春野友矢『ディーふらぐ!』

ある意味において、私たちの人生における、「あらゆる」ことは「ゲーム」だと言ってもいいのもしれない。それは、例えば、自分が「どう振る舞うのか」であったり、自分と関係することになった人が、自分の働きかけに対して、どう「反応」するのか、ということであったりする。
こういった、もろもろの、人間の行動を「ゲーム」として解釈するとは、どういうことか?
掲題のマンガの最初において、では、どういった「ゲーム」が問題となるか。主人公の高校生の風間堅次(かざまけんじ)は、高校に入っても、これといって「やりがい」のあることも見つけられない、かといって、勉強にのめりこむほど、勉学に甲斐性があるわけでもない、そういった、「つまらない」

  • 不良少年

であった。そんな彼が、たまたま通りかかった、「ゲーム制作部」という部室の前で、部室の名前から、ここに入れば

  • 暇つぶし

ができるような、漫画やゲームがあるんじゃないか、それらを「かつあげ」して、「不良」らしく、暇つぶしでもするか、と、その部室に入るところから、この物語は始まる。
ここから、一つの「ゲーム」が始まる。
まず、ここの部である、「ゲーム制作部(仮)」は、存続の危機に陥っていた。というのは、部員の数が、部存続の規定の人数に足りていなかったからである。そして、その日、解散を言い渡される期限の当日に迫っていた。この部を存続させるには、

  • なんとしても

もう一人、部員を用意しなければならない。それができなければ、部は解散、ここで、この部活動という「青春」は、解消、ということである。
この緊急事態に、なにも知らず、ノコノコと入ってきた、この不良は、自分が部員を「恫喝」するつもりが、彼らにとっては、部存続のための「新入部員」として、解釈される。
ここで、一つの「ゲーム」が行われる。

  • 不良高校生の風間堅次は、「ゲーム制作部(仮)」の部員になるかどうか?

もしも、彼が部員になると、この部は存続を許され、彼ら部員たちは今まで通りの「日常」という青春を過ごすことができる。
もしも、彼が部員にならないと、この部は廃部となり、彼ら部員たちは「ゲーム制作部(仮)」という彼らが始めた部活動とは無縁の残りの高校生活を送ることになる。
いろいろ紆余曲折がありながら、結果的に最後は、風間堅次は、「ゲーム制作部(仮)」に、自分から自分の意志で入部を決めることになる。
さて。
高校の部活に入部するとは、どういう「意味」なのだろうか?
まず、基本的に彼らは、放課後、部室に集合する。そして、その部それぞれの「目的」に関係した、活動を行うことになる。
この場合で言うなら、なんらかのゲームの作成を行う、という意味になるであろう。しかし、ここで「ゲームの制作」と言っているのだから、それは、たんに、「作る」だけでなく、みんなで「遊ぶ」ということも含意するであろう。
しかし、である。
毎日を、なにもせずブラブラ過ごしていただけの不良が、本当に、そんなこをやるのだろうか?
この疑問は、ある意味において正しい。実際に、彼は部室に来ることはあっても、これといって、ゲーム制作に興味がある感じではない。
しかし、これは間違ってもいる。というのは、彼は「この部に入る」と決めたのだから。つまり、彼は覚悟を決めて入ったのだ。だったら、それを中途半端で、うやむやにすることは本意ではない。やると決めたのなら、それなりの「結果」となるところまでやる、ということである。

風間堅次(心の中で):あーつまり...。どいつもこいつも、不器用ってことね?
柴崎芦花:で、どうしましょうか?
風間堅次:ってここで俺に振る? 俺 かんけーねーじゃん!!
柴崎芦花:関係ありますよ。あなたは私の部の部員です。
風間堅次:部長がどうしたいか知んねーけど、勝っても負けても答えはでてんだろ。結果も出さずにグダグダしてるのは好きじゃねーよ。
ディーふらぐ! (1) (MFコミックス アライブシリーズ)

上記のプロセスが「おもしろい」のは、ようするに、その「ゲーム」性の本質がそこにあるから、である。
いわゆる、普通の人間関係であり、「日常」であり、「リアル」という側面において、風間堅次が、「ゲーム制作部(仮)」の部員になることは、ありえなかった。そして、彼がここまで深く、この部にコミットメントすることはありえなかった。ところが、いくつかの偶然が重なったことで、彼は、そういった、本来なら、ありえなかった方向に「選択」していった、ということになる。
しかし、こうも言える。たとえ、こういった多くの偶然があったとしても、彼はやはり、この部には入らなかったかもしれない、と考えることもできる。では、何がこの二つを分けたのか。それは、何も、その二つを分けなかった。たんに、彼が、

  • 一度選んだら、「結果」がでるまで、やらないのは好きじゃない

といったコミットメント志向の強い性格だった、ということである。だから、たとえこの選択が、多分に、「偶然」の性格が強かったとしても、そのこと自体が、彼の、その後のコミットメントには関係ない、ということである。
井上達夫は、自らの考える「法の原理論」、つまり、「正義によって基礎付けられる法」の構想において、ロナルド・ドゥオーキンの提唱する「統一性としての法(law as integrity)」のアイデアを重要視する。

