あざの耕平『東京レイヴンズ』

よくよく考えてみると、功利主義というのはよくできている。あらゆる社会の物事を説明可能なようにさえ思わせる。しかし、他方において、多くの場面において、大衆は「不合理」に思われる行動をしてきた。しかし、結果としてそれが、さまざまな政治の変革であり「革命」を可能にしてきた。
ここには、どんな法則があったのであろうか。

そして倉橋は、最後に春虎に向かい、
「選びたまえ」
と静かに告げた。
春虎は眥を決した。
ここに至ってもなお、葛藤はある。迷っている。
しかし、大友や仲間たちの情報が、春虎を縛り、締め付けた。
自分のせいで仲間に何かあったら、取り返しがつかない。もしも、夏目に続いて誰かを失うようなことがあれば......その恐怖、その可能性に、いまの春虎は耐えられなかった。こうして迷っている瞬間にも、悲劇が繰り返されないとは限らないのだ。
「......わかった」
と、春虎は答えた。
倉橋が頷き、夜叉丸の唇に微笑が浮かんだ。
が、
「------お待ち下さい」
幼くも凛とした声が、春虎の決断を遮った。
「コン!?」
突然、目の前に一人の少女が現れた。
片膝をつき、春虎に向かって頭を垂れている。三角に尖るふたつの耳に、木の葉型のしっぽ。水干に指貫姿の幼い少女。控えていろと指示したはずの、春虎の護法式コンだ。
「お、お前、勝手に......!?」
もちろん、倉橋たちは春虎の護法式のことなど、とっくに調べ上げているだろう。また、存在を隠していたところで、現状を打破する切り札にはなり得ない。そもそも、すでに話は「戦力」でどうこうできる問題ではなくなっている。
いや、だからこそコンは、あえて命に背いてまで姿を見せたのだろう。敵の警戒を促すことを覚悟の上で、それでも春虎に意見すべく現れたのである。
まだ顔を伏せたまま、
「はは、春虎様。ご無礼を承知で、あえて申し上げます。この者どもは信用できません。そのようなことは火を見るよりも明らかです。どうかご再考下さいませ。いいえ、再考なさるべきです」
「コン......」
思いもよらぬ式神の進言に、春虎が鼻白む。一方、思わぬ闖入者に、倉橋は眉をひそめ、夜叉丸は嘲弄めいた冷やかな微笑を浮かべた。彼らもさすがに、こんな場面で護法式が主に物申すとは予想していなかったらしい。
対してコンは、倉橋たちの反応など一切省みない。無防備に背中すら向けて、ただ主にだけ頭を垂れていた。
「......コン」
と春虎は苦い思いで口元を歪める。
そして半ば自棄(やけ)になりながら、
「ああ、そうだな。こいつらは信用できねえよ。おれが信用してないことだって、当然お見通しだろうさ。わかってる。でもいまは仕方ないんだ。感情的なことは置いて、お互い利用し合うだけだ」
健気で忠実な式神に対して、初めて強い苛立ちを感じる。
待機しろという春虎の意図を汲み、ここまで事の経緯を見守っていたのだ。コンだって、それぐらいのことはわかっていると思ったのに。
しかし、
「いいえ」
コンはあくまで譲らなかった。その声はいつになく固い信念に充ちている。
「もも、申し上げます。は、春虎様はわかっておいでになりません。日頃の春虎様なら考えるまでもなくわかっておいでのことが、いまの春虎様にはわかっておられません。『信用できぬ』ということは、仕方がないからといって妥協して良いことではないのです。その利に眩んで、安易に歩み寄るべきではほざいません」
「コンっ。もういい。黙って----」
「い、いえっ。おお、お聞き下さい。春虎様。この者どもの周りを見れば、一目瞭然ではございませんか。この者どもが、近しい者、付き従う者、共に戦う者に対し、これまで何をしてきたか。お考え下さい。この者どもの『同士』とやらで、幸福な笑顔を浮かべておる者が、ただの一人でもおりますか?」
そして----
ズッ、とコンは面を上げた。
コンの青い瞳。瑠璃のように美しく、蒼穹のように奥深い双眸が、真っ直ぐに春虎を射抜いた。
「春虎様。いま春虎様が向かわれようとしている先に、春虎様の笑顔はございません。そして、たと生き返られたとしても、夏目殿の笑顔もまた、決してないでしょう。思い出して下さいませ、春虎様。夏目殿は、笑顔を浮かべてお亡くなりになりました。春虎様は、その笑顔を汚すおつもりですか」
「てめえ...っ!?」
春虎は激昂した。なぜそこまで激しい怒りを覚えたのか自分でもわからなかた。対して、コンの瞳は真っ直ぐ春虎に向かい、一点の曇りもなく澄んでいる。
不意に思い出す。子供のころ、これに似た瞳を見たことがあった。遥かな峻峰の頂きに湧く、空と宇宙のみを映した湖面のような瞳。まだ春虎が知らない種類の、峻厳な強さを秘めた瞳。
他方、
「.........」
いつしか夜叉丸が表情を消し、静かに前に出ようとしていた。が、倉橋が春虎たちを見たまま、右腕を挙げてそれを制止した。倉橋はあくまで春虎の決断を待っている。夜叉丸は顔をしかめたが、最終判断は倉橋に預ける。
そんな大人たちの反応には気づかぬまま、
「じゃあどうしろって言うんだ!」
と春虎は怒鳴り声を上げた。
「笑って死んだから、それでいいって言うのか!? ふざけんな! おれは何がどうあろうと、夏目を生き返らせる!」
必死に叫んだ。ほとんど逆上寸前だった。それは、ある意味春虎が自らの誤ちを認めてしまったからだろう。コンの進言を正しいとわかっているから、声を荒げて怒鳴りつけるしかなかったのだ。
応えてコンは、きっぱりと告げる。
まるで、名工が打ち上げた真新しい日本刀で、複雑に絡まった縄を一刀両断にするかのように、
「ならば春虎様。それ、他の何者にも任すべきではほざいません。春虎様ご自身の手でなされるべきです」
春虎の怒りが凍り付いた。
倉橋がハッと目を瞠り、夜叉丸が思わず舌打ちした。
迂闊といえば迂闊だったかもしれない。が、この場にいる誰一人として、その発想はなかったのだ。
コンはまるで動じた様子もなく続ける。
「他でもない、『魂の呪術の権威』とやらが、春虎様こそ土御門夜光の生まれ変わりだと申しております。そして、いまある『泰山府君祭』を完成されたのは、その土御門夜光にございます。春虎様が土御門夜光なら、『泰山府君祭』を操れる道理がございません」
「そ、そんな------無理だろ!? おれは前世の記憶なんて甦ってないんだ。知識や才能だって変わってない。お、おれに『泰山府君祭』なんて、使えるわけが----」
「春虎様。情けないことを仰いますな。何がどうあろうと生き返らせると、つい先ほど豪語なさったはず」
「----っ」
春虎は言い返せない。
もちろん、あり得ないほど低い可能性である。幾つもの課題をクリアした先にある、ほんのわずかな可能性だ。春虎が、また倉橋や夜叉丸がいちいち考慮するに値しなかったとしても無理はないだろう。
しかし、ゼロではない。その可能性は「ある」のだ。
そして、弱り、苦しげな主に対し、護法は容赦をしなかった。
「春虎様。春虎様が心の底より夏目殿に償いたいと思われるなら、その責は春虎様が負うべきかと存じます。他の者に押しつけて、なんとします。ましてや、悪党の手を借りて償おうなど言語道断。それでこの世に舞い戻ったところで、己が償われたなどと、夏目殿がお思いになられましょうか」
されど、とコンは続ける。噛んで含めるような落ち着いた声が、しかし、まるで嵐のように激しく、春虎の胸中を掻き乱す。
強く、荒々しく、豪快に。
「されど......春虎様。春虎様が自らの手で、自らの責にて夏目殿を呼び戻すなら......たとえ結果がどうあれ、夏目殿は喜んでくれます。必ずやもう一度、笑顔を見せて下さるでしょう」

