アレクサンドル・コジェーブ『ヘーゲル読解入門』

(まだ、前半を読んでいるだけだが、いったんまとめる。)
ヘーゲル精神現象学は、もし、本を手にとって読もうとしたことがある人なら分かると思うが、はっきり言って、人が読める本ではない。どうしてこういうことになったのかは、なかなか、想像のおよばない範囲の話であるが、とにかく「悪文」であることは、人々の共通理解となっている。
じゃあ、多くの人はどうしているのか、ということになるが、実は、だれもが知っている「アンチョコ」があるのである。それが、掲題の本だ。つまり、みんな精神現象学を読んでいない。そんなものを読まないかわりに、掲題の本による精神現象学の解説を読んで、「あー。そーいうことが書いてある本なんだー」と納得する、ということである。
そして、おもしろいことに掲題の本は、けっこう「普通」に読めるのである。こっちだと、なんというか、なにか言いたいことが分かる感じがするわけで、というのも、いわゆる、本当の「マニュアル」ではなくて、多分に、コジェーブという人の「言いたいこと」によって、

のように、恣意的に編集されている、ということなのだが。
つまり、大事なポイントは、ある時期から、「ヘーゲル」と言えば、このコジェーブ本のことを意味するようになったのだ。実際、この本は、それ以降、非常に多くの哲学者に影響を与える。むしろ、現代思想とは、この本の延長で考えた人のこと、みたいなくらいまで、と言えるくらいに。
では、コジェーブのアイデアとは、どこにあるのであろう。

これはつまり、人間が人間的であるのは、他の人間に自己を押しつけ、彼に自己を承認させようとする限りでのことである。当初、いまだ実際に他者に承認されていない限り、彼の行動の目標はこの他者であり、彼の人間的な価値と実在性とはこの他者に、この他者の承認に依存しており、かくて彼の生命の意味はこの他者の中に凝縮される。だからこそおのおのは「自己の外に」あるわけである。だが、各人にとり重要なものは自己固有の価値、及び自己固有の実在性でり、各人はそれらを自己において所有しようとする。そうである以上、各人は自己の「他的存在」を廃棄しなければならない。すなわち、各人自己を他者に承認させねばならず、他者に承認されたという確信を自己においてもたねばならない。だが、このような承認が各人を充足させるためには、各人が他者もまた人間的存在者であることを知らなければならない。だがしかし、当初、各人は他者の中に動物的側面しか見ない。この表面の背後に人間的実在性が潜んでいるということを知るためいは、他者もまた自己を承認させようと望んでおり、この他者もまた自己の動物的生命を危険に晒し、それを「否定」して、自己の人間的な自分だけでの存在の承認を求めて闘争に参画する用意ができているということを見なければんらない。したがって、各人は他者に「挑み」、他者をったくの尊厳のための生死を賭しての闘争に引き入れねばならない。そしてこの闘争の中に他者を引き入れた後、自己が殺されぬためには、他者を殺さざるをえない。したがって、このような状況においては、承認のための闘争は、敵対者の一方ないし双方の死による以外には終わることがない。

ホッブズは、社会契約論の最初において、それは、人と人との「闘争」なのだ、と言った。つまり、闘争の回避が人々の間に、社会契約という秩序をもたらす、と。
この命題を巡って、その後、ロックやルソーなどが、この社会契約論というアイデアについて、さまざまな、多様な方向で論考を進めたわけだが、ある意味において、ヘーゲルもその一人と考えられるのではないか、というのが、コジェーブの発想なのかもしれない。
言うまでもなく、私たちのこの社会のどこにも、ホッブズが想定したような、「闘争」状態ではない。つまり、この社会は、すでに社会契約が「されてしまった」社会であり、どこにも国家がある。だとすると、非常に奇妙なことになる。つまり、ここで考察している「原始状態」というのが、なんなのかが分からなくなるのだ。これに対して、ルソーは、素朴に「自然人」を想定する。つまり、彼にとっては、その「原初状態」は、はるか太古の昔という「イメージ」の中に閉じこめてしまった。つまり、こういった「原初状態」の実在論争を止めてしまった。
それに対して、コジェーブの解釈するヘーゲルは、いわば、この問題を、人間が赤ん坊から「大人」になるまでの、心理の「成長」と対応させて、考察しようとした、ということになるであろう。
つまり、人と人が常に「闘争」をしている「原始状態」とは、言わば、赤ん坊の頃の、私たち、というわけである。つまり、赤ん坊こそ、ルソーの言う「自然人」だというわけである。
そうなると、この赤ん坊が、どうやって「人間」になるのか、が問題になる。赤ん坊は確かに、傍若無人である。というか、最初は他者の区別もない。ある意味において、子供ほど「凶暴」な存在はない、というのはそういうことで、私たちは、どこかの時点で、「人間性」を獲得してきた。
それは、言ってみれば、自己と他者の区別ができるようになる過程であり、もっと言えば、「自己意識」を意識するようになる過程でもある。
では、どうやってこの「闘争」状態が、なんらかの「平和」に至れるのか。コジェーブはこれについて、ヘーゲルが、精神現象学において、暗示的に、ちらっと触れた、「主人と奴隷」の弁証法を非常に重要視する。

