ケント・グリーンフィールド『<選択>の神話』

私たちは日々、何かを選択して生きている。それを「自由」と言ったりもする。しかしこの、「選択」と

  • 自己責任

という言葉の間には、なにかしら、私たちを混乱させる相性の悪さを感じなくはない。
なぜ、この二つは、私たちに後味の悪い感覚をもたらすのか。それは、そもそも「選ぶ」ということが、何を意味しているのかが、今一歩、意味不明だからなのだ。

ここで二〇〇五年八月に巨大ハリケーンカトリーナがメキシコ湾岸を襲ったときに起きたできごとを例にあげよう。カトリーナアメリカ史上最悪の自然災害だと主張する専門家もいる。ともあれ、もっとも大きな被害を受けたのは、ハリケーンが上陸する前日に強制退去命令が出たにもかかわらず、自宅に留まることを選んだおよそ二〇万人のニューオーリンズ市民であった。そしてその大半は貧しいアフリカ系アメリカ人たちだった。
ひとたび堤防が決壊すると家は水浸しになり、彼らは家財道具を失い、生命の危険にさらされた。最終的に、ほぼ二〇〇〇人が命を失い、生きのびた者も屋内スタジアムやその他の場所で劣悪な環境に耐えばがら、救助を待たなければならなかった。
そしてその翌日、災害の責任を被害者自身に負わせようとする見解を表明したコメンテーターが何人か現れた。
アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁FEMA)のトップ、マイケル・ブラウンは「死者の多さは、予報に注意を払わなかった人がいたという事実に起因するところが大きい」と述べ、リック・サントラム上院議員は「自宅に留まることを選択した者は刑事罰を受けるべきだ」とコメントした。
保守的な『ワシントン・タイムズ』紙は、「何千人ものニューオーリンズ市民が(......)自己責任を全うできなかった」という無情な論説を掲載した。
犠牲者は自分のせいでもたらされた貧困によって自らを窮地に立たせたと主張し、さらに手厳しい見解を表明した者もいる。
ラジオトークショーのパーソナリティ、ニール・ポールツは、「アメリカ国民は犠牲者に対して援助を惜しむべきではない」と述べながらも、「だが、そもそも自らをそんな窮地に追いやった、彼らの生活態度を見過ごしてはならない」とつけ加え、さらに「カトリーナは私たちすべてに、(......)貧困が行動障害だということを示したのだ」「私たちがニューオーリンズで目撃したのは、貧しい人々をそもそも貧しくした、まさにその態度を実際に示したということだ」と畳みかけた。
これらの見かたにしたがえば、カトリーナによってもたらされた惨劇の責を負うべきは、犠牲者自身だということになる。貧困生活を強いられてきたのは自分のせいであり、退去を拒否した彼らの決断は、これまでしてきた誤った選択のうちの一つにすぎないというわけだ。
災害直後の何日かは、この「犠牲者自身の責任」という見かたがそれなりに強かった。堤防が決壊してから一週間後に刊行され『タイム』誌に掲載されていた世論調査によると、ハリケーンの犠牲者には、救助活動がうまくいかなかったことに対して何らかの、あるいはかなりの責任があるという見解に、アメリカ国民の五七パーセントが同意している。
しかし、このような見解は長くは続かなかった。「自己責任」という呪文は(おもに保守主義者が唱えていたものだが)、この場合ほとんどの人にとって説得的ではなかったのだ。一般にアメリカ人は、ニューオーリンズの犠牲者に対して同情や共感を覚えていた。その当時ですら、支配的な論点は、嵐を乗り切った人々の選択によりも、政府の役人の手際の悪さに置かれていた。
ここで、私たちの同情は、そこでは選択がまったくなされていなかったという見解に基づいているわけではない点に注意されたい。ヘンリー・ラムソンが危険な仕事を続けることを選択したのとちょうど同じように、自宅に留まった人々は実際にそうする選択をしたのだ。困難な立場に立たされたカトリーナの犠牲者たちは、他に適切な代替手段がなかったとはいえ、選択したことにちがいはない。
しかしハリケーンが襲来してから数日間、テレビの前に釘付けになって惨状を目撃していた人のほとんどは、選択と自己責任の相違を理解したようだ。あるいは、次のようにいうべきかもしれない。選択が真正なものになり、自己責任がとれるようになるには、当時のニューオーリンズの住民が実際に手にしていたものよりも多くの情報と代替手段が必要だったということを悟ったのだと。
自己責任という呪文が的はずれになる理由はたくさんある。たとえば、退去命令はハリケーン上陸の二〇時間前に発令されたにすぎず、そのためにニューオーリンズ市民の四人に一人はハリケーンに襲われるまで退去命令について何も知らなかった。つまり自宅に留まった人の大多数はそもそも退去しようがなかったのであり、またたとえできたとしても、避難先として親戚の家や友人宅などのあてがあった人は二〇パーセントにすぎない。
ホテルの部屋を借りるのに十分な資金を蓄えていた人はほとんどおらず、利用可能なクレジットカードを所有していたのは二八パーセント、銀行に口座をもっていたのは三一パーセントにすぎなかった。
また、自宅に留まった人々の多くは、介護が必要な人の世話をしていた。もちろん堤防の安全性については、長年にわたっていい聞かされていた。これらをふまえて公平に考えてみると、カトリーナの襲来を前にして自宅に留まった人の、すべてではないにしても大多数に関しては、選択をしたといえるとすれば、それはもっとも単純な意味においてにすぎない。
実際、犠牲者が同情を受けるのにこのような事実が広く知られる必要はなかった。つまりアメリカ国民のほとんどは、洪水の被害者には他の現実的な選択肢はなく、当人のした「選択」によって被害者が責められるべきではないということを、単純素朴にではあれ心の底から理解していたようだ。ハリケーンの一年後の世論調査では、政府と役人が責めを負うべきとする意見が大半を占め、第一の責任を住人に求める見解は二二パーセントにすぎなかった。

