與那覇潤『日本人はなぜ存在するか』

東京で仕事をしていると、つくづく感じるのは、外国人の多さだ。それは、まず最初に気付くのが、山手線などの電車の中であろう。白人で金髪の方から、アジア系の方から、黒人の方まで、実に、多くの外国人を普通に毎日見かける。
これは、仕事の現場でも変わらない。業種の関係で、アジア系の人たちが多いが、普通に彼らは、ペキン語のような、中国語で、お互い日本のビルの中でも話している。といっても、私が彼らと話すときは、普通の日本語なのだが。
なぜこんなことを、今さらのように書いているかというと、つまり、東京を少し離れた田舎に行けば、ここまで、外国人はいない、ということなのだ。
本当にいない。学校のクラスにもいない。学校のクラスの生徒は、みんな、

  • 地元

の子供である。しかし、今の東京においては、おそらく、これだけ街で外国人を見かけることから考えて、帰国子女や、そういった海外から日本に働きに来ている外国人がたくさんいるのではないだろうか。
私が言いたかったのは、だから、東京のような「国際都市」の感覚が正しい、とか、これが正義なんだ、とか、そういうことが言いたかったわけではない、ということである。
例えば、掲題の本は、しきりに、「日本人の定義は何か」みたいなことを、執拗なまでに、繰り返し質問する。しかし、そもそも、田舎の出身の人にとって、そういう問題設定は非常に違和感を感じる。なぜなら、そもそも、毎日が「違和感」の連続だからだ。そしてそれは、上記のような、外国の方たちも同じような感覚をもっている。
海外から来る人は、みんな「国際人」だと思っている。しかし、その多くは、私と同じように、海外の「田舎」で育ち、周りに外国人のいない環境で、大きくなり、自分の中に、そういった「ローカリティ」をしっかり内面化している人たちなのである。
そういう意味で、私のような日本の田舎で育った人間には、東京出身でずっと東京で育った人たちよりも、ずっと、「共通感覚」を感じることがある。つまり、同じ田舎者同士、なんとなく発想が似ているのだ。
この本が、延々と話し続けている「日本人」なるものは、東京人、またか、この東京を中心とした関東圏のことであろう。そして、グローバル化とは、東京ローカルの話であることに彼らは、一向に気付かない。東京に生まれ、東京で育った、都市型人間の彼らが、そういった倫理を重要だと考えるようになることには、一定の必然性があるのであろうが。
東京は、関西から九州、沖縄と、比較的に年中温かく、雪もほとんど降らない地域の人たちと、北陸や東北のような冬は特に寒く、毎日のように雪が降りつもっている地域の人たちが

  • 混在

して生きている地域であるためは、その「共通感覚」というのが、なかなか自明にならない。東京はその中間のような地域で、年中温かいというほどでもないが、冬がそこまで凍るような寒さというには、明らかに過しやすい。その中途半端な気候が、逆に、東京の発展を促したのであろうが。
私のように寒い地域で子供の頃を過した人間には、逆に、関西から下の地域の人たちの、なにか「感性」の違いのようなものを感じることがある。むしろ、彼らよりも、北海道から、韓国、北朝鮮、その先の中国の元満洲地域や、その目の前の極東ロシア辺りの人たちの方が、どこからしら、

  • マインド

の「近さ」を、感じ、実感することが、しばしばなように思われる。
私が、ここで、ぐだぐだと述べてきたことは、結局、何が言いたいのかというと、ひとたび、「日本人とは何か」みたいな

  • 抽象度

において、考察されるとき、まったく、こういった「差異」が、議論の外に追い出されている、ということなのである。そして、それは、

  • 人間とな何か?

という「問い」においても、まったく、同じだ。

このように認識と現実のあいだでループ現象が生じるこを、社会学の用語で「再帰性(reflexivity)」と言います。それを最初にわかりやすいかたちで示したのはロバード・K・マートンというアメリカの社会学者でした。彼が再帰性の一例として呈示したのは、「自己成就的予言」という現象です。マートンはそれを『社会理論と社会構造』の中で、次のように説明しました。

自己成就的予言とは、最初の誤った状況の規定が新しい行動を呼び起し、その行動が当初の誤った考えを現実(リアル)なものとすることである。自己成就的予言のいかにももっともらしい効力は、誤謬の支配を永続させる。(384 ~ 385頁)

