一ノ瀬俊也『日本軍と日本兵』

私は、明治維新から、第二次世界大戦が終わるまでの、日本という国がどういった国であったのかを考えることは、あらゆることの基本だと思っている。
それはちょうど、今、70歳くらいの人たちが「子供」の頃が終戦だということから考えても、私たちの「自明」性が、そういった親でありおじいちゃん世代の、当時の「自明」性との関係で考えられなければならない、という意識があるわけである。
第二次世界大戦における、帝国日本軍について考えるとき、片山さんの『未完のファシズム』という本をこのブログでもとりあげたが、ようするに、明らかに近代戦は、物量戦であることが第一次世界大戦の教訓によって分かっていながら、

  • 帝国日本軍内部の<派閥>権力闘争

によって、物量戦について本気で取り組もうとした勢力が、次々とパージされていき、口あたりのいい、だれからも文句の言われないような、当たり障りのないことを

として(「精神論」として)言っている連中が、他方において

としては、なにも打つ手がなくなり、ひたすら、いつか、アメリカが怒りの矛先をおさめてくれて、和平の手打ちをしてくれることを願い続けて、ただひたすら、国民を、神風特攻隊にして、アメリカという神様に人身御供として

  • 供物(くもつ)

として捧げ続けることをやり続けた、それが真実だった、ということなのである。
つまり、日本の戦争とは、そもそも、日本と他国との戦争ではなかった。日本国内の、軍内部の勢力争いを「第一義」にして行われた、国内の権力争いこそが、その実体であった、ということなのである。
戦争とは、軍内部の権力争いにおいて、どちらが有利になるのかを決める、一つのパラメーターにすぎない。そもそも、軍隊は、日本が勝つか負けるかなど、どうでもいい。軍隊は軍隊内の「権力争い」が、どういった軍内部の力の分散を結果するか、にしか興味がなく、もしもそも結果さえ、どうにかなるのであるなら、戦争をしていようが敗戦しようが、平和だろうが、どれだっていいのだ。
この状況は、今の日本における、財務省経産省における権力争いにおいても、まったく変わらない。なぜ、日本において、ここまで消費税増税が目指されるのか、なぜ、原発を日本はやめられないのか、というのは、そもそも、彼ら財務省経産省の内部の権力争いが、こういったものを軸に組み立てられているからにすぎない。消費税増税財務省の長年の悲願である限り、彼らは、日本の庶民を「生かさず殺さず」の税体系にできさえすれば、あとのことは「どうでもいい」と考えているし、原発経産省内部のさまざまな「権力者」自身の権力の源泉になっている限り、止められない、止めるわけにはいかない。止めたら、この権力の

  • バランス

が崩れるから、なんとしても続けないという選択肢を選べないわけである。
つまり、一言で言うならば、この日本を動かしているのは、

であって、つまりは、たとえ同じ陸軍の中でも、違う「セクト」に属しているなら、敵対する。すべては「派閥」によって、日本は動いている、ということである。
日本とは「派閥」の集合体のことである。もちろん、村とは「派閥」の一つである。

では個々の日本兵はどのように観察されていたのだろうか。

多くの日本兵は農村出身で、そのためわずかな教育しか受けていなかった。だがほとんどの者は読み書きができる。彼らは二一歳になると兵役の義務を負うが、学校に行っている者は二五歳まで延期してもらえる。訓練はたぶんどの国の陸軍よりも厳しいものだ。彼らを頑健にするためであり、たいていの者はそうなる。日本兵たちは私に、訓令機関の終わりに多くの名誉あるハラキリが行われる、なぜなら厳しい懲罰に耐えられないからだと語った。体罰はひどいものだ。兵は上官に殴られ、蹴られている間直立していなくてはならない(図1)。もしビンタを受け損なえば立ち上がって直立し、再び罰を受けねばならない。私は兵が殴られて気を失い、宿舎に運ばれていくのを見たことがある。あるときなどは大尉が兵の睾丸を蹴るのを見た。上級の者はそれがささいな怒りによるものでも、いつでも罰を加える権限を持っている。
日本軍の最下級兵は一つ星の兵、すなわち二等兵である。彼は他の者の服を洗い、食事を作り、寝床や荷物を整え、その他のあらゆる嫌な仕事をしなくてはならない。からかわれ、何か間違いがあれば身代わりとされる。六か月野戦を経験すると自動的に二つ星の一等兵に進められる。彼の生活に二等兵を殴ってもよくなったこと以外の喜びは特にないため、熱心に殴っている。しかし、もし二等兵がいなければ相変わらず殴られている。

