。つまり、父親は、子供を「道具」として使い、子供を「廃人」にすることで、

  • なにか

を、父親が存在している「大人の環境」の方では、意味のあるものを「勝ち取る」わけである。
第4話では、なぜ、シンジはクラスメートの鈴原トウジ相田ケンスケに親近感をもつようになったのかが描かれる。それは、相田ケンスケが自分と同じく、母親がいないことを本人から聞かされたことにある。つまり、彼は自分の「コンプレックス」と同じものをもつ彼に、なんらかの自分との近さを感じたからである。
第5話で、シンジは偶然、父親が綾波レイを自分が傷付くことも厭わずに助けた話を聞き、彼女に興味をもち始める。
シンジはエヴァのコックピットの中から、綾波とシンジの父親が、二人とも今まで見たことのないような

  • 楽しそうな表情

で話していることに、強烈なショックを受ける。この場面は、この作品の中でも、とても印象的な場面である。
綾波レイはシンジにとって重要である。なぜなら、彼女は、いわば、シンジがずっと求めている、シンジの父親からの「承認」を受け続けている存在だから、である。
シンジは、自分の父親と、綾波レイがそうであるような関係になりたい。つまり、なぜ綾波レイは、そうであるのかが、急に気になり始めるわけである。
綾波はシンジが父親の仕事を信じられないと言ったとき、急に振り向き、シンジを平手打ちする。このことは、綾波は、シンジと同じように、シンジの父親との関係を、ミサトやリツコのような、

  • ビジネスライク

な関係と考えていないことがわかる。しかし、だからこそ、シンジは綾波が気になる。
第6話の最後で、シンジは綾波との作戦攻撃で、綾波を盾にして、使徒を倒すが、それによって綾波の乗る零号機は大きく損傷する。そのコックピットをこじ開けて、綾波を助け出す姿は、いわば、第5話の最初の回想シーンで描かれた、シンジの父親の行為の再現になっている。
つまり、シンジは綾波に対して、自分の父親が行っている、示している態度を再現することで、自らを「父親の立場」に、コピーニューロン的に再現しようとする。つまり、父親と同じ行動をすることで、自らの自尊心を保とうとしている。
最初に書いたように、そもそも、子供は自らの「動機」をもたない。子供がもつのは、「親の視線」である。子供は親に気に入られることを、常に意識して、行動している。子供の第一の行動原理は、親に依存している(親をパラメータにしている)。
しかし、いずれ、その子供も親の元を離れていく。反抗期である。
しかし、その行動は、なんなのか? 「動機」をもたないはずの子供が、いつか、「親の視線」と関係なく振る舞うようになるとき、その子供は、どんな行動原理によって動くようになるのか。
それが、「親の真似」である。子供は、まず、独立自尊の行動を始めるとき、その自らの行動の「ありよう」を親に求める。つまり、

  • 親と同じように振る舞う

のである。それが「プライド」である。彼らは「親と同じ」だから、「間違っていない」と思う。自分の行動に自信をもつし、それを続けることに充実感をもつ。
シンジの綾波への態度は、綾波がシンジをビンタした時から始まっている。こういった行動は、「母親」の行動である。母親は、子供の父親との関係においては、「等価」な存在である。つまり、母親は子供に、父親との対し方を「模範」をもって示す。つまり、シンジは綾波のビンタによって、父親との対し方に

  • 自信

をもった、と言っていいであろう。
このエヴァンゲリオンという作品は、第6話において、ほぼ完成している、と言っていい。というのは、ここで、シンジが自分がどう振る舞うのかを、自分で納得したからである。これ以降、シンジは、どこか「自信」をもっている印象を受ける。彼自身が、この街での自分の「立ち位置」を納得した、ということになるであろう。
しかし、作品は第25話まで続く。特に、第23話は、綾波レイが死ぬ場面が描かれる。そういう意味で、エヴァンゲリオンの作品の終了は、この第23話で、一つの

  • 種明かし

という形で示された、と言えるのではないだろうか。

すでに触れたように、彼女は通常の人間ではなく、ネルフによってつくられた存在であり、ゲンドウの亡き妻碇ユイと、使徒リリスの両方の性質をもつ。ネルフは、彼女が死ぬと魂を移し替えて次のレイを作りだすことができるが、そのたびに人格にちがいがあらわれるようだ。

綾波レイは、彼女がシンジの母親(と使徒リリスの両方の性質をもつ)のクローンであるという意味で、なぜ、シンジの父親が、綾波レイに対して、あれほどの愛情を注ぎながら、他方において、彼女の死に対して、どこか冷淡な「代わりは別にいる」というような態度を示してきたのかのかの答えを示している。
シンジは、最初は、父親との和解が最大の問題であったが、その課題を、綾波レイを介することで、「解決」する。しかし、その問題を綾波レイという存在によって決着させたために、逆に、彼女が、他ならぬ「特別」な存在になってしまう。つまり、今度は逆に、父親がなぜ、綾波を死の間際に追い込むことに、なんの躊躇もしないのか、を理解できない。つまり、そのことが、彼の

  • 第二の「反発」

を引き起こしてしまう。
シンジの父親にとっては、綾波は、たんに彼の亡き妻碇ユイ「そのもの」である。ところが、シンジにとっては、同じ14歳の同級生の彼女である。シンジは綾波と行動を共にすることで、

  • 一緒

に「成長」してきたわけである。そして、そのことは、綾波レイにとってもそうだと言える。綾波レイは自分を過去のシンジの父親の妻であったユイ「その人」自身だと思っているわけではない。そういう意味では、彼女も、独立した「人間」だと言える。しかし、彼女は自分自身で自分には「代わり」がいる、ということも分かっている。そもそも、シンジが最初に出会った彼女自身が、以前に存在した「二番目」であることを十分に自覚している(他方において、上記の引用にあるように、こうして次々と「移植」されて現れる彼女は、なんらかの

