第四象限

ヘーゲル弁証法は、なんにせよ、二項対立によって描かれる。ところが、

  • なぜか

この正反は、「合」つまり、アウフヘーベン止揚)される。つまり、次の段階に移る。さて、それは、なぜなのだろうか?
この場合、ヘーゲルが何を考えていたのかは、やはり、精神現象学がそのアイデアとして求められるところであろう。つまり、コジェーブの『ヘーゲル読解入門』である。
つまり、ヘーゲルはそれを「世代」という「文脈」の違いに、見出した、と言えるのであろう。
しかし、もう少し、このことがどういう意味なのかを考えることには、意味があるかもしれない。
今週の videonews.com は古賀さんという、元経産省の役人の方が分析されているが、その中で、興味深い話をしている。それは、なぜ、今の若者は安倍ちゃん支持なのか、ということである。
彼ら若者の特徴を、40台前半の視点から見ると、その特徴は「バブルを知らない」ということなのである。つまり、彼らは産まれてから一度も、景気のよかった日本を知らないのだ。40台前半以前の人たちは、たしかに自分がバブルの絶頂期に働いていて、月100万の単価の仕事ができたわけではないにしても、子供の頃は周りにそういった雰囲気があったし、つまり、景気がいいという「反照点」を思考の中に常にもっている。
ところが、今の若者にはそれがない。たんに、どうやって就職戦線を勝ち残って、このサバイバルゲームの勝ち組になるか、しかなくなっている。
つまり、彼らが今、欲しているのは、今ここにある、「苦しさ」の「救済」なのだ。彼らにとってその解決を、「好景気」に求めることができない。なぜなら、彼らはそもそも、その「好景気」を

  • 想像できない

からである。つまりそれは、彼らの「リアルではない」のである。リアルでないものに、意味を見出そうとする姿勢は、一種の理想主義である。しかし、理想とは「リアルでない」ものの総称を言うのであって、ミスター・リアル氏にしてみれば、それは嘲笑の対象なのだ。
(ちょうど、この逆の対応になっているのが、原発である。原発の特徴は、交通事故のように、日々、起きていることによって、その事故によって「想定されうる範囲を見積られていない」というところにある。つまり、原発事故は起きてはならないが、なんやかんやで、10年ごとくらいで、過酷事故が世界中で、一つずつ起きてきた。つまり、事故はたとえ少なかろうと起こるが、その事故が起きた場合に、どれほどの範囲にどれほどの影響を及ぼすことになるのかの

  • 人間のリアル

が追い付かないのである。実際、原発の「夢」を語っている人たちの言っていることを聞いてみれば分かるように、彼らは、自分が頭が良いと思っている。そして、そのことで、なぜ人間が原発を手放せないかを知っていると思っている。ところが、そういった人に限って、そもそも、原発の事故が起きたときに、どういった被害が及びうるのか、それを

  • 自分が知らない

ということの「リアル」を自覚していない。つまり、ソクラテス流に言うなら、彼らは「無知の知」がないのだ。つまり、これが「リアル」の実体なのである...。)
日本の若者たちは、不思議なことに、彼らは少しも「右翼」でない。というか、ずっと、ハト派である。なぜなら、自分が戦争に行って、自分が死ぬことに、少しも賛成していないからだ。
言うまでもなく、安倍首相は極端なまでに、タカ派色をもった政治家である。彼は若者を、戦場で次々と死なせたい。むしろ、そのために活動していると言ってもいいくらいなはずなのに、ところが、その安倍首相を支持している若者は、みんなハト派で、一人として自分が死にたくない、のである!
彼らは、少しも、安倍首相と重ならない。ところが、彼らは安倍首相に、なにか「救済」の印(しるし)を探してしまう。
つまり、仮面ライダーなのだ。正義の味方の「救済」が、自分を救わなければならない、と本気で思っている。
彼ら若者は、何を見ているのだろうか?
彼らは、安倍首相が本当は何者なのか、とか、どういった文脈を生きてきた人なのかを見ていない。彼らは、それを認知的不協和によって、自らに隠蔽する。しかし、彼らは、安倍首相の

  • 自分が見たい側面

だけは、不必要なまでに、強調して着色して見てしまう。それが、安倍首相の対中国、対北朝鮮への、

  • 断固決然

たる姿勢の「強さ」である。彼らは、その「文脈」を無視して、その「強さ」を、

  • 自分のためにしてくれている

と読み取るわけである。彼らにとって大事なことは、自分が「弱者」であることにある。その自分という弱者を、安倍首相が

  • さまざまな年配世代の既得権益や、この社会にある、さまざまなルールの壁

を乗り越えて、自分たちを助けようとしてくれているんだ、と読み取る。安倍首相の常軌を逸したとしか思えない、トンデモ・タカ派発言も、彼らは

  • あえて、自ら、汚れ役を買って出てまで、自分を助けようとしてくれているんだ

と、他人からは「非合理」にしか見えないことにさえ、すべてを良い方向に解釈してしまう。
なぜ、二項対立は、極端なまでに先鋭化するのか。それは、お互いが、なんらかの「価値」における競争をするからである。つまり、二項対立は、ある

  • 第三項

があるのである。常にあるのである。この二項が「対立」に見えるのは、この第三項が超越的な価値としてあるからである。
ところが、である。
この世界は、そもそも、二項対立でできている。ということは、どういうことか。実は、その第三項そのものも、なんらかの二項対立を内包していた、ということである。つまり、二項対立は、

  • 2×2項対立

だった、ということである。整理すると、最初に考察していた、そもそもの、二項対立とは、数学で言う二次元空間でいえば、第一象限と第三象限に対応するであろう。そして、常軌で言う第三項は、ちょうど、第三象限にあたる。しかし、ここに「盲点」がある。
それが、第四象限である。なぜ、二項対立は過激化したのか。それは、第三項という超越的価値を巡って、お互いが競争をしたからである。ところが、この現象は、そもそも、その第三項を超越的価値という「幻想」が破られたとき、自然と、その魅力を失う。つまり、第三項そのものが二項対立を内包させている。つまり、この第四項という「価値」によって、最初の二項対立「そのもの」の

が起きるわけである...。