農村出身であるが読み書きができる。訓練は殴打を含む過酷なもので脱落者も多い。軍隊内から暴力がけっしてなくならないのは、殴られている者もがて下級者が来たら彼らを殴れる立場になるからだ。

日本軍のほぼ全てを構成していたのが、徴兵によって集められた、地方の農民である。このこと決定的に重要である。つまり、日本軍は、数のバランスにおいて、こういった「農民」たちの精神的作法を決して無視できなかったのだ。
なぜ日本の農民は読み書きができるのか。それは、日本語とも関係あるのかもしれない。日本の教育は、まず「ひらがな」から始まる。ということは、ひらがなさえ読めれば、ある意味、日本語のすべては読めるとさえ言えないこともない。つまり、初等教育の最初で脱落した農民であったとしても、「ひらがな」くらいは読めた、ということを意味していたのだろう。
そもそも、日本のこうやって集められた「農民」たちは、戦う「動機」をもっていたのだろうか? 私には、そこが一番の疑問だ。

日本兵は五年間服役すれば日本に帰ってよいと言われている。五年の服役を終えて帰国する日本兵の一団をみたことがある。彼らは幸運にも戦争から抜けられるのを非常に喜んでいた(今や八〇パーセントの日本兵が戦争は苦痛で止めたいと思っている。しかし降伏はないとも思っている)。

私は、日本の軍人たちは、まったく、「やる気がなかった」と考えている。彼らは早く、地元に返ることしか考えてなかったはずなのだ。彼らは、一度も、軍人としてのトレーニングを積んだことがない。そりゃあるわけない。

  • 農民

なのだから。そもそも、生まれてから死ぬまで、戦争のことなど、これっぽっちも興味をもったことがないのだ。彼らが考えていたことは、早く五年が過ぎで、地元に返れないか、しかない。彼らには、まったくの「主体性」がない。

まず、個人攻撃は下手だが射撃規律、すなわち上官の命令による一斉射撃は良好というのは”集団戦法”が得意だという戦後の日本社会に流行した日本人論を先取りする。

このことは、完全に彼らが、まったくの「主体性」を欠いていることを非常によく説明する。なぜ、「集団戦法」なのか。彼ら農民は、人殺しなんて、まず、自分の意志でやろうなんて、これっぽっちも思っていない、ということである。だれかに「強いられる」から、

  • 仕方なく

やるのだ。だから、必然的に「集団」になる。命令されて、命令違反をすれば、自分が殺されるから「仕方なく」鉄砲を撃つのだ。なんで、農民が人殺しをしなければならない。なんの必然性もない orz。

陸軍はいわゆる大正デモクシー期の一九二一年に軍隊内務書を改正して兵に「自覚的」な「理解」ある軍紀服従を求めたのに、満洲事変後の一九三四ん年にあるとそれは「誤れる『デモクラシー』的思想」への迎合に過ぎぬとして、その「網領」から「衷心理解ある」や「小事に容喙して自主心を萎靡せしむるか如きある可らす」などの文言を削除し、兵の自発性を否定してしまったのである(遠藤芳信『近代日本軍隊教育史研究』一九九四年)。日本兵たちが将校を撃たれるやばらばらになったのは、こうした軍教育と関係があるかもしれない。