  • 影響

を以前の個体の有り様から受けていることが、示唆されているわけだが)。
綾波レイは、人間なのだろうか? 私たちは、彼女をロボットと考えるべきなのか? 
この問題は、おそらく、両義的に示されている。シンジが出会った「二番目」の個体の「生」の間は、まず、彼女を「人間」と言っていい。そういう意味で、この作品は、その綾波レイが、第23話で死んだところで、終わった、と言っていい。つまり、それ以降は、

に服する、という意味でである。しかし、他方において、「一番目」と「二番目」と「三番目」の関係を考えようとするとき、それは、どちらかというと、「ロボット」と呼ぶ方が正確だと思われる(それがなぜ、綾波レイの死んだ、第23話以降、映画版を含めて、どこか「凡庸」な「つまらない」印象を与えるのか、を意味している)。
しかし、もっと根本的な疑問がある。それは、なぜシンジと父親との「和解」は成功したのか、ということである。つまり、綾波レイとは、そもそも、

  • そのため

に作られたのではないか、ということである。
第5話の最初で、シンジは偶然、父親と綾波レイが非常に「楽しそう」に話しているところを見て、強烈なショックを受けるわけだが、もしもこれが、「意図されて」演じられた場面だとしたら、どうなるだろうか。
この物語は、どうやって、シンジを「大人」にするかを、彼の父親が画策する物語である。つまり、シンジを大人にすることを、どうやって、

  • 操作的

に親は行うことができるのかを求めた、作品だと言える。第2話において、シンジは使徒を、懐に隠し持っていた「ナイフ」で、メッタ刺しにするが、これは「現代」の子供の現状である。むしろ、こういった子供を、どのように、

  • 家畜的に

操作して、親は子供を「社会的存在」に「操作」していけるのか。そういった、どこか「優生学」にも通じるような、

  • 科学による人間という生物の「コントロール」(=機械化)

を、心理学を含めた、あらゆる方法によって、行おうとした、

  • 科学至上主義

の「実験」だと考えるべきである。

一九九三年の企画書には、ネルフとの独裁性を考えるうえで興味深い、ある記述を見出すことができる。アニメでは、人類補完委員会の議長はキール・ローレンツという老人がつとめている。しかし企画の初期段階では、この男はいささかちがう名前で呼ばれていた。企画書の一五ページ目には「委員会統括最高責任者 コンラート・ローレンツ長官」と書かれているのだ。
コンラート・ローレンツとは、一九七三年にノーベル賞を受賞し、八九年に亡くなった実在の動物行動学者の名前だ。おそらく、故人とはいえ実在人物の名前をつかうのはまずいという話になり、制作途中で彼の名前は「キール」に変更されたのだろう。注目すべきは、このコンラート・ローレンツがかつてナチス党員でもあったことだ。マット・リドレーは次のように述べている。

ナチで活躍していた時期、ローレンツは家畜化の問題を議論の中心に置いていた。野生の仲間よりも食い意地張って、愚鈍で、性欲が強すぎるとして、家畜を不当に侮蔑した。(中略)/ローレンツはこの理屈を人間にも当てはめ、一九四〇年、「家畜化による種特異的行動の混乱」と題した悪名高い論文で、人間はみずからを家畜化することによって、肉体やモラルや遺伝子の劣化を招いていると訴えた。(中略)要するに、この主張は、優生学の議論に新たな領域を切り開き、国家による生殖管理と、不適格な個人や人種の排除を、改めて正当化していたのである。
(『やわらかな遺伝子』、マット・リドレー、中村桂子斎藤隆央訳、紀伊国屋書店、二〇〇四年、229ページ)

ようするに、ローレンツには悪名高いナチス優生学に親和的な傾向があった。そればかりか、リドレーによると、彼はSS(ナチス親衛隊)が後援する人種関係の研究にも加わっていたという。
ローレンツは名高い学者だから、こうした過去とは無関係に彼の名前が選ばれた可能性も皆無ではない。とはいえネルフの独裁的な性格や、ネルフ、ゼーレといった名称がドイツ語から採られていることからしても、ナチスとのかかわりが意識されていた可能性は高いだろう。そのほか、かつてのゲンドウが所長をつとめていた施設の「人工進化研究所」という名称なども、優生学を連想させる。

このエヴァンゲリオンというアニメは、そもそもの最初から、ナチス・ドイツ

  • 科学至上主義

を「礼賛」している側面がある(作品のさまざまな場面に織り込まれている、享楽的な場面は、どこか、ナチス自身の「享楽」を思わせ、それを肯定しているような印象を受ける)。
綾波レイのクローン化も、どこか、こういった「科学至上主義」の延長から生まれた産物であることが分かるであろう。
しかし、そういった存在として描きながら、むしろ、この作品全体としては、そういった「科学を人間が操作<可能>」であるという「幻想」が、現実にはうまくいかない、ということを示唆しようとした形になっている、と受け取れるのではないか、と思われる。
綾波レイをシンジを「操作」する存在として、彼の父親が生み出して、そういう意味では、シンジの父親との和解に至れたという意味では、

  • 成功

しておきながら、シンジがその綾波に対しての父親の冷酷な態度に、反発していく形で、シンジも綾波も、人間的に成長していき、今度は逆に、その「設定自体」が、彼ら自身を精神的に耐えられなくしていくという意味で、こういった「生物操作」的な優生学的アプローチの

  • 破綻

を結果させたことを、第23話の(シンジを「自分」から助けるための)綾波の「自殺」が示唆している、と受け取れるのではないか...。

エ/ヱヴァ考

エ/ヱヴァ考