よく知られているように、アメリカは南北戦争という内戦を除いて、自国の領土が、戦場になったことがない。そのアメリカにおいて、ハリケーンカトリーナこそ、最も被害の甚大だった災害だと言える。そして、このハリケーン以降、当時のブッシュ大統領は、国民の求心力を失い、民主党オバマ大統領の誕生へと繋がった。
カトリーナは、非常に多くのアメリカ国民の犠牲者を生み出した。そして、この災害の特徴は、そうやって被害に会われた方の多くが、貧困層だったことである。
このことから、カトリーナの被害の直後、上記の引用にあるように、アメリカ社会は、非常に奇妙な議論が蔓延することになった。つまり、被害者自己責任論である。被害者が被害にあったのは、彼らが逃げようとしなかったのだから、

  • 自業自得

だ、と言い始めたわけである。彼ら「ブルジョア道徳家」たちは、それは、貧乏人たちが「選択」を誤ったのだから、彼らは死んで当然だ、と言って、援助は限定的であるべきだ、という論陣をはった。
しかし、このことが興味深かったことは、実際に、ブッシュ大統領自身がこれと同じような発言をして、顰蹙をかっていたことであろう。それから、共和党の衰退と、オバマに代表された民主党の躍進までの道は、早かった。
このことは、何を意味しているのだろうか?
つまり、アメリカ国民は、共和党が代表していたような「ブルジョア道徳」の「うさんくささ」に気付き始めた、ということである。
「選択」とは、なんなのか?
例えば、こんなことを考えてみたら、どうだろうか。ある、未開部族があったとする。その大きさは、せいぜい、50人くらいとしよう。この未開部族に「カトリーナ」が襲ってきた、としよう。もしも、その情報を、その中の一人が、たまたま知って、逃げたとする。ところが、残りの49人はなにも知ることなく、普段の生活をしていたため、嵐に巻き込まれて、死んだ、とする。
この場合、生き残った一人は、「合理的」であろうか? というのは、たった一人が生き残ったとしても、その一人もいずれ、年老いて、子孫を残すこともできず、死ぬだけであろう。つまり、その部族の「全滅」に結果してしまう。
死んだ人は、死に至るような「選択」をしていたから「自業自得」だ、といったような、「自己責任論」は、そもそも、そう言うことによって、何を含意しているのか、を見失う。つまり、上記の例が、例えば、地球上の人間全員において起きた場合を考えてみればいい。死んだ人間は自業自得だと言ってみたところで、それが、なんだということになるか。
「選択」とは自由に関係している。しかし、前回書いたように、その自由とは「過去の記憶」の確認を反復することと同値なのであって、つまり、思い出すという「想起」と区別できない、ということである。
つまり、大事なことは「納得」なのである。
「選んだ」と言った場合、その選んだ、と自分が思っているその「強度」がどれくらいかによって、自分にとっての「納得」の度合いが、格段に違ってくる。
この「納得」具合が、実際に、裁判や法の裁きにおいて、重要視される。ある商品を売る場合に、お客が、一回買ったが、二三日後に、「やっぱり止めたい」と言ってきたとき、キャンセルを許すかどうかは、その「納得」の強度に大きく影響を与える。
「選んだ」という感覚は、時間をかけて、落ち着いて振り返ってみて、それでも「その選択は、だれかに強いられたから、しょうがなくやったんだ」ではなく、「自分で選んで良かった」と反復できるくらいの「強度」を持つことを、時間を空けて、何度も反復されるものがあったとき、

