テレビとSNSと選挙

今週の videonews.com は、きしくも、NHKの許認可権の問題であったが、その内容は、ようするに、NHKであれ、民放であれ、違いのない話として、今のような、なんの第三者的組織を間にはさむことなく、国に許認可権がある限り、報道内容は萎縮する、というものであった。
私はほとんどテレビは見ないのだが、事実、今起きているのは、テレビのニュースで、東京都知事選と原発をからめた報道をほとんどしていない、それだけでなく、細川元首相の応援を行っている小泉元首相の姿を、ほとんど放送していない、という話であった。
しかし、そういったテレビの放映姿勢を、SNSを見ていても、ほとんど、指摘する記事が見合たらない。
そもそも、ネット上の、有識者の発言を見ていても、細川元首相の訴える原発ゼロに伴う、その意味について、

  • ほとんど言及しない

という感じなんじゃないか(そういった意見を明確に発信しているのは、本当に、宮台さんくらいじゃないのか orz)。なぜそうなのかの前に、そもそも、彼らは、原発に反対なのだろうか。よく考えてみると、明確に原発を止める政策を日本は選択していこう、といった

  • 意見

を語っているところを、あまり、有識者において、見たことがない。それは、どういう意味なのだろうか。そもそも、意見がないのか。原発について

  • 語りたくない

ような、なんらかの「党派」的な立ち位置なのか。
こういった態度の人たちは、幾つかに分かれるのであろう。

  • そもそも、細川元首相の「脱成長」的な「自然派」の姿勢に反対な「リフレ派」的な人たち(その一部は、彼の「放射脳」を「頭が狂っている」と思っているのであろう)
  • いわゆる、原子力ムラの「エア御用」な感じの人たち(この人たちは明確に、細川元首相や小泉元首相の「頭が狂っている」という「放射脳」という<病気>だと言いたい人たちであろう)
  • 宇都宮候補の支持者で、今さら原発ゼロでの候補の一本化なんて無理「ゆえに」、原発ゼロしか言わない細川元首相より、原発<以外>も、いいことを言っている宇都宮さんを応援
  • 言うまでもなく、原発はタブーであり、仕事などの今後の人間関係に影響するので、原発についてはなにも言わないか、軽く原発推進派的発言をしておく

しかし、私にげせないのは、まったく、選挙の争点として、テレビが原発にふれないこと(その理由は、テレビ局自身が、大口のスポンサーである大手電力会社や、その出資先の大手銀行に<遠慮>しているのと、もう一つは、自民党安倍総理に<遠慮>していること)を、一種の

  • タブー

として、問題だと主張する議論が、ほとんど見うけられないことではないだろうか。なんにせよ、テレビが露骨に、テレビの画面に小泉元首相を写さないという姿勢は、あまりにも

  • 露骨

なんじゃないのか。そこまでして、政権与党に与する、ということなんだろうか。
<公共放送>として、そもそも、今起きていることを「放送」しないなら、そういったテレビ媒体って、本当に、その役割を終わったんじゃないか。だって、テレビは、社会を

  • 取捨選択

して「写される」、イデオロギー的な媒体となったならば、そういったメディアを本当に、人々は、受容し続けるのか? つまり、今後、安倍政権が続く限り、テレビは安倍政権の気に入ることしか放送されない、ということが決定した、ということであろう。
なにか、「戦前」に戻ったように思うし、まるで、日本は北朝鮮になったようではないか。
おそらく、<公共放送>という概念が、維持できなくなってきている、ということを意味しているのかもしれない。つまり、そういった<公共放送>を必要としている人たちは、それ相応のお金を払って、

  • <公共放送>を買え

ということなのであろう。
言うまでもなく、選挙はゲームである。しかし、それがゲームであるだけに、非常に不思議なことが起こる。
その一つは言うまでもなく、今回の東京都知事選において、同じ原発ゼロを訴えている、宇都宮候補と細川候補で、お互いで票を分けあっているゆえに、舛添候補に遅れをとっていると推測されているのではないか、ということであろう。
どうして、こういうことになるのであろうか?
ここには、そもそも、55年体制が、どうして、成立してきたのかにも関係している。
大事なことは、本当に私たちは、この「現象」について、徹底して考えたのか? ということなのだ。なぜ、このようなことになるのか。その大きな理由は、そもそも、そういった選挙を今まで戦い続けてきた、社民党共産党が、

  • なぜ、それを続けてきたのか?

