正義論序説:補説一「大衆とは誰か」

近年、非常に拡大してきたネトウヨなどによる、外国人排斥運動を、たんに、差別論として論じることは、彼らの「欲望」に対応して考えているとは言えない。
このことは、同様に、「自虐史観」や、「自主憲法」についても言える。
つまり、こういった運動に特徴的なことは、そういったことを主張している人たちが、こういった問題を、

  • 自らの<自意識>の延長上

で考えていることなのである。つまり、こういった問題は、どこか「再帰的」であり、自己言及的なのである。
三島由紀夫の小説『金閣寺』は、実際の史実における、1950年の放火、焼失事件を題材にしたものであるが、ここで、室町時代から延々と存続し(応仁の乱などで、それなりに修理、再建などが行なれてきたのだろうが)、あの敗戦さえをくぐりぬけてきた「美の象徴」が、だれも知らない、名前も知らない、だれも「注目」しない、一人の鬱屈した日々を生まれてから今に至るまで生きてきた「どもり」の溝口という男が、

  • 放火

しただけで、この世から無くなった、消えてしまった。言うまでもなく、今ある金閣寺はその後、建て直された、焼失する前の長い年月の間にはげ落ちた「金箔」を「再現」させた

である。この「グロテスク」なコピー物を作らずにいられなかった私たちは、むしろ、この無名の、なんの英雄的存在でもない、「溝口」という「大衆」(これは、三島の小説上の名前で、実在の人物ではない)によって行われた蛮行であったということに耐えられなかったのではないか。
三島のこの小説を読むと、一つはっきりとした「違和感」を与えるのが、この透徹とした「文体」である。なんの感情移入も感じられない「冷たい」文章は、三島言わく、森鴎外のスタイルを意識したものであることが、ウィキペディアにあるが、しかし、他方において、この、あまりにも私たちという

  • 恵まれた半生を生きてきた

人々の「感情移入」を拒んでいる存在の「記述」として、三島自体が、こういった形しか選べない、という感覚があったのではないだろうか(それが、この小説のどこか、突き放した、感情移入を拒否する、新聞記事のような文体を意味しているのだろうが、それが、この小説を傑作にしたのか、駄作にしたのかは、人によって受けとり方は違うのだろう)。
こういったプレカリア小説として、中上健次のデビュー作である、『十九歳の地図』を考えることができるであろう。実際、中上健次の小説は、ことごとく、

  • 大衆小説

であった。それは、エンターテイメントかどうかの前に、そこに登場する人々が、もはや、<大衆>と呼ぶしかないような、私たちには簡単に感情移入が「できない」ような、さまざまな異質性を内包していた、非常に不思議でありながら、強烈な吸引力をもつ小説を書き続けた存在として、中上健次は今でも、多くの人に深く考える何かを残した、という印象がある。
そういった意味においては、桜庭一樹を、私たちが簡単には見通せない、

  • 不透過な<大衆>

を描くことで、純文学的な評価をえることになった作家だと、とらえることもできるのではないか。小説『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』において、主人公の山田なぎさは、転校生の海野藻屑(うみのもくず)に一方において感情移入をしようとしながら、それを、どこかにおいて、決定的に

  • 拒否

してくるものを、海野藻屑(うみのもくず)という存在そのものに対して、感じずにはいられないし(その非常に大きなウエイトに彼女へのドメスティック・バイオレンスと、それを含んだ形での共犯的な家族<愛>が、他者の安易な想像を拒否する形で暗示されるわけである...)、その、なんとも説明のつかない感情に苦しみ続ける。
これと同じ構造が、直木賞作品となった『私の男』における、腐野花(くさりのはな)や腐野淳悟(くさりのじゅんご)に対する

  • 不透過な、私たちの安易な感情移入を拒否してくる<極私性>

においても繰り返される。この作品において、腐野淳悟(くさりのじゅんご)が腐野花(くさりのはな)の足元に座りこみ、なにか、宗教的な儀式のような祈りのような行為を行う場面があるが、こういった場面が、私たちの一般的な共通感覚による、安易な「共感感情」を拒否するものとして、「あえて」描かれるわけである。
また、同様の構造が、『ファミリーポートレイト』においても繰り返される。この作品においても、主人公のコマコの、母親のマコと過ごした、幼少期における、私たちの「想像を超える」、戸籍をもたずに日本各地を転々と生きる姿は、私たちに、コマコやマコに対しての、安易な共感を「拒否」する、大衆への不透過性を見事に描いていると言わざるをえない。
私たちが「大衆」と言うとき、私たちは、言わば、自分が今まで生きてきた中において、非常に牧歌的な「標準的(=平均的)人間」のようなものを想像する。生まれて、特に、なに不自由することなく生きてきたけど、これといって、不幸でもなかった、というような、村上春樹の小説にでてくるような、主人公の「僕」を思わせる。
しかし、そうではないのである。
「大衆」ということは、その大衆「全部」を含んだ何かを指示しているのであって、そこには、「いろいろ」な生い立ちや、半生を生きてきた人たちを

  • 含んでいる

のである。それは「平均」ではないのだ! 一人一人の「具体的」な人間がいるのである...。