平智之『禁原発と成長戦略』

私は左翼を「偽善」と呼ぶのなら、右翼だって「偽善」じゃないのか、という疑問から、話を始めるべきだ、というのをすごく実感しているのだが、そういったことにはあまり、多くの人が関心をよせないのはどういうことなのであろうか。
一方で、ホンネで話すべきだと戦後左翼を愚弄しておきながら、他方において、右翼の「偽善」にはふれもしない、考えようともしないのなら、それって、何も言っていないのと変わらないのではないだろうか。
みんな、左翼が偽善なんて分かっている。分かりきっている。だったら、その左翼の欺瞞を追求したことで何かを言っていると思っていることの方が思考停止そのもであろう。つまり、そう主張することで、右翼の「偽善」を隠蔽しているわけであろう。
私は、この最も典型的な問題が、原発だと思っている。
原発は、東京を中心とした関東圏から見たとき、その周辺に作られていて、その周辺から東京に向けて、電気が送られているという構造になっていることで、

  • 東京人のエゴ

の塊だと思っている。つまり、東京から見たとき、原発は、つまりは、東京から遠いところにあれば「いい」わけである。自分には関係ないから。苦しむのは、そういった原発がある田舎だから。
しかし、私は思うわけである。

  • だったら、そう言えよ、と。

なに、かっこつけて、福島を救いたいとか、トンチンカンなことを言ってるんだ、と。
私は、こういった「偽善者」が嫌いなのだ。心にもないくせに、自分が幸せになりたいだけのくせに、田舎に原発を押し付けて、なんか「福島のためになにかをしたい」みたいなことを口先だけで言ってみせる、そのニセの慈善行為が。
しかも、こういった連中に限って、新潟の原発について、一言も言及しない。今まで、一度も言及したことすらない。それは、彼らにしてみれば、福島は「救済の対象」であっても、それ以外の東電の原発を動かすのは

  • 当たり前

だからなのだ。そんなことは言うまでもないから、話題にもしないで、福島をなんとか救いたいみたいな、トンチンカンなことばかり言っている。
原発の問題は、日本における「南北問題」なのであって、東京人の「エゴ」を、まず

して、徹底して、その偽善ぶりをさらしあげていくところから始めなければ、どうしようもないと思っている。
しかし、その上で、安倍ちゃん政権は、原発再稼働を意地でも実行しようとしてくるであろう。それは、今回の東京都知事選の「結果」によって、それに対抗するための結果を示せなかったことが、どうしようもなく、この動きの推進を結果していくことになるのは目に見えている。
しかし、そうであればあるほど、私たちは、冷静になるべきなのだろう。
私は、そもそも、原発を「文明」の問題だというなら、頼むから、日本から、そういった人は出て行ってもらえないか、と常に思っている。日本の外の大陸系の国家に引っ越して、そういう場所で、原発を動かせばいいのでないでしょうか。
私にまったく理解できないのは、日本の原発事故がことごとく、

に関係してきたことを考えるなら、この国にもう「地震」が起きることが二度とないというわけでない限り、原発を動かすことは愚かすぎるであろう。
日本で原発の研究がしたいなら、あくまで実験炉でいいではないか。なぜ、巨大発電所を作らなければならない。そんな巨大なプラントを作らなければならないというのは、なぜなのか? 彼らはここを「説明」しない。言いたくないことは言わない。つまり、一種の「信仰」なのだ。

自分が溶ける温度(融点)よりも熱いものは包めません。自分も溶けるからです。しかし原発は、運転をとめても2700℃まで熱くなる核燃料を1500℃で溶ける鋼鉄で包んでいる装置です。冷やせなくなったら必ず核燃料と一緒に鋼鉄も溶けてメルトダウンします。「絶対に安全だ」というのは「絶対に冷やせるから」という理屈に過ぎませんでした。そして、その理屈が福島で破綻しました。そもそも絶対に冷やせる方法など工学的にありえません。原発の安全確保は工学的に不可能です。
「2700℃にならないように絶対に冷やす」というのが、原子力産業の言い分でし。しかし、その絶対のはずの冷却機能が、私たちの目の前で機能しなかったのです。そもそも、いかなる事態が起こっても、絶対冷やせる方法などないのです。そのことは、世界中のエンジニアが認めるはずです。
ところが、政府も原子力学会も原子力産業も、「多重防護」という用語で原発の絶対の安全を主張してきました。五重の壁で守っているから万が一事故が起こっても、外部に放射性物質が漏れることはないんだという理屈でした。
上の図のとおり、融点は外に向けて低くなっています。第1の壁であるペレットが崩壊熱で2700℃に達して溶けだしたら、あとはドミノ倒しのように第2の壁から第5の壁まで順次溶けます。真中が溶けたら全部溶ける。熱に弱いという性質を五重にしてみたところで防護的な意味はありません。福島第一原発の過酷事故でそれが実際に起きたのです。