人間にとって、自由とは「過去の想起」のことだ、というのは、少し前のブログの記事でも書いたが、ここで「過去」とは、本当の意味での「時間」の過去ではない。それは、過去の「経験」という、いわば、「記録」のことである。しかし、その「記録」は、なんらかの

  • 正確さ

を意味しない。人間の中にある「記録」は、日々の営みの中で、当然、さまざまに改竄されていく。しかし、その改竄がどこまで、「意図的」なのかや、「計画的」なのか、までは決定しているわけではない。また、その改竄が、どこまで完全犯罪的に徹底してされるのかも、曖昧である。そうであるから、大抵の場合は、一部の改竄は他の「証拠」によって、修正されている、とも言えなくもない。
上記でわざわざ「再帰的」などと言っているが、ようするに「認知的不協和」と同じ意味で使われているにすぎない。その認知的不協和が、社会レベルにまで共有されていく(ミームとして進化論的に生き残っていく)ことが、往々にして起きている、ということを言っているにすぎない。

なにか不幸な体験をしたとき、それを「最近、俺は調子に乗りすぎていたから、神さまの罰(ばち)が当たったんだ」と認識するかぎりで、神は再帰的なかたちで存在します。なぜ私たちの社会は、神なる存在を再帰的に作り出してきたのか。それは「悪いことをすると、神さまの罰が当たるよ」ということにしておけば、社会の秩序を維持するのに便利だからですよね。だとすれば、本来は神こそが人間にとっての手段、道具にすぎません。
しかし人間は愚かにも、自分たちが道具として再帰的に作り出したにすぎない存在を、あたも本当の実在物のように崇め、自分が作り出した当のものによって支配されている。なんとみじめなことか。ニーチェは『道徳の系譜学』で、こう痛罵します。

人間の意志は、一つの理想 ------ 「聖なる神」という理想だ ------ を確立しておいて、その理想の前では自分が絶対に無価値な存在であることをどこまでも確実なものとしようとする。おお、なんと悲しげで狂った動物だろうか、この人間というものは!(174頁)

しかし、なにを今さら「神なんて本当はいないんだ!」みたいなことを、鬼の首でもとったように言っているのか、ということであろう。そんなことを言う人間は、ニーチェ以前だって、いくらでもいたわけで、じゃあ、なぜ、そうであったのに、こういったミームが生き残ってきたのか、と考える方が普通なんじゃないですかね。
最近も、『ルールに従う』という本を紹介したが、ルールとは、人間が作った「カラクリ」ですよ。つまり、全部「嘘」ですよ。でも、だから、なんなんですかね。それに人々が従っている「から」、たくさんの有用が秩序があるんでしょう。そして、実際に、「神は死んだ」みたいなことを言っている連中だって、こういった「有用な秩序」の恩恵にあずかっているんでしょ? だったら、

  • 本当の人間を探さなきゃ!

みたいな、そういった「純粋主義」こそ、あなたは何をしたいんですか、みたいな話なんじゃないですかね orz。

だとすれば、そもそも「人間」を探究しようなどという発想自体を放棄してしまえば、人間なる再帰的な存在自体もまた、ニーチェが殺した神のように雲散霧消するはずです。実際に1966年の主著『言葉と物』の末尾で、フーコーはそう予言しました。

比較的短期間の時間継起(クロノロジー)と地理的に限られた裁断面------すなわち、十六生起以降のヨーロッパ文化------をとりあげることによってさえ、人間がそこでは最近の発見であるという確信を人々はいだくことができるにちがいない。......人間は、われわれの思考の考古学によってその日付けの新しさが容易に示されるような発見にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。(409頁)

2年後の1968年、世界中に学生の反乱が広がるなかで、フーコーの書物は彼らのバイブルになりました。この年、フランスの五月革命では学生たちが資本主義に反抗し、一方でチェコスロバキアではプラハの春というかたちで、むしろ社会主義体制に抵抗する市民運動が起きました。資本主義にせよ社会主義にせよ、人間を解放し豊かにするなどと自称してはいるが、そんなものはしょせん物語にすぎないじゃないか。嘘っぱちはもうやめてくれ------。そういう空気が、ポストモダニズムを主流に押し上げたのです。
フーコーはもともと精神医学の歴史、つまり学問によって「おまえは狂人だ=『普通の人間』ではない」として烙印を押すという実践が、どのように始まったのかを研究した人でした。また本人が同性愛者、つまり「あなたの欲求は『人間として自然な欲望』(異性愛)とは違う」というレッテルを貼られがちな存在だったことが、研究に反映したという見方もあります。私たちは人間性を尊重すると言いながら、その実、再帰的に作り上げた「人間」のイメージに合致する人々だけを依怙贔屓し、それ以外の人たちを「人間らしくない」と貶めていないか、というのが、フーコーのモチーフだったのですね。

