あなたは博士か?

正直、小保方なんとかという個人なんて、どうでもいいし、もうこの話はうんざりなのだが、今一歩、はっきりしないのが、彼女の博士論文のコピペ話であろう。興味深いのは、どうしてこっちの問題は、一向に話が進展しないのか、なのである。
おそらく、そもそも、この「博士号」をもっている日本人が少ないのと、では、この国際比較を行うために、アメリカの大学の「博士号」を持っている日本人、または、日本で生活して日本語を話している外国人が、どれだけいるのか、ということなのではないか。
まず、いないんじゃないか。というのは、前にブログで紹介した記事では、そもそも、アメリカでは、そう簡単にドクターの称号がとれない、という話だからだ。向こうでは平均取得者の年齢が、30歳を超えているという話で、それで、日本の博士号までもっているとなったら、ずいぶんと、変わった人となるんじゃないですかね。
つまり、両方を比較できる人がいないのだ。さらに、理系と文系の話もある。理系がどのようにして、博士号を授与しているのか、文系ではどうなのか。こういった違いを知っている人も少ない。
そういった中で、めずらしく、小保方擁護として、記事を書いているのが、以下だ。

また、早稲田大学大学院時代の小保方氏の論文に対する「疑念」までも報じられているが、これも、今回の問題に端を発した「小保方いじめ」ではないかと感じる。
メディア中心に社会全体が最初はあれほど持ち上げておきながら、今になって小保方氏の研究全体や人間性までもこき下ろしている。30歳そこそこの未熟な研究者へのいじめとしか見えないし、人権侵害に当たるのではないか。
そもそも日本では博士号を取得するために、博士後期課程の約3年間に3本程度の「査読論文(指導教官以外の外部の研究者による判定付き論文)」を書かなければならない。そして、その査読論文をまとめる形で学位論文として提出するのが一般的だ。ある著名な大学教授はこう指摘する。
「短期間で実験も重ねて論文を大量に書かないといけない中で、博士論文程度であれば、ある程度コピペしているのは仕方ない。そもそも学位論文は学んだことを書くべきもので、そういう意味からも先達の研究を学んでコピーすることを否定してはいけない。学位論文でコピペを否定していたら、多くの学生は学位が取れない。
新しい発見は研究を重ねていく中で見つかるものであり、学位論文など『研究者の卵』の評価は、着眼点やこれから研究者としてやっていけるかといった資質など人間性の方が大切」
小保方晴子氏を「犠牲者」にした独立行政法人・理研の組織的欠陥(井上 久男) | 現代ビジネス | 講談社(5/6)

さて。なぜ、この答えている人は「匿名」なのだろう? 言いたいことがあるなら、堂々と名前を出して言えばいいんじゃないだろうか。そして、この人に博士号をもらった人の博士論文は、すべて、どっかからのコピペで作られているかを、チェックする必要があるんじゃないだろうか。
上記の引用で、強烈なのは、コピペの「言い訳」として、

  • 時間がない

ことを理由にしているところであろう。そして、興味深いのは最後の部分で、そもそも、日本の博士号は、なんらかの発見に対して与えられるものではなく、学んだことの「まとめ」サイト的な意味での「まとめ」でしかない、と言い切っているところなのかもしれない。
日本の大学はこれで行くんだろうか? これでいいんだろうか? つまり、日本の大学の博士号は、アメリカの博士号とは違って、「修士号」レベルで行きます、ってことで。
そもそも、日本の学者は、なにか、「新しい」ことを、生み出しているのだろうか? そもそもの明治時代に、日本に大学ができたときから、日本の大学とは、「輸入学」であった。欧米の最新の知識を日本に紹介することを使命としていた。
私はむしろ、逆に聞きたいのだが。なにか新しい「知」を発見したかどうかではない「観点」によって、学問の「評価」がありうると言われるなら、それは、どういう意味なのか、と。
というか、よく考えてみてほしい。その「観点」を評価するといった場合、それは、誰が、どういった視点で、行いうると思っているのだろう?

査読論文とは、レフリーと呼ばれる査読者がその中身を判定するものだが、その判定者は覆面ながら、同じ学会の学者であるケースが大半だ。ある意味で「身内」なのである。
たとえば、経済学系の査読論文で査読を通過しようと思えば、「社会学系の論文の引用はするな」といった指導が行われるケースもある。その理由は、経済学者である査読者が社会学系の論文を知らないこともあるからだ。
馬鹿げた指導のようにも見えるが、査読を通そうと思えば、「身内の理論」が優先され、その「身内の理論」の中で処世術にたけた人物が論文に「合格点」が与えられて研究者の職を得て、学会の重鎮となっていくシステムである。
いくら着眼点が優れていようが、ユニークな研究手法であろうが、「身内の論理」にはまってなければ、評価は得にくい。はっきり言ってしまえば、大した研究もしていないのに、学会の権威に気に入られれば、学会にすがって生き延びていけるのである。
だから本当に優れた研究者の中には、査読論文を辞めて、学会に投稿前に論文をホームページなどにさらして、学会以外の外部専門家の評価を得るべきとの声も出始めている。最先端のライフサイエンスでも、バイオやナノテクや様々な研究や学問が融合しているやに聞く。狭い学会内の判断だけで適切かつ正当な判断ができているのだろうかと思う。
小保方晴子氏を「犠牲者」にした独立行政法人・理研の組織的欠陥(井上 久男) | 現代ビジネス | 講談社(5/6)

そもそも、その人が、なにか科学の視点で、新しい知を発見したんだ、という「以外」の形で、形式的な「資格」の授与をしていくと、どこかで、その人を追い詰めていくことにならないだろうか。
いつまでたっても、一本も科学雑誌に載せられるような論文を書けなかった場合、その人を、どこまでも追い詰めることにならないだろうか。
だったら、最初の段階で、それなりに新しい知を生み出した、という論文を書いた人に、それに対応した「対価」としての、資格を与えるという形にした方が、本人たちも納得感があるのではないか。
おそらく、それを許さない、金銭的な事情が、日本の大学にはあるのだろう。まったく、国からの金銭的な支援がない、日本の学生たちは、そもそも、どうして大学に在籍していられるのだろう? 親の潤沢な生活費の支援によってか? お金持ちの家に生まれたから、大学で半分、娯楽の趣味として、遊んでいられる、ということなのか?
そもそも、日本の大学というのは、こういった意味で、非常によく分からない、アナーキーなところになっているのかもしれない。なぜ、日本に大学が存在していて、今のようにあるのか。おそらく、その歪(いびつ)な形を反映して、在籍する学生たちの心も歪(いびつ)にする。
私たちの社会は、この社会の歪(いびつ)さに対応した、人々しか生み出さない。私たちの今の姿は、この社会の姿を、合わせ鏡として、写し出したものにしかならない。大衆を嗤う人は、その大衆が生きる、この社会そのものの歪(いびつ)さを嗤っているのであって、つまりは、自分が今あるその姿そのものの根拠を嗤っているわけであって、つまりは、自分を嗤っているわけである...。