この場面は、春虎が死んだ夏目を甦らせるために、倉橋たちの組織の力を利用しようとする場面であるが、春虎の式神である「コン」は、主人に諫言をして、止めさせようとする。
こういった姿は、とても日本的だと言えるであろう。日本の主従関係における特徴は、次々と、従者たちが、主人に、諫言を始めることだと言えるのではないか。
従者とは、いわば、「大衆」である。彼らは、あくまでも主人によって、食い扶持を与えられている存在である。そういう意味では、主人に食べさせてもらっている、主人の恩という「借り」を生きている、とも言えるであろう。ところが、コンは、ここで、春虎の行動に「反対」する。
従者は、たんに「奴隷」として命令されている「から」、主人に従っているのではない。そもそも、武士は、もとは、傭兵である。彼らは、主人に従うのは、彼ら自身の「意志」であるという、誇りがある。つまり、彼らには、自らが主人に従うことの「満足感」をもたらす、世界観、コスモロジーがあるわけである。
そして、彼らが主人の行動に、そのコスモロジーをかき乱す徴候をかぎつけたとき、その不快な感情の現れとして、諫言が行われる。
上記の引用にもあるように、この「乱れ」は、そもそも、主人が日頃から言っていること、自らに戒めていることに反する行動を始めているから、その行動の「浅慮」を、叱るわけである。その「矛盾」が、従者の「コスモロジー」をかき乱すわけだ。
主人が日頃語っていることを、こういった「非常事態」を前にして、覆そうとしたとき、従者は、この主人が自ら従うに足る存在なのかの、その「正当性」を突き付けられる。
ということは、どういうことか?
従者が主人に従うことは、己の人生を賭けた重大な決心である。それは、自らのこれからの半生を主人に捧げる、という決心である。しかし、この態度は、必ずしも、奴隷を意味しない。主人に従うということは、その主人が自らが従うに「ふさわしい」存在だから、そうするわけである。ということは、どういうことか。もしも、そうでないことが分かったなら、自らの死を選ぶことさえ辞さず、という「決意」を意味していた、ということである。
主人の「感情」に伴う、プラグマティックな功利主義的な、機会原因論は、多くの場合、自らの「部下」たちの、「不快な感情」のコントロールに失敗することによって、首尾よく終わらない。それは、そもそも、部下たちが「奴隷ではない」からなのである。
彼ら主人たちは、一方において、部下たちの「主体的」な行動を求めながら、他方において、自らの命令に従うことを求めることが「矛盾」していることに、少しも疑いを感じない。
奴隷は、主人の命令に従うが、彼らは決定的に主人に無関心である。彼らは主人を軽蔑しているだけでなく、主人との一切の感情のコミットメントをしてこない。
他方、部下はまったくその逆である。部下は、そもそも主人の命令に従わない。部下が部下であるのは、主人が「そういう人」だからであって、それ以上でもそれ以下でもない。部下が主人の命令に従うのは、彼らが主人が「そうある」ことに熱狂的な満足感があるからであって、つまり、彼らは「仲間」として、主人「そのもの」に従うわけである...。

