ミームの時代

リチャード・ドーキンスの「ミーム」概念は、ようするに、生物の遺伝子戦略を、私たちの文化、特に、「言語」の伝播過程に対して、応用したものと考えられる。例えば、ある「流行語」がある。この流行語には、どれだけの「強度」があるのかを、実際に、その言葉が「流通」し出してから、すたれて、だれも使わなくなるまで、どれくらいの期間であったのか、といったことを考察するのに、生物の進化論の「比喩」を使った、ということである。
こういった方向の見通しのよさは、どこか、フランス現代思想における構造主義や、ルーマン社会学とも共鳴する所がある。つまり、こういったアプローチは、個人の「内面」や言葉の「意味」の

  • 解釈学

を経由せずに考察できる、というところが利点であり「本質」でさえある、と言えるのではないだろうか。
現代思想は、言ってしまえば、ヘーゲルのタームという「ミーム」によって、「汚染」されている。実際に、現代思想関連の論客の言葉を聞いてみれば、二言目には、「欲求」「承認」である。しまいに、心理学者も、こんな感じだ。しかし、問題は、デカルト以来の、「欲求」「承認」という言葉で、一体、何を説明できているのか、なにを「演繹」できているのかが疑わしい、ということなのだ。そういった「形而上学」を、そもそも

  • 仮定

しなければ、説明できないような現象なのだろうか? これは、私たちの考える「政治学」とは、ひとまず、「無縁」の態度と考えるべきなのではないか。
私は、むしろ、「哲学」こそ、非常に問題の多い、純粋に「政治学」を「汚染」してきたと考えている。「政治学」は「哲学」に還元されない。そういった、「政治」を哲学で「説明する」といったような態度、こういった「哲人政治(=エリート主義)」こそ、他者の多様性を排除するファシズムだと考えるわけである。
細川元総理と、小泉元総理による、街頭演説が話題になっているが、彼らが、老体に鞭を打ち、街頭で話をすることで、多くの人々がその話に聞き入る。これが「ミーム」である。ミームは一種の「動員」である。
そして、おそらく、こういった「情報」は、基本的に数値化されていくであろう。ツイッターで、細川元総理や小泉元総理が、街頭演説で、何を話したのかを聞く。
すると、何が起きるか。
しばらく、なんの反応もせず、じっとしていたその人が、ある時期から、急に、まるで、口パクでも始めたかのように、細川元総理や小泉元総理の街頭演説の言葉のフレーズを、次々と、饒舌に、つぶやくようになる。
これが、「ミーム」である。
まるで、ミラーニューロンのように、非常に「似ている」、シミラリティが高い、というわけである。なぜか、そうなのだ。それが、まるで、流行病のように、次々と周りに伝染していく。
ミームの大事なポイントは、その内容とか、「心の中」を問うていないところにある。構造主義の言葉で言えば、シニフィアンにしか興味がない。徹底して、シニフィエを相手にしない。
こういったアイデアは、東浩紀さんの「一般意志2.0」と非常に近いと言えるであろう。「一般意志2.0」は、フロイト心理学における「無意識」を重要視していたが、そのアイデアは、基本的に、肯定と否定は「同じ現象」と考えるところにあった。つまり、その「ミーム」は一緒なのだ。
たとえば、ネット上では、細川元総理の半可通な、「放射脳」知識の披瀝を、いちいち、拾って、dis っている「心情的原発推進派」の、科学関係者が、おそらく、東京都知事選挙が終わるまで、意気軒昂に、その

  • トンデモ

を嘲笑し続けるであろうが(それにしても、細川元総理も小泉元総理も、彼らの何倍も年長の先輩だと思うのだが、彼らのあの「態度」は、そういった年長の方々に対するものなんですかね。長幼の序も知らないのかなw。自分たち科学者こそが、福島第一の事故を「原理的」に予測していたにもかかわらず、まったく、警鐘を鳴らしてこないで、多くの人が土地を手放す事態にさせておいて、そういった<若者>たちの不作為を、先輩たちが、過去の恥を忍んで、ネットを使いこなすリテラシーもない中で、必死に探した知識で、訴えているのを、さらしものにして、笑い者にするわけですか。一体、科学者は、いつから、そんなに「偉く」なったんですかねw)、しかし、大事なことは、そういった

  • マイナスの反応

も、同じ「ミーム」なのである。そういった、肯定と否定を一緒に含んで、「ミーム」は、進む。彼らが嗤えば嗤うほど、「ミーム」は成長する、というわけである...。