これも言いたいことは分からなくはないんだけど、でも、そのことと「抽象的な人間の定義ができない」ということから、このブログの最初に書いていたような、なんらかの「地域」的な

  • リアル

な感覚に対する<情報>が、一切、考慮の外になってしまうわけでしょう。つまり、東京人の関西出身系と東北出身系の

  • 共通項目

がないから、その最小公約数的な

  • 抽象的人間

が定義できない、アナーキズムだ、みたいな話をしてても、しょうがないんじゃないですかね orz。

たとえば法哲学者の小林和之氏は『「おろかもの」の正義論』の中で、読者にこんな想定問答を出しています。

あなたがこの国の指導者だったとする。ある夜枕元に魔神が現われてこう言ったとする。「お前が毎年一〇〇〇人の国民の命を差し出すと約束すれば、国を繁栄させ、すべての国民が豊かな暮らしをできるようにしてやろう」。あなたは約束に応じるだろうか(問題を単純化するために、魔神は必ず約束を守るということにする)。(115頁)

そんな奇妙奇天烈な、と思ったでしょうか。しかし小林氏の伝えたいことは、実際には私たちはすでに、このような取引をしているということなのです。
現在の日本で交通事故で亡くなる人の数は、年間4000人台。自動車の利用を禁止するなり、そこまでいかなくても「時速30キロ以上のスピードを出せんくする装置」の搭載を義務づけるなりすれば、うち1000人以上の命を救えることは、確実でしょう。そもそも事故自体が減るし、時速30キロの運動エネルギーは60キロの場合の4分の1なので、怪我の程度も下がるずだと、小林氏は指摘します。
しかし、私たちは現に(いまのところ)それをしていない。つまり、高速の自動車を用いた移動や物流の利便性がもたらしてくれる「国の繁栄」の方を、「毎年一〇〇〇人の国民の命」よりも優先るという決定を、私たちは無意識のうちに選択していたのです。
小林氏はこの問題を、「こういうふうに聞かれたら、『まさか。魔神に生け贄を捧げる国家なんてありえない』と思うでよう。でもね」という文脈で出しています。しかし私が驚いたのは、授業の場で実際に聞いてみると「約束に応じます」と答える学生が、意外に多いことでした。気の利いた学生になると、「......その国の総人口は何人ですか」などと聞いています。年に1000人の犠牲があっても、それによって幸福になれる人数がもっと多いなら、かまわないという趣旨でしょう。
「なんて非人間的な連中だ」と憤られたでしょう。正直に言えば、私も最初はそう思いました。しかし前章で見たように、なにが人間的でなに非人間的なのか自体もま、今日の社会では再帰的にしか決まらない。実のところ、彼らはそのことに薄々気づいているからこそ、「ならしょうがない、選択しだいで生け贄もありだ」と感じていたのかもしれません。

しまいには、この著者は、この

  • 抽象的人間なんて存在しない(=再帰的であるがゆえに定義できない)

という、「懐疑論」の果てに、だったら、

  • 人身御供も「ありじゃん!」

とかまで言い始める。この著者においては、ナチスユダヤ人虐殺という

  • 人身御供も「ありじゃん!」

とまで言い始めかねないんじゃないのか orz。
しかし、そうまでして「日本人」だとか「人間」だとかの抽象的な定義って、大事なんですかね。そういうものがないと「安心」できないものですかね。安心して相手と話ができないものですかね。分かりあえない部分があると、仲良くできないものですかね。それなりに、相手の無礼を「許容する」鷹揚さを自明だと思えないものですかね。
上記の、例えば、精神病患者にしても、同性愛者についても、たとえ少しずつでも、それなりに社会的に認知はされてきて、状況は改善してきているんじゃないだろうか。その程度じゃ、本質的じゃないんで、「足りない」ってことなんですかね...。

日本人はなぜ存在するか 知のトレッキング叢書

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