この指摘が決定的に重要である。帝国日本軍は、彼ら農民を徴兵しておきながら、そもそも、彼ら農民を本当の意味での「軍人」にトレーニングをやってあげるという「考え」がなかった。つまり、彼らは

  • エリート

なのであって、彼ら士官候補のエリートたちは、農民徴兵たちを、

  • そもそも軍人と考えていない

ということである。まともに、トレーニングをやってやるつもりもない。まるで、ロボットを使うように、大企業が「派遣社員」を、まるで、「備品」であるかのように物扱いして、ポイ捨てするように、同じ軍人だと思っていないわけである。とにかく、

  • 俺の言うことを聞いてればいい

としか考えていない。同じ人間として扱わない。まあ、今の高学歴エリートたちと同じ鼻持ちならねえ、信用ならねえ、つまんねえ、小役人というわけである orz。
まあ、当たり前だけど、こういう扱いをしてる組織は、どんなところでも、兵隊のやる気は、だだ下がりするよね。つまり、帝国日本軍は、末端に行けば行くほど、やる気がない。なにを目的にやっていいのかも、さっぱり分からない。
しかしね。帰ると言っても、じゃあ、敵国アメリカ軍に投降して、彼らの捕虜になって、日本に戻してもらえばいいんじゃねのかな、と考えるかもしれないが、彼ら農民たちは、それは、かなり「難しい」と思っていたみたいなんですよね。

だが一方で皆降伏したり捕虜になったら祖国には戻れないと信じている。しそうなれば殺されると言っており、もっとも教育のある者ですらも同じく信じている。この信念が、彼らを強敵らしめている基本的要素の一つである。体罰への恐怖もまた、戦場での働きの重要な要素である。個人的には、日本兵は頭脳と自分で考える力を考慮に入れる限り、三流の兵隊だと思う。私は数人の、どの陸軍でも通用する兵隊に出会ったが、それはあくまで数人に過ぎない。

天皇靖国のためではなく、味方の虐待や体罰が怖いから戦っているに過ぎないという軍曹の指摘を踏まえるならば、日本軍兵士は敵アメリカと戦うための明確な大義を「自分で考え」、敵を激しく憎むことができなかったことになる。このことが米軍側から「三流の兵隊」呼ばわりされるに至った根本理由だったのかもしれない。

捕虜の多くは、捕まったのは終生の恥(life-time disgrace)であると語った。最近尋問されたある捕虜は、祖国に帰ったら全員殺される、父母さえも自分を受け入れないだろうと言った。しかし、何らかの手心が加えられるかもしれないとも述べた。別の捕虜は、生まれ故郷でなければ、帰国して普通の生活ができると思っていた。(前掲「日本兵捕虜から得た情報」)

つまりさ。まったく、やる気のない、日本の地方の農民たちは、しかし、そうではあっても、他方において、

  • 尻尾を巻いて逃げたら、田舎に残している自分の家族が、さまざまな嫌がらせを受ける

と考えていた、というわけである。つまり、地元で農業は続けられない、と考えていた。こう考えると上記の引用の最後は、興味深いだろう。もしかしたら、日本政府は、自分の身元を隠して、地元ではない別の所で、「生かさせてくれるかもしれない」という

  • 淡い期待

をもっていた、ということである。つまり、である。彼ら農民は、徹底して、自分が地元で以前と同じく、同じ土地で「農業」を行う条件と、戦場で戦うことを天秤にかけて生きていた、ということなのだ。
アメリカの知識人が上記で、日本の軍人は「三流」だと言っている意味が、よく分かるであろう。日本の軍人は、そもそも、アメリカ人も、中国人も、まったく「憎んでいない」のだ。なんの主体的な動機も、自分の心の中から探しても見つけられない。
ところが、である。
日本のエリートは「それでいい」と本気で考えていた、ようなのだ。彼らは、そもそも、なぜ田舎の農民を、連れてきて、アメリカ人や中国人を「殺させる」のに、なんの「動機」も与える必要がない、と考えたのだろうか? 彼らは、そういった農民が、ただ、