ドゥオーキンの言う法の”integrity”とは、「統合(integration)」とは異なり、一貫した道徳原理によって自己を律する個人に帰せられる「誠実性」ないし「廉直性」という意味での”integrity”の徳性が、一貫した公共的政治道徳の構想によって政治的諸決定を規律しようと努める社会の法に拡大投影された観念である。「純一性」という小林氏の訳語は耳慣れないかもしれないが、誠実性と原理的一貫性・整合性のニュアンスを伝える苦心の訳語である。

法という企て

法という企て

このドゥオーキンの言う「純一」こそ、いわゆる、「ゲーム」をゲームとして、そう成り立たせる、人間の「態度」を意味していることが、よく分かるのではないだろうか。
上記の例にしても、まず、風間堅次が「ゲーム制作部(仮)」の部員になるかならないかには、はかりしれない、差異がありながら、ひとたび、部員となるなら、この「ゲーム」を徹底するというのは、一種の「ドゥオーキンの言う純一」の一つと考えることができる、と私には思われるわけである。
ここから、さらに、井上達夫は、彼の構想する、「正義に基礎付けられる法」の構想が、どういったメタ的ルールによって、それを意味付けていくのかを列挙していく。

反転可能性の吟味によって特異理由を超えた公共的理由を人々が探究したとしても、公共的理由の具体的内容をめぐって人々の見解はなお対立する。正義の諸構想が公共的理由による正当化を要請する正義概念を共有しながらも、その公共的理由の内実の特定をめぐって分裂するのはそのためである。しかし、正義概念が内包する公共的正当化要請は、公共的理由を具体化する正義構想のいずれかが正しいかを一義的に特定しないとしても、公共的理由の規範的制約条件----フリー・ライダー排除、二重基準排除、既得権排除、集団的エゴイズム排除など(井上、二〇〇三b、一八--二三頁参照)----を示すことにより、正義構想を標榜する様々な主張を篩にかけて特異理由を隠蔽させたものを排除するとともに、真摯に公共的理由を探究しながらその内容について見解を対立させる諸主体が、公共的理由探究の自己拘束的コミットメントとして相互に負う責務を示すことにより、正義構想の対立を裁断する政治的決定の公共的正統性の条件を解明する指針となる。
ここで、一階の公共性と二階の公共性を区別すること(井上、二〇〇六b、二四--二七頁参照)が問題の明確化に資する。公共的理由の内実をめぐる正義構想間の対立は一階の公共性に関わる。この対立を裁断する政治的決定は、採択さた正義構想の観点からは一階の公共性に関し「正しい」判断をなしたとみなされるが、斥けられた正義構想の観点からは「誤った」判断とみなされる。この政治的決定を誤ったものとみなす正義構想を抱く人々が、それにも拘わらず、この決定をそれに至る政治的闘争の勝者の私的・党派的信念の押し付けとしてではなく、自己が属する政治社会の公共的決定として承認することは、いかにして、あるいは、そもそも可能か。この問いは一階の公共性に関する対立を裁断する決定の公共性、すなわち二階の公共性の条件を問う。政治的決定の「公共的な正統性」、「憲法の公共性」という言葉で語ってきた問題は、この二階の公共性の条件に関わっている。普遍主義的正義理念は一階の公共性の条件を限定するだけでなく、二階の公共性問題の解決に関して、次のような含意をもつ。
合意を擬制する社会契約説の弱点を克服し、合意の不在において政治的責務を説明する論拠として、制度の便益を享受した者はその維持のコストえお負担すべしとする「フェア・プレイからの議論」があるが、これに対しては、当該制度の存続を特段望んでいなくてもその便益を享受する状況に置かれただけで当該制度の存続のコストを負担させられるのは不当であるとか、便益性が曖昧であるなどという批判がされてきた(Cf. Nozick, 1974, pp.93-95:嶋津訳、一四二--一五一頁、Dworkin, 1986, pp.193-195;小林訳、三〇五--三〇七頁、さらに、横濱、二〇〇三参照)。しかし、フェア・プレイからの議論の主動機は、普遍主義的正義理念が含意するフリー・ライダー排除の要請としてこれを再定式化するならば、かかる批判に耐える形で生かすことができる。
まず、この要請排除するのは単なる便益享受者ではなく、まさにフリー・ライダーに限定される。すなわち、制度存続を望まぬ制度便益享受者ではなく、他者に制度存続コストを転嫁して制度便益を享受し続けようとする者が排除されるのである。さらに、ここで重要なのは、政治的責務に関して問題となる制度とは、特定の正義構想を具現する制度ではなく、どの正義構想であり、それが実現されるために必要とする集合的決定と執行の政治システムだという点である。この政治システムは、諸個人各自にとって自己の正義構想に合致する決定を産出することもあれば、そうでないこともある。合致するときにのみそれを尊守し、そうでない場合は無視するという態度をとるなら、このシステムは崩壊する。自己の正義構想に反する決定であっても、少なくとも「ある限度まで」自己の正義構想を貫徹する「倫理的潔癖性(moral integrity)」を犠牲にして、その執行を需要するという意味での「倫理的コスト(moral cost)」を人々が払うことによって、このシステムは維持される。
井上達夫憲法の公共性はいかにして可能か」)