欲望[つまり闘争[以前]の孤立した人間、すなわちただ自然とともにあり、そのもろもろの欲望が直接この自然に向けっれていた人間]がよく為しえなかったことを、[奴により変貌せしめられた物に欲望を向ける]主は為し遂げてしまう。主は物を費消し尽くすこと、享受において自己を充足せしめることを為し遂げてしまう。[したがって、主が自然に対し自由であり、その結果自己に充足しているのは、もっぱら他者(すなわち彼の奴の)労働による。しかし、彼が奴の主であるのは、もっぱらこれに先立って----それとしては----何ら「自然的な」ものをもたぬまったくの尊厳を求める闘争において自己の生命を危険に晒すことで自然(そして自己の自然)から自己を解き放ったがためにほかならない。]欲望は物の自立性ゆえにこれに成功しに。それに反し、物と自己自身との間に奴を導入した主は、その導入により物の非自立性の面とのみ[推理的に]連結し、それにょって物をひたすら享受する。物の自立性の面は、これを労働により物を変貌せしめる奴に任せる。

なぜ、闘争状態の人と人は、ある種の「和解(=国家の生成)」に至れるのか。闘争がなくなったのか? ヘーゲルは、そう考えなかった。つまり、その闘争は、別の形に「アウフヘーベン」された、と考えたわけである。つまり、一方が他方に「負けた」のである。つまり、一方は主人になり、他方は奴隷になったのだ。だから、

  • 安定した

と考えたわけでる。なぜ、この状態は「安定」的なのか。それは、お互いにとって、その関係が維持されることが、それほど、悪くはないから、である。闘争状態はお互い両方の滅びに結果する。だとするなら、いずれにしろ、闘争を止めることが、なによりも求められる。つまり、どっちにしろ、闘争を続けているよりは、主人と奴隷の関係になった方が、

だということなのだ。この「結果」は、非常に興味深い。なぜなら、この「関係」が

  • 完全な闘争状態の終焉

を意味していないから、である。つまり、まだ火種が残っているのだ。ホッブズにおいて、闘争状態「ゆえに」国家の誕生、という

  • ダイナミズム

があった。ヘーゲルの「主人と奴隷」の状態は、いわば、この中間の状態だということである。
この主人と奴隷の関係において、もちろん、奴隷は主人に使われる関係にある。つまり奴隷の「労働」は、主人のものであるわけだが、興味深いのは、主人の「欲望」は、そもそも、奴隷の「欲望」なのだから、つまり、この「関係」の成立によって、主人の「欲望」が変容させられている、ということなのだ。主人は言うまでもなく「自由」であり、奴隷には自由がない。ところが、主人の「欲望」は、奴隷によって、媒介されている。そして、その主人の欲望を満たすことを可能にするのは、奴隷の労働である。つまり、ここにおいて二つのことが起きている。

  • 主人の「欲望」は奴隷の「欲望」を媒介することによって、まったく、奴隷と関係する前のものから、変質してしまっている。
  • そして、その変質した主人の「欲望」は、その奴隷たちの労働に「よって」、欲望を充足してしまっている(主は物を費消し尽くすこと、享受において自己を充足せしめることを為し遂げてしまう)。

この奇妙な「バランス」状態は、ヘーゲルに言わせるなら、そのままの状態で未来永劫、とどまることはありえない。つまり、この状態は、不安定系である。どこかで、破局が訪れる。しかし、それがすぐではないかもしれない。長い時間の果てかもしれない。しかし、それはいずれ訪れる。その一つの形態が、

  • 主人と奴隷の「交代」

である。奴隷が主人になり、主人が奴隷になる。そして、この交代は、比較的、普通に起きる。なぜなら、この関係は、非常に「安定」的だからだ。なぜなら、今までだって、この「構造」自体はずっとあったのだから。プレーヤーが代わっただけで、その「作法」は、まったく一緒なのだから、非常に「安定」するからだ。
しかし、いずれにしろ、この主人と奴隷の「弁証法」の「極限処理」の先には、この主人と奴隷という「関係」の「アウフヘーベン」が訪れないわけにはいかない。それを、ヘーゲルは、市民社会であり、人倫の体系と呼んだわけだが、ある意味において、この段階において始めて、ホッブズの言う、

  • 国家の誕生(=闘争状態の回避の成功)

に至るという、「同型」の対応が見出される、と議論したわけである。
さて、私は上記で「欲望」が、「他者の欲望」と「同じ」であることを前提に話したわけだが、もちろん、これはヘーゲルであり、コジェーブの議論の「前提」でもあるわけだが、ここでコジェーブが強調しているのは、その「欲望」という言葉が、「承認」という言葉と強く結びついている、ということなのである。