  • 命令に従わなければ殺す

と「脅せ」ば、自分の言うことに従うと考えた。つまり、エリートたちは、本当の意味で、こういった農民たちに興味がなかったのだろう。彼らは自分の出世のことしか興味がなかった。だから、こういった農民がなぜ、自分の言うことに従ってくれるのか、自分を「守る」ために戦ってくれるのかを本気で考えなかったのだ。

軍曹は続けて「日本の将校、少なくとも下級将校は下士官よりいいものは食べていない。食べ物は兵と同じもので、若干品数が違うだけだ。上級将校は王侯のような食生活をしている」と記しているのは、日本陸軍という組織の末端における疑似的な平等性の存在をうかがわせる。同じ物を食べていたことが、将校と下士官、兵を心情的に結び付ける効果を発揮していた。
宴会で中隊長も兵も一緒に酒を飲んでいたことも、日本陸軍の組織的結合の特徴を示すといえよう。ぼど同時代といってよい一九四八年、法社会学者の川島武宜は日本社会において「親分子分的結合の家族的雰囲気」ないしは「兄弟分意識」が醸成される過程で「皆が一緒に酒を飲み、それができない者は「仲間はずれ」にされていることに注目している(川島『日本社会の家族的構成』一九四八年)。将校も兵も、かつて故郷でそうしていたのと同じように、酒を飲んで互いの結びつきを再確認していたのだ。

言うまでもなく、

  • ただの農民

である、日本の軍隊は、そういった「農民」たちが彼らと「同期」を合わせて行動してくれることの<モチベーション>を常に調達しなければならない、という「アポリア」に遭遇する。
まず、最初に行われたのが、「五年我慢したら田舎の農地に帰れる」という

  • アメ

である。次に(これは今でも、日本の体育会系の部活で慣習化されているが)、一番の末端の連中は、「先輩の言うことには絶対服従」ということである。
よく考えてみると、この慣習は、あまりにも「異常」である。なぜなら、この作法を強いることができるのは、下っ端を卒業した「全て」のメンバーだからだ。つまり、どういうことか。

  • 末端以外の全員が「司令官」になれる

ということである。恐ろしいことに、司令官でなくても、「自分より下」に対して、いくらでも命令できるし、ガキの使いをやらせることができる。この、「序列」制度が、ただ耐えることだけだった彼ら「農民」に、

  • 日々の楽しみ

を与える。日々の日常において、むしゃくしゃすることがあったとしても、こういった後輩を、サディスティックに扱うことで、

  • ストレス発散

を行う。「これ」を日々の楽しみにして、毎日を生きるわけである。
おそらく、こういった「作法」は、彼らが地元の農業をしているとき、普通に周りにあった光景なのではないか。小作人と地主の関係においては、こういった作法が日常化していたのであろう。
司令官は、一方において、部下たちに、正規の軍規の行動における「規律」を要求していきながら、他方において、彼らのその「ストレス」に対して、さまざまな「慣習」的な、軍規からの逸脱、彼ら自身の慣習的な作法による行動を、

  • 認容

していく。こういった「トレードオフ」によって、彼らのモチベを下げさせないことによって、彼ら司令官たちは、綱渡りの「部隊運営」を行っていたのであろう。
私たちは、多くの場合、リーダーというのは絶対の権力者だと思っている。しかし、そう考えることは、多くの場合、理想論でしかなく、実体から、かけ離れている。実際のところは、リーダーではなく

  • 派閥

がさまざまな力関係を支配する。リーダー「だから」命令に従うのではなく、<こいつ>の発言に従うことが、「派閥の得になる」から、従うわけである。
つまり、そもそも、リーダーには、なんの「パワー」もない。もしもリーダーが「パワー」を欲しいと思ったとき、まず、行うことは、彼ら部下と自分との関係を、「親分子分」の関係にスライドさせることである。
こう考えたとき、上記の「食事」の話は、非常に示唆的である。親分は子分と同じものを食べる。同じ酒を一緒に飲んで、気分としての、「共同体」を作る。つまり、親分は、子分に