岩波講座 憲法〈1〉立憲主義の哲学的問題地平

岩波講座 憲法〈1〉立憲主義の哲学的問題地平

井上が、ここで列挙している、

  • フリー・ライダー排除
  • 二重基準排除
  • 既得権排除
  • 集団的エゴイズム排除

こういったものによって、井上が示唆しようとしていることは、言わば、個々の「正義」の具体的内容でない、ということなのである。つまり、私たちが今まで生きてくる中で、その文脈の中で、培われてきて、

  • 自明

なものとなってきた「正義」の、その様相は、人それぞれであって、また、そうであることが、なんら、「間違っている」ことを意味しない。しかし、そうだと考えたとき、では、だれの頭の中に構想されている「正義」が「本当の正義」なのか、という命題が浮かんでくる。つまり、そういった個々の正義を統一的に説明する、

  • 普遍的な正義

を普遍的命題(=シニフィアン)として提示する、ということに、具体的な意味があるのか、ということである。
こういった問題について、次のように考えてみよう。「ゲーム制作部(仮)」の部員たちの中において、風間堅次は、どういった「態度」で存在することが

  • 正しい

であろうか? そんなことは言うまでもないであろう。

  • どうであったっていい

しかし、このことを逆に言うなら、

  • そういった文脈においては、そうである以外にはありえない

とも。つまり、「ゲーム制作部(仮)」の中の風間堅次は、そもそも、「結果的にこうなった」とでも言うしかないものだ、ということなのだ。
さて。ゲームの本質とは何か。それは、ゲームが、そもそも、

  • 無意味

だということである。ゲームのプレーには意味がない。しかし、この場合に、意味がない、とはどういうことか。意味がない、という意味は、

  • 意味を<決定できない>

ということである。

柴崎芦花:風間さんは......いい加減にしてほしいです。袋は......別にいらないとか言うし。私と対戦したいと言っておきながら、勝った方ならどちらでもとか言うし。どこまで私を馬鹿にすれば、気がすむんですか。
ディーふらぐ!? (MFコミックス アライブシリーズ)

この場面は、「ゲーム制作部(仮)」の部長の柴崎芦花(しばさきろか)が、闇(やみ)属性として使う、人の頭にかぶせる袋を、

  • 「奪い合う」ゲーム

に、なぜか、その持ち主の本人である、柴崎芦花(しばさきろか)が参加していて、しかも、このゲームに参加している、風間堅次に、マジ怒りで、ぶち切れているところであるが、そもそも、柴崎芦花(しばさきろか)は、なにが目的で、このゲームに参加しているのか。
ゲームは、そのゲームに参加する一人一人に、その「目的」があるのであって、その行動も、すべて、その「目的」に依存しているにすぎず、そこになにか「統一」的な意味を見出そうとすることは、そもそも、無理があるのだ。
それが、上記における「一階の公平性」に関係している。では、井上が言う「二階の公平性」とは、どういったものなのか。

高尾部長:前のエ...エなんとか強奪ゲームの時、私も参加させたじゃない。その時に、私がアンタに貸し作って、何でも頼めたはずよね。
風間堅次:何でも頼めるの初耳なんだが!?
高尾部長:あんた、ゲームソフト発売時間まで、一緒に時間潰ししない! それで借りはなし! ............でお願いします
風間堅次(心の中):お前はそれでいいのか!?
ディーふらぐ!4 (MFコミックス アライブシリーズ)

上記で検討した、フリー・ライダー排除などのフェアネス問題は、これらを単独でとりあげたときは、やはり、どこか「一階の公平性」の議論とそう違わないように聞こえる。しかしこれを、

  • 貸し借り(=贈与)

の問題と平行して見たとき、非常に違った様相があらわれてくる。私たちが、なんらかの「負債感情」を覚えるとき、私たちは、どんなことを考えているか。つまり、そういった時こそ、私たちは、なんらかの

  • (私的)公平性

において、自らに、「負い目」を感じるわけである。そして、そういった「倫理的(=個人的)」な視点において、相手に、なんらかの「貸し」を与えたと思おうとするわけである。
こういった状態は、ある意味において、お互いの関係を、子供が親に甘えて、あえて、わがままを言うようなウェットな関係(=愛の関係)にまで、進んでいない、ことを意味する。
つまり、風間堅次は確かに、「ゲーム制作部(仮)」の部員になったが、その関係が、そう簡単に、ウェットな心情的共同体にまで、自動的に遷移するわけではない、ということを意味する。どんなに、仲間とか友情のようなものを感じる「形」にまで移行していると思っても、実際の時間の遷移においては、まだ、つい最近出会ったのと変わらない。しかし、たとえそうであっても、お互いはお互いを「フェア」に扱うということが、どういうことなのかを、

  • 二階の公共性

において、つまり、メタ公共性において、実践しているのである...。

ディーふらぐ! (1) (MFコミックス アライブシリーズ)

ディーふらぐ! (1) (MFコミックス アライブシリーズ)