「いい? 阿刀冬児。倉橋京子。大連寺鈴鹿。この三人はとっくの昔からマークされてる。当たり前なの。大連寺至道と同類の生成りに、呪術界の大家、倉橋家の娘。そして『十二神将』の『神童』。そんな『ワケあり』の三人が土御門夏目と土御門春虎の側にいれば、注目されないわけがない。あの三人には、ここまで組み上げられた状況をひっくり返すことはできない。そしてそれは、大友陣も、土御門家も、私だって、同じ。この私ですら、マークされている」
だから、と早乙女は無表情に続ける。なんの感情も表に出さず------しかし、強い意志からなる言葉を紡ぐ。
「だから------百枝天馬。あなたがキー。もう、私に打てる手はほとんどない。多分、これが最後。私は......あなたに『賭ける』」

多くの場合、なぜ、「支配」は変わらないのか。それは、支配をする側が、支配をされる側の力の按分を、十分と言える位には、見積っているからである。力は力によって測られる。なぜ「支配」はくつがえらないのか。それは、その力には、その力に対抗するに「十分」な割合の対抗軸を用意するから、である。
つまり、力は力を「マーク」する。たとえ、固有のポイントが、どんなに「強力」だったとしても、それらのポイントを、徹底して、監視し、マークすることで、その場合に応じた「対応」を行うなら、なんとでも、やりようはある。ある一人にどんなに力があったとしても、では、その一人に、その人の十分の一の力をもつ人を、十一人そろえれば勝てる、ということになるであろう。
つまり、そういう意味において、あらゆることは「陣地戦」だと言うこともできるだろう。
早乙女涼(さおとめりょう)は、現在の自らを含め、敵に徹底的にマークされた今の状態から、どう考えても、突破口がないように思えてしょうがない。どうしても、最後の一歩を超えられないのだ。
しかし、そのとき、彼女は、あることに気付く。
それが、百枝天馬(ももえてんま)である。