  • より大きな「自由」の結果だった

と思い出される。よって、その結果に対する「自己責任」も、同じくらいに、納得されるのである。
よって、最も慎重は商売人は、商品の購入者に、どこまでの「キャンセル」」の余地を与えるかによって、相手の納得が深まり、難癖をつけてくる客を減らせて、

  • 商売上のトラブル

を回避できる選択を与え、円滑にビジネスを成功させる結果へと導くことを含意している、ということになる。
しかし、この逆のことを示唆している場合があるが、それが以下である。

やがて法廷は、レイプにおける強要が身体の力のみによるのではないことに気づく。ニュージャージー州で行われたある裁判では、一五才の少女が「家に遊びにきた一七才の少年が、眠っているあいだに性行為に及んだ」と証言している(この少女は同意年齢以上で、二人とも一八才に達していなかったため、少年の行為は制定法上のレイプには該当しなかった)。それに対して少年の証言は、「彼女は眠っていなかった」「性交渉に同意した」「自分は身体的な力を行使していない」というものだった。
法廷はこのケースを「顔見知りによるレイプ(acquaintnce rape)」と呼び、レイプの最中に身体的な力が行使されたことを犠牲者が証明する必要はないと裁定する。そして問題の焦点は、犠牲者と申し立てている女性が「自由意志によって積極的に性交渉もつ許可を与えたかどうか」に移る。
この基準が、身体的な力の行使という証拠よりもすぐれていることに疑いはない。しかし、「自由意志によって与えた許可」とはいったいどういう意味かを定義しなければならないという問題に戻ってしまう。これは解決がきわめて困難な問題で、法の範疇では、性交渉の前に真の契約交渉に類する何かが行われていることが必要とされると示唆する専門家もいるほどだ。

レイプなどの暴力犯罪の場合、たとえ、「それは、自分が熟慮して到達して行った行為ではなかった」としても、その暴力を行った当人に、非常に重い罰が与えられることになる。
それは、その行為が、相手に与える「衝撃」が、直接的であり、重大だから、と考えられる。
このことは、何を含意しているだろうか?
私たちは、たとえば、だれかと同じ部屋で過していれば、感情的になって殴るという事態に発展しやすい。しかし、お互いが、同じ空間にいなければ、そういった事態にはなりにくいであろう。
つまり、そもそも、同じ空間を長く共有するという「選択」をするには、それなりの「覚悟」がいる、ということを意味する。つまり、あまり気心の知れない人とは、そういった事態になることを警戒して生きなければならない、ということを含意しているわけである。
同じようなことは、例えば、お酒を飲むこと、ドラッグをやることにも言える。こういった行為をしておきながら、反社会的行為をやらないための自制心が確実に保てるかは、そもそも、当人の心掛けだけでは、どうにもならない範疇がありうる。だとするなら、そもそも、社交的な場で、こういうことをやること自体が、どこか「マナー違反」の部分があることを意味しているのであろう。

ここで悲しい話をする。アメリカ陸軍で事務員をして働いてい赤毛の三六才の女性、レーリン・ベルフォアは、数年前の三月のとても寒い日、仕事を終えてバージニア州シャーロットビルのオフィスを立たときには疲れ果てていた。前日の夜、ベビーシッターをしに友人の家に行き、それからかぜをこじせてい九ヶ月になったばかりの息子ブライスの面倒をみていたために、その晩はほとんど寝ていなかった。
オフィスの駐車場に朝から停めておいた車のドアを開けたとき、それは彼女の人生における最悪の瞬間になった。車の座席でブライスが死んでいたのだ。
バルフォアはその朝、託児所にブライスを預けるのをうっかり忘れて、車に置き去りにしてしまった。その日の気温は一五度だったにもかかわらず車内は四〇度を超える暑さになり、その熱のためにブライスは死んだというのが、ことの真相だった。
ちょうどそのときそばを通りかかった人が救急車を呼んだときの録音記録が残っているが、かたわらで「神様どうして......どうして! どうして! どうしてこんなことに!」と泣き叫ぶバルフォアの声が聞こえ、胸が張り裂けそうになる。
バルフォアの犯し恐しいあやまちはそれほどまれではなく、アメリカでは年間に一五 ~ 二五件ほど同様の事故が発生している。それは通常、たとえば親が疲れていた、ストレスが溜っていた、親の注意が散漫になっていた、日常生活に何らかの変化があった、安全対策に何らかの問題があったなど、二、三の偶然が重なって起こる。