これほど、原発の問題を明瞭に解説しているものはないであろう。
原発の燃料は、閉じこめておけない。どうしても、漏れてしまう。それは、そもそも、原理的にそうなわけである。この普遍的な原理は変わらない。たまたま、原子炉内の水の循環を維持できている間の、その

  • 平和

な日常の間「だけ」、その水が冷やし続けることを可能にしているから、その間は放射能が比較的、漏れることがないとしても、そのことが、少しも、

  • 水がなくなる可能性

を担保するものではない。それは、なにがきっかけとして起きるかわからない。そして、それを原理的に完全に防ぐ方法はない。
では、そうやって、放射能が「漏れる」ことの一体、何が問題なのか。

生産設備や工場全体のことをプラントと呼びます。製鉄所も化学工場もゴミ処理施設もプラントです。もちろん原発もプラントです。さて、プラントには共通する性質があります。自動車や飛行機と同様に必ず壊れていくという性質です。軽微な故障から重大な事故までプラントは常に修理を要します。つまり壊れていくのを直しながら使うのがプラント管理ということです。
ところが原発の場合、壊れても直すことができない場合があります。メルトダウンすれば放射能で人が近づけなくなるからです。人が近づけないと、さらに壊われ続けます。この点を無視して、いくら事故対応マニュアルを作っても意味はありません。事故が起こって人が近づけなければ机上の空論です。原発はプラント管理の対象ではなく、使ってはならない装置なのです。

今の福島第一は悲惨の一言であろう。まったく、閉じ込めができていない。おそらく、こういった悲惨な状況は、あと何十年も続くのではないか。原発は、ひとたび、事故が起きれば、

  • こうなる

施設だということである。閉じ込められないということは、原発を中心とした施設に作業員が近づけない、ということである。近づいて、長くはそこにいれない。そこにいて、何かをできない。
つまり、直せない。壊れたら、一貫の終わりなのだ。もしかしたら、福島第一もそうなっていたかもしれない。東電の作業員が、みんな、逃げ出していたかもしれない。そして、そのまま、だれも近づかないエリアになっていたかもしれない。
ここででてくるのが、いわゆる、BWR型とPWR型の問題ではないだろうか。つまり、福島第一はBWR型だった「から」悪かったんだ、といった議論であろう。

2つのタイプの違いを簡単に説明すると、例えば放射能が入っている水を「赤い水」とし、放射能が入っていない普通のきれいな水を「透明な水」と呼ぼう。2つが混ざないように沸かせるのがPWR(Pressurized water reactor)であり、混ざらないようには沸かせないのがBWR(Boiling water reactor)なのである。
PWRは、赤い水を入れた密閉された鍋の中に、透明な水の入ったもう一回りの小さい密閉された鍋を入れてそれを熱すると、赤い水と透明な水が混ざることなく一緒に沸かすことができる。二重の鍋を使うことで、同時に透明な水と赤い水を沸かすのが、PWR原子炉と呼ばれるものだ。危険なものを漏らさない。あるいは清濁を混ぜないという配慮がなされているのだ。つまり外側の鍋さえ壊れなければ、放射能が漏れることはないということだ。

配管設計者がバラす、原発の性能

配管設計者がバラす、原発の性能

ただし、ここで注意したい点がある。福島第一原発をはじめとするBWRでは、発電のための蒸気が原子炉内でつくられた水蒸気なのだから、当然それは放射能を帯びている。だからBWRの場合、もしも蒸気配管に破損等の事故が発生し水蒸気や水が漏れるようなことがあれば、それらは放射能を含んだものなので、即座にたいへんなことになる。
繰り返しになるが、原子炉が壊れるのではなくて、原子炉建屋の外にある発電タービン系に損傷が生じても同じことである。BWRは、原子炉にかぎらず配管系にいったん事故があれば、必ず放射能の漏洩が起こるということなのだ。被曝を防ぐための隔離が一重だからだ。
配管設計者がバラす、原発の性能

この議論の問題となるのは、BWR型は東電がほとんどやっているものであり、PWR型は北海道電力と、関電から南で比較的に採用されているが、そもそも、世界的には、圧倒的にPWR型であり、BWR型は、あまりにもレアなケースであることである。
また、BWR型が東大の学者のエリアだとすれば、PWR型が京大の学者のエリアとも、分けられることから、東大学者の3・11以降のテレビに出ての「醜態」を見ても、そもそも、東大への非常に大きな「責任」があったはずなのだが、その辺りを、なんとかして、議論を回避しようという、マスコミを含めた圧力があるのであろう。
ようするに、BWR型は後からできた技術でありながら、とても、「安全」性を向上させるために作られたものとは思えないところにポイントがある。つまり、「テクノロジーの発展」が必ずしも、安全面の向上の方に向かわない。むしろ、その「テクノロジーの発展」が、徹底した