----『いい? 百枝天馬』
脳裏に早乙女の言葉が甦る。天馬は慎重に廊下を進む。
----『いま陰陽庁の目に、あなたは映っていない。向こうはあなたのことなんか、眼中にないから。陰陽庁にとってあなたは、カウントする価値がない』
ずいぶん酷いことを言われたが、単なる事実である。冬児や京子、鈴鹿と違い、自分はくまで陰陽塾の平凡な一塾生だ。実技などぶしろ苦手な方だし、実践に強いわけでもない。特別な力など、何ひとつ持っていない。
ただ、
----『でも、あなたにとって、陰陽庁は「敵」。とすると、あなたにっていまの状況は、あなたが陰陽庁に対し、とても強力な隠形術を使っているのと同じ意味、同じ価値を持っている』
陰陽庁の上層部というのは、輝かしい才能がひしめき合うプロの世界にあって、さらに「上」へと上り詰めた優秀な者たちだ。そんな者たちが、自分のような冴えない凡人に注目しろという方が難しい。そう、「難しい」のである。
なら、それは天馬の利点になる。
----『一見堅牢な城壁だろうと、要となる石を抜けば崩れることがある。道端に転がる石ころだろうと、時と場合によっては「武器」になる。いい、石ころ? ......じゃんかった、百枝天馬? 私はいまから狙いを済まして、あなたを放り投げる。陰陽庁の要石、見事砕いて見せなさい』

百枝天馬は、陰陽学園においても、まったく目立たない、普通にどこにでもいる、凡庸な学生にすぎない。しかし、早乙女涼は、むしろ「そうであるからこそ」、彼があるブレークスルーになる可能性を見出す。
百枝天馬は、究極の「凡庸」である。だれの目にも止まらない。だれもなにも気付かないくらいに、どこにでもいる、だれとも区別のつかない、「つまらない」存在である。そんな彼に人々は、

  • 自分より劣っている、という意味で、「(優越的な上から目線の)好意」をもつ

か、

  • 彼を「差別」する

のだ。彼らは自らより劣る存在を「空気」と区別しない。まさに、三島由紀夫の小説『金閣寺』のように、こんな「凡庸」な一般人が、まさか、あの美の象徴の金閣寺に放火などできるわけがない、と考えるのである。

しかし、あのときの大友の言葉で、いまもまだよく覚えていることがあった。呪術は奥が深く、幅が広い。それも様々な方向に。どんな才能であれ、武器にすることはできる。天馬の良心の例を出し、大友はそんなことを語ってくれたのだ。
実際、自分は冴えない半人前だが、だからこそ、ここまで辿り着いた。大人しくて人が良いだけの地味な人柄ですら、使い方次第で「武器」にできるのが呪術なのだ。
隠形術は苦手だった。苦手だと思っていた。でも、多分違う。逆だ。自己評価では「苦手」だあとしても、おそらく自分は隠形術に「向いている」。相性がいい。
誰にも害にもならん愛想笑い。自信のないおどおどした態度。それらはすべて天馬自身の低い自己評価が、そのまま表に出ている結果だろう。レベルの高い友人たちの中にあって、天馬の自己評価が低くなるのは当然だ。
そして、そんな自らに対する評価を、自分を偽ってまで無理に書き換えることない。
自分は仲間内で劣っている。それが表に出てしまう。そんな自分を認めよう。認めて、その上で「視点」を変えよう。
たとえば、そんな自分と相対した者は、多くは無関心、ときには好意を抱き、また往々にして低く見る。見くびる。油断し----隙を作る。
その「隙」に潜り込むのだ。自信のないままでも。恐る恐るとでも。

大衆は、「他と区別できない」という意味で、なにも、突き抜けていないために、差異がない。しかし、そのことが、

  • 彼等が何もできない

ということを意味しない。むしろ、彼らには、彼らなりの、「進化論的な意味でのバランス」があると言えるのかもしれない。もっと言えば、彼らは、

  • 精神的なバランスがいい

可能性がある。なにか一つのことに突き抜けた才能がないことが、その人が、多くのことを手広く行う「才能」を意味しているのかもしれない。むしろ、そっちの方が、その人の精神的な安定とタフネスを担保しているかもしれない。
よく考えてみようではないか。社会における「才能」とはなにか。それは、多くの場合、「さまざまなことに対する能力」であることを。決してそれは、「一つ」ではない。むしろ、多くの場合、その「一つ」は、どうでもいいわけである...。