確かに彼女の行動には、通常の意味における「意図」がともなっていなかっ。「彼女は車のなかにブライスを置き去りにすることを<選択>した」といういいかたは、事故の本質をとらえておらず、彼女が置かれていた状況に対応する公正な判断とはいえない。
バルフォアに無罪をいい渡した陪審は、神経科学の知識をもっていなかったとしても、その点を直感的に理解していたと、ほぼまちがいなくいえる。陪審員は、バルフォアには三月のその日に起こったできごとに対する責任がないと必ずしも考えていたわけではない。そうではなく、自責の念に駆られている彼女に、さらなる処罰を科すことが適切だとみなせるほど、責任の程度は重くないと判断したのだ。それは刑務所行きに値するほどの罪ではなく、私が陪審員だったとしても、無罪を主張したことだろう。

上記の母親は、確かに、自分の子供が死んでしまったわけで、もしも、その母親がミスをしなければ、子供は死ななかったであろう。しかし、その事態をどこまで、彼女の注意で回避できたのかは、少しも自明ではない。つまり、上記の引用にあるように、「彼女の<選択>によって、彼女の子供が死に至った」と言うには、あまりにも、この場合に

  • 選択

という言葉はふさわしくない、ということなのである。

私たちの感覚では、より意図的であればあるほど、その行為を実行した人に、より重い責任を負わせるべきととらえている。そしてこの感覚は法に反映されている。したがって慣習法の道徳的な直感は、脳についての最新の理解と矛盾しない。つまり犯罪実行の選択に、より高度な脳の部位が関与していれば、被告はより罪が重いとみなされるのだ。脳の機能にたとえると、「殺意」とは、犯人の前頭前皮質が関与していることを意味し、大脳基底核は、せいぜい故殺が可能にすぎない。
映画『羊たちの沈黙』(米・一九九一年)でアンソニー・ホプキンスが演じたハンニバル・レクターが、映画史上もっともみる者の背筋を凍らせる犯罪者の一人とみなされているのは、彼があまりにも冷徹な計算マシンだからだ。彼が犯した殺人は、出まかせの反射的な行為によるものではなく、用意周到に計画実行されたものだ。そして彼は犠牲者の肝臓をソテーにし、「ソラマメをつまみに、よく冷えたワインに乾杯」する。

なぜ、上記の例の場合、その犯罪が「悪質」なのか。それは、この場合の犯罪が、十分に熟慮された上で行われているから、である。つまり、計画犯罪は、衝動的犯罪の比べ物にならないくらいに悪質と考えられる。この含意するところは、非常に大きいであろう。
上記のカトリーナにおいて、多くのブルジョア道徳家たちは、被害にあわれた、貧困層を「道徳的」に責めた。この冷酷な仕打ちは、結果として、アメリカ社会によって、糾弾されたわけだが、その冷酷さは、どこか、『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクターに通じるものがある、とさえ言いたくなるであろう。
しかし、そこには、微妙ではあるが差異がある。というのは、カトリーナで被害にあった貧困層の「道徳」を責めた、ブルジョアたちは、興味深いことに、彼らは彼らで、

  • 大真面目

に、「道徳的」に説教をしていた、ということである。
もしも、3・11の津波によって被害にあった人たちを助けることを「弱者救済しすぎる」などと言う人がいたら、あなたはどう思うだろうか? これが「ブルジョア道徳」である。ブルジョア道徳の特徴は、彼らは「非道徳家」であることを意味していない、ということである。むしろ、彼らは、極端なまでに

  • 道徳家

である場合が多い。しかし、その場合に、彼らがこだわっている「道徳」の中身が、大衆と違うのである。彼らは大衆の「がさつさ」が耐えられない。社会のルールとして、そんなことをしてはダメだろう、と思うことに関しては、徹底的にダメ出しをする。
しかし、他方において、上記のカトリーナで、被害にあわれた人々を助けるか助けないか、とか、明らかに、原子力発電所を動かし続ければ、被害を受けることになる地元の裕福とはとても言えない人たちがいることが自明であるにもかかわらず、原発を動かすかどうかは、

  • 選択の範囲

の話なのである。つまり、原発が動こうが事故を起こそうが、その被害にあうのは、田舎の人間である限り、都会に住む富裕層には関係ない。よって、「ブルジョア道徳」にとって、原発を動かすという「選択」は、

  • そういった富裕層に「とって」の「最大多数の幸福」

ということになり、功利主義的に「合理的」というわけである orz。

〈選択〉の神話――自由の国アメリカの不自由

〈選択〉の神話――自由の国アメリカの不自由