柳田国男『「小さきもの」の思想』

掲題の本は、柄谷さんによる、柳田のアンソロジーであるが、私はこれを読んで、非常にショックを受けた。つまり、柳田国男がいかに重要な存在であるのかを、非常に印象付けられたからだ。
柳田こそ、日本が世界に胸をはって自慢できる、ほとんど唯一と言ってもいいくらいの学者なのではないか。それぐらいの何かを、この本から感じたのである。
柳田こそ、日本における唯一と言ってもいい「現代思想」なのではないか。
柳田の学問スタイルにおいて、幾つかの重要な特徴があるように思われる。一つ目が、非常に膨大の漢籍の知識である。子供の頃から、漢籍に馴染んだ彼は、そういった漢籍を前提とした「文献学」的な接近の「作法」であり、能力がある。
例えば、ある漢字があるとする。そうした場合、漢籍においては、その漢字が使われている文献の

  • すべて

が、一度に抽出される。そして、その漢字がどういった文脈において、それぞれで使われてきたのかの、履歴が一挙に眼前に現れる(つまり、それくらいの記憶力がある)。
これが、漢籍リテラシーである。
昔の日本人には、こういったことを、「教養」として、血肉としている人がたくさんいた。まず、この前提があることによって、始めて、日本学であり、中国学の必須の教養としての、「漢字学」のリテラシーがある、と言えるのであろう。
柳田は、この「基礎」から出発する。柳田が注目するのは、地方の片田舎で使われている「言葉」である。柳田は、こういった「外れ」の、だれも注目しない「言葉」を、まるで、偏執狂のように

  • 収集

する。

日本には近年のごとき莫大の著述言論あるにかかわらず、海の果てや山の奥に住む平民たちの歴史の暗いことは、俗に暗黒時代と称する中世も同じである。これまったく本といえば都府の産物で、本に基づく知識のみが学問の全部と看做されていた結果であって、いわゆる中央集権の文化の若き果実である。これあるがために今やカフェや百貨店の米国式生活をもって、一国の文化を推断せられんとしているのである。
柳田国男『青年と学問』)

この指摘は、平泉澄皇国史観に対する網野善彦の批判を思わせる指摘である。平泉澄は「豚に歴史があるか」と問うことで、歴史とは、天皇の歴史であり「王朝」の変遷のことであって、市井の大衆をうんぬんすることではない、とうそぶいた。
しかし、こういった発想は、現在の日本史や世界史の教科書にも大きく影響を与えている、と言える。私たちが学ぶのは、時の権力者たちの系譜といった「英雄伝」であって、そういった代表的な彼らをうんぬんしていれば、それで「歴史」が分かった、と言わんばかりの態度である。
そして、このことは、現代思想においても変わらない。時代の「流行」だとか、その時代の若者の視点だとか、と言っても、それは、ようするに、

  • 都会(=東京)の常識(=自明性)

の話でしかない。東京の話をしていれば、まるで、日本全体を語れるかのような、「自明性」を、フラット化と呼ぶわけである。
しかし、これは、逆に考えると、ある種の「エコノミー」が強いている態度だと言うことができるのだろう。彼らにしてみれば、都会に対して地方は、たんに都会に対して時間が遅れて回っているだけの場所にしか見えない。つまり、語る価値がないように思われてしょうがない。都会であり「中心」にしか、彼らの目線は届かない(例えば、彼らはそれを、ルーマンの言葉を用いて、複雑化する社会の「縮減(=フラット化)」と言ったわけである orz)。
こういった、東京人の「自明性」に戦いを挑んだのが、柳田だと言えるだろう。
柳田が、中央に対して、周縁を意識することを、どのように考えればいいだろうか。
例えば、ヘーゲル現象学において、歴史とは「世代」のことであり、都会であり中心のことだと言えるだろう。しかし、ヘーゲル(つまり、コジェーブ)の歴史哲学は、弁証法的に展開していく。つまり、主人と奴隷の関係で言うなら、この「関係」は保存されたまま、

  • 役割

が交代していく。つまり、奴隷は、いつの日にか、主人になるし、主人は奴隷に落ちる。これは「歴史法則」であって、この関係が変わることはない。
だとするなら、上記における「中心」とはなんなのか、ということになるであろう。
つまり、この関係とは、写真の比喩で言うなら、

  • ポジとネガ

の関係にあると言えるのではないか。歴史の中心とは、ポジのことであり、私たちが写真を見るときに、その「見えている」形である。しかし、言うまでもなく、その「形」がなぜ浮き上がっているのかは、その

