東京都民の「倫理」

今回の都知事選について、私は最終的にどのような結果になるとしても、私にとって、今までの選挙戦の流れにおいて、多くの、今後の日本社会を占う手掛りが呈示されているのではないか、と思っている。
私にとって、なによりも興味深いのは、言うまでもなく、細川さん、小泉さんのコンビがなぜ、立候補してきたのか、であったが、その理由がなんであれ、彼らが訴えている内容が、とても「倫理的」であることが、私にとって、非常に興味深く思えたわけである。
特に、私にハッとさせられた発言が、細川さんが、東京都民のアンケートで、今回の選挙の争点について、原発問題が最上位に来ないこと、せいぜい第3位であったことに「怒っている」、その態度においてであった。
もちろん、その意味を彼の「自然派」としてのイデオロギーと捉えることもできるであろう。しかし、そう考えないとすると、俄然、おもしろくなるわけである。
そもそも、都知事選の立候補者が、都民を「怒る」とは、どういうことなのか?
このことは、宇都宮さんや舛添さんのような、いわゆる「55年体制」的選挙戦を戦っている彼らと比べると非常に、対極にある態度だと思えたわけである。
例えば、宇都宮さんは、非常に「バラエティ」に、さまざまな公約を訴えているが、その特徴は、有権者に向かって、宇都宮さんは「怒っていない」のである。

  • 少しも

怒っていないのである! 逆に、「あなたの<してほしい>ことを私がやってあげます」と言っている。つまり、この「延長線上」に、原発問題もある。東京都民が被曝の影響を「心配」している。だとするなら、そのための「あなたの心配を解消するため」のなにかをしてあげますよ、と言っている。
宇都宮さんは、この延長で、福島についても言及する。福島の被災者を見捨てることはできない。彼らの金銭的賠償について、東京都の都知事として責任をもって取り組む、と。
(土曜日のニコニコの討論も見たが、どうも、宇都宮さんは細川さんがなぜ原発ゼロを訴えているのか、よく分かっていないんじゃないかと思われる反応だった。特に、福島の人への金銭的賠償を語ることは、実に「弁護士」的ではあったし、まさに「左翼」的といった印象を受けた。正直、金さえ払えばいいのか、というような、少し福島の人を馬鹿にしている態度のような印象さえ受けた。もっと根源的な「罪」のようなものを、細川さんは、どこかで感じているんじゃないのか。もっと、深い所で、東京の福島や新潟に対しての「罪」を、東京の人は<自覚>しなければならないんじゃないのか、と言いたいんじゃないだろうか。)
つまり、これは、どういうことなのだろうか?
立候補者は、都民に「選ばれる」存在である。ということは、彼らが「気に入る」コンテンツをいかに並べるのかが問われている、そういった

  • ゲーム

と普通なら考えるであろう。いわば、これが「リベラル的マインド」である。リベラリズムは、徹底して、「功利主義」で考える。これは、現在の経済学と一緒である。つまり、プレーヤーが徹底して、「功利的」に考え、行動する「場合」の、合理的行動とは何かを「計算」する。
こういった「延長」に、「パターナリズム」の正当性も生まれる。人間が「功利主義」的存在ならば、やるべきことは、「すでに」決まってるとさえ言えるであろう。つまり、「幸福」は計算可能だ、というわけである。
つまり、こういった態度と、細川さんが言っていることには、どこか、齟齬が発生しているのであろう。
この現象の興味深いことは、いわゆる、ゼロ年代を通して、有名になった、いわゆる「若手知識人」が、ほとんど、今回の都知事選について、言及していないことではないだろうか。彼らは、3・11以前までは、さかんに、大衆問題や正義論などの、社会問題に言及してきたが、3・11以降、ほとんど、社会に向かって発言しなくなった。そのことが、何を意味していたのか? ある意味において、彼らが、3・11以前において言及していた「倫理」が、3・11 以降において、維持できなくなってきている、通用しなくなっている、という「直感」があるのかもしれない。
細川さんの選挙戦のスタイルは、どこか「全共闘世代」的である。彼ら全共闘が、最後まで訴えたことは、「倫理」であった。例えば、彼らは、大学教授たちの「戦争責任」を徹底して糾弾した。彼らが戦ったのは、むしろ、彼らの「先生」である、大学教授が、戦中に何をしていたのか、の、その