  • 譲歩

する。さまざまな「便宜」を子分に与えることで、彼らの「忠誠」を獲得する。親分は自分の子分たちには、さまざまな「便宜」を与える。彼らがなるべく「気持ちよく」生活できるように便宜を与える。つまり、「贈与」だ。そうすることで、部下たちの忠誠を繋ぎとめる。
その一つとして、上記にある、「一年生部員」の奴隷化がある。これは、上級生たちの「モチベーション」を繋ぎとめる、最も効果的な操縦術だということである。
帝国日本軍の「エリート主義」は、必然的に、どうやって「やる気」のない連中に、戦争へのコミットメントを継続させるのか、というところに焦点が移っていく。「エリート」は、こういったやる気のない連中を、最後まで、なんとか「おだて」て、アメを与えて、自分の言うことを聞いているように、上司に「見せる」ことが、

  • 出世

を決定するようになる。だから、彼ら「エリート」は、こういった兵隊をおだてる手管だけは、やたらとうまくなる。
しかし、である。
こういった、そもそも、まったくやる気のない、なんの内的「動機」ももなたない、敵への憎しみの一切ない連中にとって、戦局が悪くなったとき、つまり、

  • 自分の死

が非常にリアルになったとき、一体、何が起きるのか?
まず、最初に起きることが、彼らのモラルの崩壊である。ほぼ確実に、自分は、あと一週間以内に、敵に殺されて死ぬ。物量戦の状況から、それは、まず間違いない。ところが、なぜか、本国の大本営は、一向に、降伏をしようとしない。だったら、

  • なんでもやりたいことやろーぜ。どーせ死ぬんだら

というわけである。
(日本が戦争をやってはならない理由は、常に、天皇制の存続を相手が約束してくれるという確約を受けられない限り、降伏できないから、である。つまり、日本が降伏を選ぶことは、天皇<自身>が降伏を選ばない限り、不可能だからなのだ。こういう意味から、日本は、平和国家にならざるをえない。未来永劫、天皇制を止めない限り、日本が憲法第9条を捨てることはできない。このことを分かっていない、自称知識人が多すぎる印象が強い orz。)

多くの日本兵は負け戦が込んでくると、米軍側に奔らないまでも士気をひどく低下させ、各種の犯罪も多発した。IB一九四三年六月号「日本軍についての解説----その文書から」は「ニューギニアのある地域における日本軍の軍紀は、完璧にはほど遠い状態だった」と断じ、その理由として、ある日本軍の小冊子に「作戦中、軍紀にふれる犯罪が多数発生した。精神力の弛緩と気力不足のためである。軍紀にふれる犯罪は以下のもの。略奪・強姦(もっとも多い)、住居侵入(次に多い)、命令違反(多くは酒に酔って)、軍装備品の破壊、脱走、立入禁止区域への侵入、無許可の歩哨位置離脱、秘密文書の紛失、特に暗号書」と書いてあったことを挙げている。

帝国日本軍は、史上最悪の軍隊だったんじゃないだろうか。
それは、二つの理由から、そう言える。

  • エリートが、農民たちをまったく「教育」する動機をもたなかった(彼らを真の軍人に変えようとする動機をもたなかった)。
  • 農民が最初から、やる気がなかった(人殺しをするための、敵を憎むというモチベーションが一切なかった)。

しかし、おそらく、これと同じことは、この日本のあらゆる所が行われている。これこそ、

  • エリートの無能
  • 大衆の無能

この二つを前にして、お互いがお互いを、「人間は愚かだ」と言い続ける。人間は愚かだ、と言いながら、人間は滅んでいく、というわけである...。

日本軍と日本兵 米軍報告書は語る (講談社現代新書)

日本軍と日本兵 米軍報告書は語る (講談社現代新書)