  • 背景

があるからだ。これが「周縁」である。そういう意味で、周縁は、実際は「全体」である。これらは目立たないし、あくまでも「中心」における諸関係を、単純化して分析する場合には、不必要だとしても、絶えず、この中心を「侵食」し、形を変え続ける。そして、ある日、まるで「革命」が起きたかのように、なんの前触れもなく、中心と周辺、主人と奴隷は、役割を変える、

  • 反転する

のだ。
周辺とは何か。それが「方言周圏論」である。

つまり、沖縄と東北は、柳田にとって同等の価値をもつものであった。柳田の考えでは、南北の両極で一致する現象がある場合、それが古層を示すことになる。したがって、両方が不可欠なのである。
柄谷行人「島の人生 解題」)

なぜ、この関係が概ね、成立しうると柳田は考えたのか。それは、日本が「大陸でない」、島国であることと大きく関係している。
では、島国とは、どういった意味をもった地域なのか。
(こういった方法論は、もちろん、これを満たさない例外があることを認めないわけではないが、一般的な傾向として、これを前提にすることで、一種の「言論のエコノミー」を実現する。つまり、その人の発言を、簡潔に、文体化する。柳田の、ある種の特徴は、こういった「理論」が、彼の主張を「単純化」するとともに、そのことが、彼の主張の素朴な見通しのよさを与えもするのである。)

ただ、東北が柳田に「山人」とつながる世界を考えさせたのに対し、沖縄は、それまでとは異なる視点を与えた。それは、いわば「島の人生」という条件を考えることである。島は海に面して開かれているように見えるけれども、実は、海が大きな障壁となっている。大陸のように陸続きだから簡単に移動することができるのに、海はそれを許さない。そのため、ひとは互いに無用に争い、差別しあうことになる。そのような世界の苦痛を、柳田は「孤島苦」と呼んだ。しかし、それは沖縄諸島だけではない。ふりかえってみれば、日本列島中央であろうと島なのであり、そこにも「孤島苦」がある。
柄谷行人「島の人生 解題」)

島国は、どういった諸関係にあるのか。まず、島国であるということは、その「外」を考えてみよう。外とは、外国のことである。外国は、この「島」と、どういった関係において、結びつくか。
外国の文物は、基本的に、「都会(=東京)」を通して、島国に入ってくる。まずは、「都会」に一点集中的に外国の文物が降り注ぐ。ここから、その「流行」が始まるのだ。常に、あらゆる「ブランニュー」な出来事は、都会から始まる。では、その後、それらの文物は、どうなるか。自然と、その都会を中心に、同心円状を維持しながら、広がっていく。
この過程において、何が起きるか。周辺に広がるということは、その間、タイムラグが発生する、ということである。すると、まず、中心において、その流行の「消費」が完遂していく。つまり、ブームの終わり、である。お笑いタレントのギャグが、一年もしないうちに、だれもの頭の中から消えるのと同じように、一時期、人々を席巻した「はやり」はすたれる。では、この現象は、「周縁」においては、どういった動きをするのか。
まず、この流行が、周縁に広がっていくという場合、次の二つの層において考える必要がある。

  • この流行は、周縁の「末端」まで広がるかどうか。
  • この流行は、末端にたどり着いたとき、どういった動きをするか。

まず、前者においては、基本的に、上記で示した「消費」蕩尽に近い、と言える。ここで大事なポイントは、必ずしも、そのブームは、日本全国にまで広がるとは限らない、ということである。
では、後者の場合とは、どういうことか。この場合も、前者と同じ動きをするかもしれないが、違う場合がありうる、ということに注意がいる。なぜなら、最後まで行ったということは、このブームは「本物」である可能性がある、それだけの「ミーム」としての進化力があった、ということだからだ。
周辺とは、どういった場所か。上記の前者の場合がそうであるように、基本的に、あらゆるブームが、末端まで来るとは限らない。ということは、どういうことか。周辺は、比較的に「競争力」が弱いわけである。つまり、末端まで辿りついたとき、たとえ、その作法が中心においては「絶滅」したとしても、「そこ」では、比較的にしぶとく生き残り続ける可能性があるのだ。
これが、田舎が牧歌的と言われる理由である。田舎者はイモっぽいが、都会のように、やたら、競争を煽られて、みんなが神経症になっているような「病気」でない可能性がある。
田舎とは「ガラパゴス」のことである。つまり、過去の「遺産」の宝庫だと言える。このことは、今度は、中国という「大陸」の周縁としての日本を考えることもできる。中国の過去のあらゆる文物は、中国本国においては、ことごとく、流行として消滅していながら、それらが流れ着いた日本では、