と関係している。
なぜ、彼らは、そういった選挙を続け、自民党に負け続けてきたのか。それは、必ずしも、負けてばかりではないからだ。つまり、小選挙区でなければ、「比率」によって、少しであれ当選を勝ち取ってきた。
だと考えるなら、理由は一つしかない。つまり、選挙は、「自分たちをアッピールする場」と考えている、ということであろう。たとえ負けても、それによって、自分たちの主張を知ってもらえる(少なくとも、選挙公約を「比べて」投票してもらえるのだから)と。ここで、たとえ、自民党にその人が投票することになったとしても、なんらかの、彼らの「良心の仮借」をもってもらえるんじゃないか、と。
つまり、彼らの戦略は、自分たちの「社民党」や「共産党」の応援団を

  • 長期的

に収集するための「戦略」だということなのである。彼らは、一個一個の選挙に負けることをなんとも思っていない。いずれにしろ、はるか未来の

  • いつか

党勢として、自民党に勝てばいい、と思っている、ということになるのではないか。
しかし、こういった戦略をもつ被選挙者がいる場合、今、なにかの公約を実現できなければ、日本が大変なことになると考えている人たちは、永遠にそれを実現できない、ということにならないか。
確かに、一見すると、「社民党」や「共産党」の戦略は合理的に聞こえるかもしれない。どっちにしろ、みんなが「共産党」の信者になってくれれば、原発ゼロになるのだから。それが、一番「いい」んだから!
しかし、大事なことは、脱原発は「今」選択するかどうかが、重要なのであろう。そう考えるなら、なによりも同じ主張をしている被選挙者は、候補を一本化しなければ、票が割れて、主張の違う候補が当選してしまって、その主張を実現できないわけであろう。
どうして、こういうことになるのか?
私は今回の選挙を眺めていて、非常に気になるのは、宇都宮候補を「応援」する人たちが、日頃から、自民党民主党の政治家を、

批判している姿であった。つまり、彼らにしてみると、自民党民主党に関わった政治家は、なにか

  • 汚れている

存在のようなもので、その人の人格を否定しなければ、自分たちの自我が保てないかのようなのだ。つまり、全共闘末期の現象に似ている。彼らは、

をしなければ、人間として扱っては「ならない」という倫理があるわけである。そうでなければ、「仲間」ではないのだ。自分が気軽に話しかけられないのだ。仲間に、敵に寝返ったと思われ、今度は自分が仲間外れにされるのだ。
しかし、政治家とは、選挙人の信託を受けた存在であって、つまり「機能」的存在なのであって、彼らの行動と、彼らの「人格」を単純に一つに受け取る行動はナイーブであろう。大事なことは、これが

  • ゲーム

だということである。つまり、私たちは本気で内省する必要がある。
これは、運動論なのだ。運動論において大事なことは、運動の初期においては、国民の多くは、まだ「気付き」に至っていない。そして、この「気付き」は少しづつ、漸進的に、拡大していくしかない。このスピードを極端に大きくはできない。そうしようとしても、常に、この運動を邪魔してくる、原子力ムラからお金をもらってフリーのジャーナリストのような連中が逆ばりをしてくる。そうである限り、この運動の拡大を劇的に向上させうる条件はまれなのである。
しかし、原発ゼロを、今、実現しなければならないと思うなら、この運動論の初期の段階で、どうやって、現状を突破するかを考えなければならない。つまり、こんな段階で、意見を同じくしている被選挙者を同時に立候補させていてはいけないのである。
なんとしても、候補者を一つにしなければならない。
しかし、それは可能なのであろうか?
共産党は、細川候補が日本新党の党首として、総理大臣になったときでさえ、野党であり続けた(興味深いことに、自民党と「一緒」に野党でいた、というわけである orz)。こういった政党が「支持」しているという状態を、まっさきに受け入れた宇都宮候補は、選挙の序盤、しきりに、細川候補を批判し続けた(批判は、弁護士の能力としては大事ではあるが、自分が被選挙者の「当事者」であることを考えれば、そういった態度が、合理的であったかは、疑問ではないか)。
私には、宇都宮候補が、選挙が終わって、自らの「敗戦」を、「でも、たくさんの人が自分に投票してくれた」と、前回の選挙のように、「うれしそう」に笑顔で振り返る姿が想像できる。しかし、その結果として、舛添候補が当選した場合、それは、原発ゼロを細川元首相と一緒に掲げた被選挙者として、東京都民に「もうしわけない」とならないのだろうか?
つまり、これが、選挙が「ゲーム」であるということの意味なのであろう。ゲームには「色」がない。つまり、さまざまな、有象無象の思惑を抱えた連中が、東京中から集まって、祭(まつり)を始める。そして、いずれにしろ、選挙当日が過ぎれば、なんらかの

  • 結果

になっている。しかし、たとえそうであったとしても、反省しない人は反省しないし、一票を投じてくれた都民に「申しわけない」と思わない被選挙人は、なんの反省もしない。だとするなら、そこには、

  • なんらかの「意図」

が別にあったのであろう、と憶測するしかないであろう...。