  • 経済性の追求

のためにばかり使われてしまう。このことは、非常に大きな問題提起になっている。そういう意味では、原発はすでに、技術の「袋小路」に入っていると言わざるをえないのではないか。これだけ、何十年も学者が考えてきて、いっこうに「アイデア」が出なかったわけである。じゃあ、あと百年待ったら、革新的な安全対策が思いつくであろうか? 五百年であろうか? 何十年も待っても、まったく、一向に改善していないのに、である。上記のアポリアを、本質的には、少しも解決できていないのに、である。
しかし、そんなこと以上に、五百年待って、その間、動かし続けるのか、ということであろう。原発の過酷事故は、ほぼ十年おきに、世界中のどこかで起き続けてきた。そう考えるなら、原発を動かす選択をした時点で、日本のような地震国で、再度、起きる可能性は

  • 非常に高い

と言わざるをえないだろう。
しかし、じゃあ、PWR型だったら再稼働させてOKなのかは、まったく、違った話であることを著者は言う。

加圧水型のほうが安全というのは、まったくの誤解です。加圧水型は沸騰水型よりも高温・高圧で運転します。より高温・高圧で運転するほうが危ないのは工学的に常識です。
まず、高圧ですから配管が壊れやすくなります。次に、高温ですから冷却水喪失までの時間が短くなります。他にも専門的にさまざまな指摘があります。既設の加圧水型は窒素を充填しないので水素爆発を起こしやすい点。既設の加圧水型の格納容器にはベントがないので爆発を防げない点。加圧水型だけにある蒸気発生器が震動や腐食で壊れやすい点。他にも沸騰水型にはない加圧水型のリスクは多々あります。
そもそも1979年のスリーマイル事故は加圧水型だから起こりました。1991年の美浜原発の自動停止も加圧水型だから起こりました。沸騰水型と同じように加圧水型も危険なのであり、「加圧水型なら安全だ」というのはまったく誤解です。むしろ「加圧水型のほうが危険だ」と言ってもよいくらいです。

つまり、PWR型とBWR型では、そもそもタイプが違うのであって、PWR型にはPWR型の欠点がある、ということであろう。それは、お互いがタイプの違う「危険性」をはらんでいるということであって、一見して、PWR型がお金もかかり扱いやすいということが、それがもし事故を起こしたときの、規模や、さらにその被害が拡大するときの、「尋常なさ」の比較として、どちらかを選ばなければならない、ような低レベルの話ではない、ということなのであろう。
どっちにしろ、この「水」は、なんらかの「配管」を通る。しかし、しょせん、配管は配管。どんなに丈夫にしたつもりでも、限界がある。だって、あんなに細いのだから。つまり、原発は、さまざまな意味で過渡期の技術だったと考えるべきなのではないだろうか。

もし本当に停めたいのなら、注射してしまえばいい。注射とはホウ酸水を燃料プールの中に入れるおいうことだ。今後本当にやらないのなら入れてしまえばいい。でも現況の、入れない、あるいは燃料を取り出して取っておくというのは、折を見てまたやろうということなのだ。
配管設計者がバラす、原発の性能

もう再稼働をあきらめてこのような「廃炉処理」をしてしまえば、その原発は飛躍的に安全になる。むしろ、また再稼働をしたいと思っている限り、こういった「廃炉作業は始まらない」。
自民党を見ていると、高市早苗とか、原子力ムラの一員の、女性議員たちが、あらゆる屁理屈を使って、原発推進を語っているのを見ると、なさけなくなる。女性は、この問題で団結できないのか、と。

  • 原子力ムラの手先になる日本女性たち

彼女たちを日本の女性が「批判」できないのなら、なにも変わらないのではないだろうか。ああいった、原子力ムラの代弁者たち(田母神さんも含めて)を、社会の表舞台で好き勝手にさせている世論がある限り、原発は動き続けるし、作られ続ける。本質を理解することなく、または知っていて、原子力ムラの代弁をする、こういった、連中を、社会的にどうやってサンクションを与えていくのか。正直、考えるだけで、憂鬱にさせられるわけだ...。

禁原発と成長戦略 禁原発の原理から禁原発推進法まで

禁原発と成長戦略 禁原発の原理から禁原発推進法まで