  • 非倫理性

においてであった。ある意味において、彼らは、それ以外にことは、どうでもよかったのだ。彼らは、自分たちを教え導く、そういった教授たちが、本当に自分たちを導くに、ふさわしい存在なのかに、耐えられなかったわけである。
そういう意味で、私は全共闘は「右翼運動」だったと考えている。事実、三島由紀夫は彼らが一言「天皇」と言ってくれれば、自分は支持する、と言っていたわけで、そのマインドは近かった、と考えられるであろう。
(そして、こういった傾向は、例えば、現在のラノベや深夜アニメにおいても繰り返しテーマとして反復されている。むしろ、こういった「右翼」的傾向を、徹底して無視し、シカトし続けたのが、いわゆる、ゼロ年代的批評の数々だったわけで、新ためて、彼らの「非倫理性」が問われることになるのが、3・11以降の世代の傾向なのではないだろうか...。)

「己(おのれ)」という言葉は『論語』におけるキー・ワードとしてよく知られる「仁」や「君子」にもまさるキー・ワードです。たとえば顔淵篇の冒頭の有名な「顔淵問仁」章には「為仁由己、而由人乎哉(仁を為すは<おのれ>に由る、しかして<ひと>に由るや)」と云います。また憲問篇には「子路問君子。子曰、修己以敬(子路、君子を問う。子いわく、<おのれ>をおさめてもって敬す)」と云います。衛霊公篇に「子曰、君子求諸己、小人求諸人(子いわく、君子はこれを<おのれ>に求む、小人はこれを<ひと>に求む)」と云います。
いま取り上げている「いにしえの学ぶ者は<おのれ>のためにす、いまの学ぶ者は<ひと>のためにす」もこれらの例に含まれるわけです。
孔子の発したこれらの言葉は、顔淵に、子路に、またこれらのテキストを読んできた多くの『論語』の読者に、<おのれ>という言葉を決定的に重要な言葉として突きつけていると云うことが出来るでしょう。
わたくしは大阪で育ちました。いまはどうか知りませんが、むかしは子供を親などが叱る定型の云い方がいくつかあって、そのひとつが「自分が悪いねんやろ、ひとのせいにしな」という云い方でした。またおとなの男がひとの言いなりになっている若者を叱る「おまえには<おのれ>というもんがないんか。しっかりせえ」という云い方もありました。前の方の「自分が」という云い方はよくされる云い方で「おまえ」や「きみ」といった第二人称の代名詞になっているという感もあります。「自分が安請け合いしたんやろ。自分で始末つけらええねん」「自分がそうゆうたんやないか。忘れたんかいな」などです。これらの「自分」や「おのれ」は第二人称の代名詞に転じていると云うよりも、やはり文句全体としては、相手に、自分自身がやったことだという責任の自覚を突きつける、その意味で相手をなじる、突き放す気味の云い方であると考えるべきでしょう。相手に「自分」「おのれ」という責任主体の自覚を突きつけ、誰にもツケを回さない単独者たれ、主体者たれ、と突き話す言葉です。

朱子学 (講談社選書メチエ)

朱子学 (講談社選書メチエ)

私は正直言って、細川さんであれ、宇都宮さんであれ、お互い、原発ゼロを訴え、また、舛添さんにしたって、脱原発を言わずにはいられなかったという意味で、今後の国政に大きな影響を与えるものになっていると考えているので、たとえ、どういう結果になっていようとも、冷静に受けとめるだけだと考えているが、一つだけ許せないことがある。
それは、今回の都知事選において、原発は国の問題であって、都知事選の争点として、ふさわしくない、と言っていた連中である。
私は、こういった主張にだけは、徹底して戦いたいと思っている。なぜなら、こういった発想は、徹底して、地方自治に反するからだ。

  • あらゆること

地方自治の問題にできるにきまっている。むしろ逆なのだ。国家こそが、なにを論じられるのかの「制限」がなければならない(それは、アメリカ合衆国の合衆国憲法がよく示している)。なにかを話してはいけない、なにかを論じてはいけない。こういった主張は一種の「言論の自由」の弾圧だ。地方は、あらゆることについて、話し合える場でなければならないし、この動きに抵抗する、あらゆる国家の弾圧に抵抗していかなければならない。
細川さんや小泉さんが言っていることは、東京都民は、恥ずかしくないのか、ということであろう。あれだけ、福島県に迷惑をかけて、そして、これからも、新潟県など、東京圏に電気を供給するために、原発を動かされようとしている県に対して。
他人に迷惑をかけて、自分だけ幸せになればいいって、そんな生き方のどこが楽しいのか?
しかし、おそらくは、多くの東京都民はこの細川さんの問いかけを受けとめられることはないのであろう。高度経済成長を経て、バブルを体験し、生きることの意味を忘れた日本人は、結局、最後まで、この、年長者たちが生き恥をさらして訴えかけている、その意味を受けとめることはないのであろう...。