  • いつまでたっても滅びない

むしろ、日本こそが「真の中国」なのだ。中国の昔の人たちが思い、願った「自分たちを未来永劫残してくれ」という願いを、本国の中国の人たちは、時代の流れとともに忘れていきながら、こと、日本に流れついた途端に、この異国の方々は、律儀に「いつまで」も、忘れないでいてくれる。
例えば、今の日本語は、平安時代の中国の中国語に発音も含めて非常に影響され、「そのまま」残ってきたものと言えるであろうし、さまざまな「文化」を含めて、日本を訪れる中国人は、ここ日本に、「昔の中国の真の姿」を発見して、この

  • 我が故郷(ふるさと)

に感動するわけである。
さて。
では「周辺」とは「どこ」か? こういった質問は自明に思われるかもしれない。それは、上記で示されているように、沖縄と東北なんだろ、と。つまり、言ってみれば、海岸際ということである。もちろん、この指摘は正しい。しかし、それは半分だけだ。残りの半分とは、

  • 山(やま)

である。どういう意味か。私たちは、日本と言ったとき、この細長い島を考える。ところが、この土地の「ほとんど」で人は住んでいない。つまり、海際の「平野部」にしか、人はいないのだ。このほんの一部の河川の流出口に作られた平野に、ものすごい密度で集中している。
どうして、こんなことふうになるのだろうか?
おそらく、その一番の理由は、「水の確保」であると考えられるのではないか。なぜ都市は巨大化できるのか。その一番の理由は、水の確保に、その土地が成功したからだ。一年を通して、大量の水を確保できる場所は、そもそも、日本の中でも限られている。それに最も成功しているのが、東京なのだろう。よって、東京が発展したことには理由があったのである。
しかし、このことは「逆」に考えてみる必要がないだろうか。私たちは、「私有財産」というものを前提にしていながら、なぜか「これだけの潤沢な水」にありつけていることに疑問をもっていない。なぜ私たちは、水を確保できているのか。つまり、これのどこが「私有財産」なのか。
上記の中心と周縁の二元論が、なぜ成立するのであろう。それは、日本が、島国であることと、非常に大きく関係している。
島国ということは、「大陸」でない、ことを意味する。大陸の特徴は何かと言うと、大陸は、「いくらでも逃げられる」ということを意味する。ある地域の慣習が自分に馴染まないと思ったら、その日に、その場所から逃げればいいのだ。
逆に言うと、島国はそれができない。逃げ場がないのだ。狭い人間関係の中で、その「外」が「ない」ような狭さなので、その人間関係に、どっぷり漬かって、死ぬまで、そこの慣習に自らを一体化させていくか、それがだめなら、生きることをあきらめるか、の二択しかない、ということである。
しかし、柳田は、決して、そうではなかった、と考える。
つまり、その人数はたとえ少なかったとしても、間違いなく、そこから「逃げる」選択をした人たちがいたんだ、と考えた。
つまり、柳田は、どんな社会にも、「逃げる」場所のない社会などないんだ、と考えた、ということである。
それが、「山人」である。

日本の歴史を考えるとき、「山」を欠かすことはできない。山地はいつも、平地の世界を嫌う人々が逃れていく場所であった。平地の世界が国家によって統治されているのに対して、そこから脱しているのが山地である。山地には自由で平等な世界が残存する。柳田は、先住民の狩猟採集人(縄文人)が、稲作農民によって追いつめられて吸収されるか、山に逃げたと考えた。それを彼は「山人」と呼ぶ。それはサンカやマタギ、あるいは椎葉村焼畑農民のような山民とは異なる。山人は実在するかどうか不明であり、しばしば天狗や妖怪の類と見なされる者である。山人は実在する、と柳田は考えた。『遠野物語』の序文で、柳田は「平地人を戦慄せしめよ」という。これは山人の怪談で人を怖がらせるという意味ではない。柳田が意図したのは、自身が椎葉村で衝撃を受けたように、平地人が見うしなった世界を再喚起することであった。
柄谷行人「山の人生 解題」)

日本人は昔から、山を恐れた。だから、山は信仰の対象となった。山には、仏教の修行者が暮らす場所でもあった。山は、そう簡単に、都会の平野で密集して暮らしている都会の「もやしっ子」が入れる場所ではない。
しかし、だからこそ、都会に馴染めず、集団の同調圧力に自分を合わせることができなかった、

  • 自由を求めた

人たちが向かったのが、山人だというのだ。
つまり、山は、「可能性としてのユートピア」ということになる。
日本の国土の数パーセントしかない、平野部に密集して暮らす、ほとんどの日本人にとって、その密集という「集団密度」が、人々の心を「神経症」的にしていく。あまりの密集は、頻繁に起きる、トラブルを常態化する。次第に、人々は「卑屈」になり、逆に「偏執」的になり、その関係は、