人間は自己が人間的欲望、すなわち他者の欲望に向かう自己の欲望を充足せしめるために自己の生命を危険に晒し、それによって自己が人間であることを「証明」する。ところで、或る欲望を欲するとは、この欲望によって欲せられ価値に取って代わろうと望むことである。なぜならば、この取って代わるということがなければ、価値すなわち欲せられた対象が欲せられることがあっても、欲望それ自体が欲せられることはないからである。したがって、他者の欲望を欲すること、これは、究極的には、私がそれである価値もしくは私が「代表」する価値が、この他者によって欲せられる価値でもあることを欲することになる。すなわち、私は他者が私の価値を彼の価値として「承認する」ことを欲するのであり、私は彼が私を自律した一つの価値として「承認する」ことを欲するのである。換言すれば、人間的欲望、人間の生成をもたらす欲望、自己意識つまりは人間的実在性の生みの親としての欲望は、いかなるものであれ、終局的には、「承認」への欲望に基づいている。人間的実在性が「証明」される機縁となる生命を危険に晒すことは、このような欲望によって惹起される冒険である。したがって、自己意識の「起源」について語ること、これは、必然的に「承認」を目指した生死を賭しての闘争について語ることになるのである。

人間を「欲望」において考える作法は、デカルト以降の近代哲学の「常識」であるが、私は、そもそも、こういった作法は疑わしいと思っている。というのは、その結果、上記にあるように「承認」の弁証法を受け入れなければならなくなっているからだ。
なぜ「欲望」というタームは、筋が悪いと思うのか。それは、この言葉を使うことで、いわば、「内面」の存在が前提になってしまっているからである。つまり、この言葉は、人間の「定義」を要求しているわけである。人間とは欲望をもつものだ、と。もちろん、こう言う場合、動物にも欲望がある、ということを含意している。
しかし、私に言わせてもらえば、そういった議論は正直、「余計」なのだ。実際に人間がどうなのか、つまり、内面だとか、本質だとか、といったものを

  • 議論

することは、そもそも間違っている。そういった「演繹」的態度は、言わば、「形而上学」であって、私が考えるような、「政治学」には、不要なのだ。人間は定義してはならない。それは、人間の「(政治的)自由」に反するから。
では、どうすべきだ、と言っているのかというと、つまり、私は、

を、もっと重要視すべきなんじゃないか、ということである。
(例えば、上記の、「欲望とは他者の欲望」という命題は、ようするに、その言語的「ミーム」の拡散過程を意味している。そして、「承認」とは、この「拡散」に抵抗する

  • 反発

を乗り越えたのか、乗り越えられていないのか、という結果を表象している...。)
なぜ、この態度が、よりベターなのかというと、つまり、内面だとか、「シニフィエ」だとかの話をしなくてすむから、ということで、構造主義とも相性がいいから、というわけである。

もう一つ挙げておかねばならない問題がある。それは、生物学における遺伝子型(genotype)----表現型(phenotype)の対概念の対応物を、社会科学においては一体何に求めればよいのは、である。
高名な進化生物学のリチャード・ドーキンスは人間の文化における遺伝子(型)の対応物として、模倣によって伝播する「ミーム」なるアイディアを打ち出した。(リチャード・ドーキンス利己的な遺伝子日高敏隆他訳、紀伊国屋書店、一九九二年。Daniel C, Dennett, Darwkin's Idea, Penguin Press, 1996. を参照)。ドーキンスが私の論考を呼んだならば、私がルールとか制度とか呼ぶものをミームと見なし、行為者一般をその乗り物、具体的な行為をその表現型と見なすであろう。しかし私はミーム概念をイメージ喚起能力についてはともかく、科学的な実用性については懐疑的である。何しろやっかいなことに、ミームには具体的な対応物がない。遺伝子型には一応遺伝子という実体的な物質がその同質の基体としてある。それに対して私の考えるルールや制度にはそれがない。敢えて言うならばそれは、言語、貨幣といったコミュニケーションのメディアに求めることができるであろうが、遺伝子に比べてそれはあまりにも多様でありすぎる。

リベラリズムの存在証明

リベラリズムの存在証明

私は上記の指摘は、この本が出版された時期による制限もあると思うが、「ミーム」という言葉の、まったく、その「可能性」を汲み尽していない、と思っている。
つまり、この本は、この「ミーム」の限界を、自ら上記のように

  • 多様でありすぎる

というふうに制限したことによって、その限界を確定してしまった、と思っている。
ドーキンスの「ミーム」を、生物における、遺伝子であるDNAに対応するものを探すという方法は筋が悪い。むしろ、それは、上記にあるように、

  • 「言語、貨幣といったコミュニケーションのメディア」そのもの

に求めるべきだ。なにか「本質」がある、という発想は、まず、捨てるべきなのだ。公理系は、どこにあるのか? こういった問いは、実践的ではない。公理系は、私たちが日常的に話したり行動したりしている

  • 全て

だと考えるべきだ。公理系は毎日の私たちの行動が生み出している(まさに、法創造論だ)。そして、この「公理系」に基いて、次の時間の先は、実践されている。
こういったダイナミックな、「ビッグ・データ」を扱う社会システムを構想したのが、東浩紀さんの一般意志2.0 であるが、稲葉さんは、もっと、このアイデアの延長で、インスピレーションされるべきだ。つまり、稲葉さんは、もっと、一般意志2.0について考察すべきなんじゃないか、ということなのだが...。

ヘーゲル読解入門―『精神現象学』を読む

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