私に理解できないのは、どうして「社会の複雑性」という結果から、今までの社会分析手法が通用しなくなったという話から、なぜか、より
- 単純
な原理によって、「それ」を説明することになるのか、という、素朴な疑問であった。
例えば、モダス・ポーネスについて考えてみよう。Aである。AならばBである。よって、Bである。ここで、問題なのは、「AならばB」である。なぜなら、「社会は複雑」だからだ。つまり、「AならばB」は、場合によっては正しくても、そのままでは正しくない。つまり、定言命法ではなく、仮言命法だ、と。条件付き真理だ、と。
つまり、「AならばB」は正しくない。否定神学と同じで、この命題を正しく言い代えると、
- 「AならばB」ではない
ということになる。しかし、そう言ってしまったら、どうなる? 「社会は複雑」なんだから、むしろ、
- あらゆる「AならばB」は正しくない
ということを言っているだけなんじゃないのか、という感じがしてこないか。つまり、「否定」というのはマジック・ワードなのだ。どんな命題も、その固有名を完全に記述することはできない。ということは、あらゆる(非固有名的)命題は、その「否定」が正しい、ということになってしまう。
つまり、「理論の否定」である。
しかし、私たちは、事実、こういった事態を「生きている」。つまり、困っていない。もちろん、本質的には困っているのかもしれないが、
- 実践
においては、なんとか生きているではないか。
ということは、どういうことか?
なんらかの、「回避策」によって、この事態を乗り越えている、ということであろう。
一般に、「AならばB」が「正しくない」と言った場合、どういった含意があるだろうか。まず、一般に普通に考えられるのが、
- 条件が弱い
というケースであろう。この場合、「AならばB」がまったくもって、相手にされないことを意味していない。つまり、この命題に、なんらかの「リアル」を感じているから、その人は、これを主張しているのであって、その直感はそれなりに、意味があると考えられるわけである。つまり、「AならばB」の「A」に、なんらかの制限をすれば、この命題は正しい、というふうに感じられている、ということである。
- (AかつC)ならばB
(もちろん、こう言うと、人いよっては、違和感を覚えるであろう。というのは、今度は、「AかつC」が、今までの議論の「A」に変わっただけだから、また、同じ疑問が起きると思われるからだ。しかし、それについては、後半で考えたい。)
こうして、
- (AかつC_1 かつ C_2 かつ ...)ならばB
とやっていくことで、「きっと」、「本当の真実」に到達できる、と考えるわけである。
さて。これと、まったく違うアプローチがある。それが「確率論」である。つまり、こうだ。
- 0 ≦ P(AならばB) ≦ 1
つまり、「AならばB」が「正しい確率」が、どれくらいなのか、と考えるわけである。「AならばB」は、「いつも」正しいわけではない。しかし、正しい場合がある。こういった場合、モンテカルロ法と言って、その
- 標本事象
をたくさん集めて「標本空間」を作るわけである。すると、以下が判定する。
- (正しい場合)/(全ての場合)
これが「確率」である。しかし、こういった議論に、なにか、おかしな印象を受ける人がいるなら、そういった人は、学校の確率論教育に毒されていない、ピュアな感性の残っている人と言えるだろう。
上記の議論の何が、おかしいのか。それは、「正しい」という表現が、
- 未来においても、この「AならばB」は、普遍的に成り立つ
ということだからだ。上記の「確率」なるものは、何をやっているのか。せいぜい、「過去」の「記録」を集めたにすぎない。そのことが、なぜ、未来における「真理」を担保するのか?
しかし、多くの人たちは、そのことに疑問をもっていない。それは、そのことには、なんらかの「合理性」があると、人々が考えているからなのだ。
それが、次の、3番目に検討する「ヘーゲルの弁証法」である。
ヘーゲル哲学において、矛盾は少しもおかしなことではない。つまり、矛盾のない理論はありえない。むしろ、矛盾があるから、理論が「次に動く」、つまり、変化する。理論自体が変わる。つまり、最初から、完全な理論を想定していない。これは、ある意味において、今の学問にだって、成り立つであろう。
ということは、どういうことか? ヘーゲル哲学は、ある矛盾なる命題があったとき、つまり、反対の命題が措定され、その二つの「軋轢」が、
- 時間
という過程を経ることで、「次のステージに移る」ということを含意する。つまり、ここで大事なことは、この矛盾は「その文言上」完全に解決された、ということを少しも意味しない、ということなのだ。たんに、問題は、別の方に移った、と言っているにすぎない。
ヘーゲルの弁証法は、なにか「真理」が、この世界にあり、私たち人間は、その真理に、いつか「到達」することを主張するものではない。そうではなく、これは、言わば、その、
- 公理系が、「時間」と共に(言わば、ミームとして)変化していく
ということを言っているのである。ヘーゲルにとって、大事なのは、実践である。つまり、この「人倫としての市民社会」である。この市民社会の
は、そう簡単ではない。地球上の動植物が、次々と、絶滅しているように、人間のこの市民社会も、いつか、「絶滅」することが考えられる。ヘーゲルが言っているのは、いわば、この「絶滅」を避ける、(アニメ「廻るピングドラム」のフレーズで説明させてもらうなら)「生存戦略」を考察したのが、彼なのである。
ヘーゲルの頭の中にあるのは、そもそも、この社会の「真理」が何か、ではない。彼の頭を占めているのは、どうあることが、この社会を生き残らせられるか、である。つまり、彼にとって、それに「応じて」、この社会のアジェンダが、日々変わっていく、と考える。つまり、
- 公理系自体に、確率過程(=時間軸)がビルトインされている
ということである。つまり、公理系は、確率空間として、日々、「情報の増大」に応じて、変化していく。昨日、問題であって、まったく解決の糸口もつかめなかった問題が、なぜか、今日になると、だれも議論しなくなり、しかし、その代わりに、別の、さらにまた、まったく解決の糸口も見出せないような課題の議論に代わっていく、というような形態を示す。
こういった主張は、ある意味で、非常に「現代的」なアプローチに聞こえる。つまり、これは、
- 世代論
のことを言っている、とも読めなくもないわけである。世代論は、基本的に時間軸に対応する。ゼロ年代批評が、基本的にゼロ年代における「若者論」であったように、全共闘の60年代には、その時代の「若者論」と対応していたわけだが、しかし、そのことはゼロ年代においても、その60年代の「世代論」として、つまり、その世代の「状況」として、関係していないわけでもない。
そもそも、「AならばB」が正しいかそうでないか、というのを、時間軸で考える、という発想は意味不明である。というのは、時間が進めば、
- 私たち自身が変わっている
から、である。つまり、それは自分という「同一」性を前提にしているわけで、もっと言ってしまえば、はるか未来において、「AならばB」という
が同じなどと、言えるわけがない。AやBが含意しているものが、まったく違った「意味」で、流通しているかもしれない。しかし、その場合に、同じ「AならばB」というシニフィアンを同列に議論することに、一体、なんの意味があるのか、ということになりかねない。
こういった状況を、パラダイムとかエピステーメーと呼ぼうが、どうでもいいことだが、ヘーゲルに言わせれば、どっちだろうが、この近代市民社会が生き残り、維持されているなら「どっちでもいい」ということなのであろう...。