  • 国家

という、ある一点による、全体の「屈従」を前提とした、贈与と強制を必然化していく弁証法が始まる。その関係は、言ってみれば、どこか

  • 異常

なのだ。なぜなら、この関係は、なんらかの「自由」に対する「あきらめ」が結果したものだからだ。

柳田は視察旅行で宮崎県の椎葉村を訪れたとき、衝撃を受けた。彼が理想としていた「協同自助」の世界が、焼畑狩猟民の村で実現されているのを見たからだ。以来、彼は「山の人生」について考えるようになった。しかし、それは平地の世界、あるいは農業民を、別の角度から考え直すことである。
柄谷行人「山の人生 解題」)

焼畑農法は、ある意味において、背理の農業である。というのは、その焼かれた土地は、作物の採り尽した時点で、もはや、再び甦ることのに、捨て去られた土地に帰るからだ。つまり、焼畑農法は、二度と帰ることのない、人間文明の象徴だと言えるだろう。焼畑となって、禿げ山となって、世界は砂漠となり、人間の住める土地は狭まってきた。
しかし、逆に言うなら、焼畑農法は、真の「平等」と「自由」を実現した、と言うことができる。焼畑が、平野に密集し、濃密な人間関係の中で、窮屈な上下関係に縛られ、さまざまな軋轢に病気になり、精神病になることに耐えられなくなり、「逃げてきた」人たちに、真の「自由」と「平等」の

を与えたのだ!
焼畑農業は、私たちに、私たちが以前において「自明視」していた、国家のような濃密な人間の、服従と依存、飼育と「保護」の、神経症的な国家的作法が「自明」となる以前の姿を、かすかに見せてくれる。私たちに、「自由」であり「平等」であることが、どういう意味なのかを考えさせてくれるのである。
(言うまでもないが、ここにおける「焼畑農業ユートピア」は、柄谷さんの『哲学の起源』において検討された、古代ギリシアのイソノミアであり、アメリカ建国におけるアナーキズム的な、アナルコ・キャピタリズムを思わせる形に非常に近いことが理解できるであろう。つまり、柄谷さんが、ここで、「何」を、自由であり平等であると言っているのか、その差異を十分に理解する必要があるわけである。)

柳田の民俗学=史学がもたらした認識は広大である。その中で、今でも(多くの人にとって)新鮮と見えるものをあげておきたい。その一つはオヤ・コである。たとえば、日本の組織には親分・子分の関係が見られる。これは組織を、疑似家族的に見立てたものだという見方が普通である。しかし、柳田によれば、オヤ・コは労働組織によるものである。つまり、親分・子分のほうが先であり、いわゆる親は「生みのオヤ」にすぎない。したがって、親分・子分の関係が日本社会のあらゆるところにある。
柄谷行人「日本の歴史 解題」)

私は、いわゆる、生物学を「核家族」の延長で考えることに、昔から、大きな疑問がある。つまり、家族という「親」と「子」という区別が、どうしても、しっくりこないのだ。なにかが違うのではないか?
柳田は、そもそも、「オヤ・コ」は、親子ではない、と言う。というか、むしろ、親子に先行して、労働組織があるのだ、と言うのである。
つまり、親子に先行して、親分・子分があったのだ、と言うのだ。私はむしろ、こちらの考えの方が、いろいろなことを説明できるのではないかと思っている。
というのも、なんと言ったらいいのか分からないが、いわゆる「核家族」における、パパ、ママ、ボクの関係が、どうしても私には不自然に思えて、しょうがないのである。
確かに、パパ、ママ、と、ボクは、生物学的には、半分ずつの遺伝子を受け継いだ、近しい関係なのかもしれない。しかし、だとするなら、パパ、ママ、の兄弟たちとは、どうだろうか。皮肉な言い方だが、どれくらい、遺伝子的に違っているのだろうか。同じように、ある近親交配を繰り返してきた、村社会を考えてみてもいいであろう。彼ら村の住人たちの、そもそも、遺伝子的な違いをうんぬんすることに、果して、どれだけの意味があるだろうか。
みんな「近い」のではないか。
このことは、近代以降の、例えばフロイト心理学において、パパ、ボク関係や、ママ、ボク関係が、往々にして「異常」な「偏執」的な精神病として考えられることを、なにか象徴しているように思うわけである。
親子の前に、親分・子分があったという柳田の思想には、どこか彼自身の透徹とした一貫性を感じさせる。柳田の思想は、間違いなく、私たちの常識や自明性に「挑戦」してくる「怖さ」を感じる一方において、このポジとネガの関係における「ネガ」の重要さを、再認識させられるのである...。